Wikipedia:井戸端/subj/「独自研究」タグの内容について

「独自研究」タグの内容について[編集]

以下の「独自研究」タグの内容について疑問に思われることがあるので、他の方からのご意見を伺いたく、憚りながらこちらに書き込みます。

見られるようにこのタグの内容は、三つの文で構成されています。今この三つの文に便宜上、以下の通り順に①、②、③と番号を付けます。

① この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。
② 問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。
③ 議論はノートを参照してください。

疑問というのは、①の後に続く②の内容についてです。

このタグを記事に貼った人は、当然ながらその記事内容に独自研究が含まれていると判断したことになる。

しかし②では、「問題個所を検証」することを他者に求めている。このタグを貼った人はすでに何らかの判断によって、「この記事内容には独自研究が含まれている」としたはずである。その上で他者に求める「問題箇所」の「検証」とは何だろうか。またここで問題にしているのは独自研究についてであり、「出典を追加して」という文言があるのもよくわからない。

これら疑問の是非について、ほかの方からのご意見を伺えればと思います。--ものぐさたろう会話2018年9月10日 (月) 00:06 (UTC)[返信]

コメント まず「この記事内容には独自研究が含まれている」ではなく、「この記事内容には独自研究が含まれている可能性がある」と解釈すべきではないでしょうか。出典が提示されていない記述があった場合、「その話はどこどこで聞いたことがある」「どこかで目にした記憶がある」という場合には、Template:出典の明記Template:要出典を付与することになります。同じく出典がない場合で「そんな話、聞いたことない」と思えたり、「これこれの事柄と矛盾する」という場合に、「独自研究のおそれがある」と判断してTemplate:独自研究を付与することになります。
②の「検証」については、その記述が正しいのかどうか、信頼できる情報源があるのかどうか、を検証するという意味ではないでしょうか。そして、検証の結果記述が正しければ、適切な出典を追記した上で記述を残せばよい、ということになります。また、タグには説明文だけでなく方針「Wikipedia:独自研究は載せない」へのリンクがありますので、説明文だけで分かりにくい場合はそちらを読むようにというメッセージとも考えられます。
僭越ながら、以上ご参考になれば幸いです……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話) 2018年9月10日 (月) 03:59 (UTC) 脱字を下線部の通り補填し、一部段落分けさせていただきました……(>_<")。--Assemblykinematics会話2018年9月10日 (月) 12:52 (UTC)[返信]
コメント そも、貼った当人がそれをせずに執筆しても結局同じ「独自研究」の範疇に入ってしまう(つまり、元の独自研究文章を独自研究文章で混ぜっ返しただけという)可能性があることをお忘れではないでしょうか。もっと言えば、「何が独自研究でないか」は第三者にしか判断してはいけないわけでして。
例えれば「釈迦は左利きであった」という文章が編集者Aによって書き加えられたとしてそれに編集者Bが[要出典]を付与した場合、Bは「『釈迦は右利きであった』or『釈迦は左利きではない』と確信している」のではなく、「『釈迦は左利きであった』という証拠がない」から貼り付けているわけです。まあこの場合はほぼAに向けたテンプレートなわけですが、Bは釈迦右利き派とかそういうのではなく"ウィキペディアに相応しくない状態"を指摘すべく要出典としたわけです。そこで例えば物好きな第三者や熱心な仏教徒が仏典などを参照して決定的な証拠を提示してくれる(かもしれない)し、piやsaを読めるウィキペディアンが他言語の記事から証拠を転用して問題点を改善してくれるかもしれないと消極的に期待しているから「ご協力下さい」と書かれているわけです。そして当然そのテキストは元の文章よりもより独自研究色を落とさなければならないという点で「問題箇所の検証」という表現は妥当だと思われます(なお、この例は問題点を簡単に取り出すためのものであり、通常こんな記述を加えてもコミュニティを疲弊させるだけの完全な独自研究かつトリビア的記述なので即時削除されるであろうことを申し添えます)。恐惶謹言。--力在領域会話2018年9月10日 (月) 13:28 (UTC)[返信]
コメント - 独自研究とは(情報の合成など)用いられている出典の解釈がまずい状態を指しているので、それを解消するために使われている出典を参照して記述内容と照らし合わせて検証したり、あるいは別の出典を探して補強することで独自研究ではないと言える状態にしたりする必要があります(「出典を明記して」ではなく「出典を追加して」となっているのは単に出典がないのではなく、出典はあるが現状の記述を検証可能にするには足りないということを示しているのだと思います)
これらの作業について、既に当人の判断で問題を解消する手筈が整っているのであればこのようなタグを貼らずその手で編集してしまえば済むことなので、第三者に意見を求める必要がないならこのタグは不要です。Template:独自研究/docにもあるように、このタグは問題個所の議論提起をするためのテンプレートです(ノートへの誘導がなく、また単純に出典さえ明記すれば解消できるTemplate:出典の明記と明確に異なり、両タグを使い分けるポイントの一つでもあります)。したがって、このタグを用いるのは第三者に問題個所の検証協力を求めるときであり、文面としては真っ当だと思います。--ButuCC+Mtp 2018年9月10日 (月) 17:08 (UTC)[返信]
  • コメント 《このタグを記事に貼った人は、当然ながらその記事内容に独自研究が含まれていると判断したことになる》という理解がちょっと間違っています。何らかの記述を「独自研究である」と断言することは悪魔の証明です。断定は「あらゆる信頼できる情報源に記述が存在しないことを確認した」場合にしかできません。それを踏まえてテンプレートでは「独自研究のおそれ」と表現されていますし、もし独自研究でないのであれば「出典」が存在するよねという意味での後続の文章です。--iwaim会話2018年9月10日 (月) 17:54 (UTC)[返信]
  • コメント「独自研究」タグの履歴を見てみました。2012年にこの提案で大改訂され、メッセージに新たに「問題箇所の検証」が付け加えられています。参考までに現在の英語版{{Original research}}のメッセージを訳すならば、「この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。ノートに関連する議論があるかもしれません。どうか(記事の)主張を立証し、個別参照を加えることで記事を改善させてください。独自研究のみの表現は除去されることがあります。」というもので、日本語版とトーンがやや異なります。
なぜ「検証」まで求めることになった経緯は不明ですが、個人的には行き過ぎかなと感じます。執筆する側に立証責任があるのですから、第三者は「問題箇所の検証」をせずとも、独自研究状態が続いているのであれば、自由に記事改善して良いものと考えます。
で、話は戻りますが、「独自研究」タグのメッセージから「検証」を除いて、英語版と同じ表現に変更したほうが良いのではないでしょうか。--Iso10970会話2018年9月10日 (月) 22:55 (UTC)[返信]
皆様コメントをしていただきありがとうございます。たしかにAssemblykinematicsさんやiwaimさんが仰る通り、これは断定する表現ではないとすべきでした。見方を訂正いたします。しかし自分にはまだわからないことがあります。
これは「独自研究」タグの話で①の内容から見ても、そのすぐ後に続く②の「問題箇所」とは文脈上、独自研究に関しての事であり、すなわちAssemblykinematicsさんの表現を借りれば、このタグを貼った人の「そんな話、聞いたことない」または「これこれの事柄と矛盾する」といった見方を指しているとしか受け取りようがない、と思われます。そうではないのなら、このタグは誤解を招くおそれのある内容を含んでいることにはならないでしょうか。これはあくまでも、このタグの文だけを読んだ上での話です。
また、ならばこの「独自研究」タグや「独自研究」という言葉は必要があるのだろうか、ということです。つまり独自研究であるかどうかの是非にかかわらず、その記事や記述に問題があるというのならば、それを指摘するのは「要出典」タグなどで事足りるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。皆さんからのご意見を伺いたいと思います。--ものぐさたろう会話2018年9月11日 (火) 00:30 (UTC)[返信]
コメント 現状の文章が万全かは別とさせて頂きますが、現状の文章が適切であるケースは考えられます。
例としては、現状の文章(指摘部分)が「独自研究」に当てはまると考えられるが、文章の蓋然性が高い(あるいはそう見える)等、あるいは出典の提示が可能なのではないかと考えられる場合です。この場合、該当分野の知識が深い人間であれば、これを検証して、適切な出典を追加することで記事の改善を行うことができるかもしれません(無論、最終的に適切な出典が存在せず、本当に独自研究である可能性もあります)。
こういった場合も、問題の提起者は問題点の指摘を行っているだけであり、最終的に出典の追加が必要であるのか、文章の削除や修正が必要なのかは判断できていないわけですが、問題点の指摘としては誤っておりません。
端的な部分のみ申し述べさせていただきましたが、もし、疑問解消のお役に立ちましたならば幸いです。--114.182.175.15 2018年9月11日 (火) 03:16 (UTC)[返信]
返信 (ものぐさたろうさん宛) {{独自研究}}の付与は「編集除去まではする必要性は感じられないけど問題である」「編集除去を実施するほどの確証はないが独自研究であると判断する」という場合に実施されます。問題のある独自研究であれば即座に編集除去すればよい話ですからね。テンプレート内の文言に特に問題があるとは私は考えていませんが、問題があるとお考えであれば改定案を出していただければよいのではないかと。(実際の書き換えを前提とした本格的な提案は井戸端よりも別の場所の方が適切です)
《つまり独自研究であるかどうかの是非にかかわらず(略)それを指摘するのは「要出典」タグなどで事足りるのではないか》については三大方針を思い出してください。「Wikipedia:中立的な観点」「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」の3つのことです。「検証可能性」と「独自研究は載せない」が同じレベルの方針とされていることにはそれなりの理由があります。それを鑑みると三大方針それぞれに対するテンプレートが存在することが妥当であると私は判断します。「検証可能性」が満たされているのであれば独自研究であるとは言えないのだから「独自研究は載せない」という方針は不要だよね、というのは何か変だとは思いませんか?--iwaim会話2018年9月11日 (火) 03:34 (UTC)[返信]
いえ、自分は「独自研究は載せない」という方針が不要だといっているわけではありません。自分の言い方が悪かったようで申し訳ありません、改めてご説明いたします。
皆さんがコメントしていただいたことは、独自研究のおそれがあると見なされた記事や記述は、その記事や記述に関わる文献(出典)を探し求めこれを調べ、その上で記事や記述の是非を確めるべきと仰っているのだと自分は理解しました(この理解が誤っているのであればご指摘ください)。しかしこの手続きは、独自研究に限る事だろうか。なんにせよ、記事や記述に問題ありと見なされた場合、それにかかわる文献(出典)を確かめて記事や記述を書き替え、また議論することになるはずです。すると独自研究という言葉を使わなくても、たとえば「この記事には問題があります。問題箇所を(以下略)」などという表現でも間に合うのではないかと思ったのです。「中立性」や「検証可能性」も含めた多くの問題も、その問題をあらわすタグや言葉が必ず使われるべきとは言えないのではと思いました。--ものぐさたろう会話2018年9月12日 (水) 00:56 (UTC)[返信]
 追記 「問題といってもそれだけでは、何がどう問題なのかがわからないではないか」というご意見もあるかと思います。それは③の「議論はノートを参照してください」とあるように、本来ならばその記事のノートで問題点が述べられ、議論されることになるのだろうと思います。--ものぐさたろう会話2018年9月12日 (水) 02:15 (UTC)[返信]
コメント 《すると独自研究という言葉を使わなくても、たとえば「この記事には問題があります。問題箇所を(以下略)」などという表現でも間に合うのではないかと思ったのです》については、そもそもわざわざ曖昧な表現にするメリットがありません。読者はどのような問題があると指摘されているのかをざっくりと理解できますし、執筆者側としても改善のための優先度をそれによって検討することができるかもしれません。--iwaim会話2018年9月14日 (金) 19:56 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。たしかに「どのような問題があると指摘されているのかをざっくりと理解」するための表現がされるべきだと思います。自分は手続き上の事だけを見てそう思ったのですが、考えをあらためます。--ものぐさたろう会話2018年9月15日 (土) 00:25 (UTC)[返信]
コメント - 出典がない(検証可能性)ことと独自研究である(独自研究は載せない)ことは別の問題です。私は前者は内容の検証さえできない状態、後者は内容を検証したら出典元と比べて今の文章はおかしいという状態を指していると考えています。--ButuCC+Mtp 2018年9月11日 (火) 04:30 (UTC)[返信]
コメント 編集競合したので迷いましたが、この位置でコメントさせていただきます。
まずIso10970様が英語版Template:Original researchに触れていらっしゃいますが、「verifying」が検証、「claims」を問題個所という風に訳しているのではないでしょうか。個人的にはそれ程不自然な訳には見受けられませんでした。
次に、ものぐさたろう様の疑問が呈されている件について。改めて方針文書である「Wikipedia:独自研究」を眺めましたが、
 XX年、○○は家庭の事情で転職を決意[1]。
 ...<中略>
 ○○はYY年x月に△△と出会い、強い影響を受ける[2]。○○はYY年y月に□□へ異動した[1]。
 ...<中略>
 ZZ年、○○は△△の影響で◇◇を著した[2]。
という文章があった場合に、
  • ○○はYY年x月に△△と出会い、強い影響を受けた[2]。○○はYY年y月に□□へ異動した[1]。
の部分を
  • YY年、○○はy月に△△と出会い、その影響でz月に□□へ異動した[1][2]。
という記述に改変した場合が、「出典は提示されているけれども独自研究」という状態に当ると思います。また、「……は聞いたことない」「……と矛盾する」という場合には、Template:要検証を付与するという手もあります。一つの問題に対して対処法は複数ありえそうです。
今回改めて方針を読み直し、こちらも勉強になりました。貴重な議論を提起していただき、ありがとうございました……m(_ _)m。--Assemblykinematics会話2018年9月11日 (火) 21:33 (UTC)[返信]

コメント こんにちは。既に蛇足的ですが、個人的にコメントさせてください。(1)「独自研究」タグは、確かに一見異なる①②③が含まれており、「要出典」タグとの使い分けもあり、実際には利用者や記事などによって判断の幅が広いこともあり、良く議論になる存在とは思います。ただ私は(慣れてしまったせいか)過去の議論の積み重ねもあるから、重層的・多面的な表現も仕方ないかなー、でも改善案があるなら検討するのは良い事ですね、といった立場です。(2)①の「おそれがあります」は「可能性があります」という意味と思います。ただ「可能性がある」と言うと、「0.001% はあるかもしれない」と片端から付ける人も出そうなので「可能性が高い ---> かなり怪しい -->(読者目線で言うと)誤解する恐れがあるから注意してね」との発想で「おそれがあります」となった面もあるのかもしれません。(3)iwaimさんが既に書かれていますが、「独自研究」と「要出典」は、似ているし、重なるけれど、同一ではない。個々の出典を多数つけていても、情報の合成などで誘導するようなものは「独自研究」と思います(特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成)。逆に、出典が全くないのに、独自研究ではなく、全く誰も問題視していない記事や記述は山のようにあります(良し悪しは別として全記述の大多数は無出典では?)。思うに「要出典」は「検証可能性」つまり、他のユーザーが根拠を再検証できるための技術的なルール(品質管理の基礎)、「独自研究」は形式よりも内容的に、勝手なことを書いてはいけないよ、という趣旨かなとも思います。(現実には、どちらも出典を元に議論するので重なりますが。)--Rabit gti会話2018年9月11日 (火) 14:48 (UTC)[返信]

新たなコメントがないようなので、ここで発議者として申し上げます。
今回皆さんのご意見を伺って「問題箇所」云々についての事情について知ることができました。ありがとうございます。しかしその上で、以下のようなことが頭に浮かびました。
一般社会において、複数の人間が関わる物事で「この〇〇はおかしい」と発言した時、「〇〇のどこがどうおかしいのか」といういわゆる突っ込みが入るのが普通です。要するに発言者は何がおかしいのかを説明する必要が生じます。
この「独自研究」タグの場合はどうか。はじめに「この記事には独自研究が含まれているおそれがある」とあれば、「この記事のどこにそうした問題があるのだろうか、聞きたいものだが」と思うのが人情です。しかしその次には「問題箇所を検証し出典を追加」することを要求されます。「〇〇のどこがどうおかしいのか」という突っ込みを許す間もなく、問題解決を他者にゆだねることになります。「議論はノートを参照してください」とあるので、ノートで「独自研究のおそれがある」とは何を指すのかを説明していればいいのですが、ノートにそれがなければ何が独自研究とされたのかがわからない。
「その記事についての詳しい知識を持っている者がそういう記事の編集をすればいいのだ、だから別に何がどう独自研究だといちいち説明する必要もないだろう」という向きもあるかと思います。しかしこれが2000バイト程度の記事ならまだしも、たとえば100000バイト前後の記事のどこに独自研究があるのか、それが示されずにただこのタグだけが貼られたらどうなるか。記事の初めから終りまで読んで確かめるしかありません。これは他者に必要以上の負担をかけることにならないでしょうか。たとえその記事に対して詳しい知識を持った人だとしても同じことだと思います。
自分はこのタグの内容については、なおこうした疑問を拭えずにいますが、皆さんからいただいたコメントを読み、今回はタグ内容の改訂を提案することはしないでおこうと思います。
今回コメントされ、またお付合いいただいた皆様方には改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。--ものぐさたろう会話2018年9月13日 (木) 01:00 (UTC)[返信]
コメント 《「議論はノートを参照してください」とあるので、ノートで「独自研究のおそれがある」とは何を指すのかを説明していればいいのですが、ノートにそれがなければ何が独自研究とされたのかがわからない》については仰る通りであると判断します。そのような場合は履歴を追って、その懸念を提示した(テンプレートを用いた)人に問い合わせてみれば良いだけのことです。まあ、もちろん活動が停止していたら無理ですが。また、別の手段としては(記事を読んでみたりした上で)自らの手でテンプレートを編集除去することもできます。「ノート等での具体的な指摘を必須とする」というようなルールにすることはアリだろうとは判断します。--iwaim会話2018年9月14日 (金) 20:01 (UTC)[返信]
タグ(テンプレート)を貼った人に聞いてみればよいというのはその通りです。ただし仰るように活動を停止していたり、可変IPの人だったりすると聞くことができませんね。また手間を省く点からも、最初から「ノート等での具体的な指摘を必須とする」といったルールがあったほうがよいと自分も思います。--ものぐさたろう会話2018年9月15日 (土) 00:25 (UTC)[返信]

コメント ものぐさたろうさんは①と②の主語(人格)が異なる点に疑問を持っているようですね。しかし社会の大多数の法律や規則や注意書きと同様に、最初はシンプルでも、複数の人が色々な角度から意見を追加すると、複雑で一貫性が低いような形になります。しかし、それなりの背景を少し推測すれば、それほど特異な記載には見えないと思います。①(おそれ)は一般読者へも含めた注意喚起なので最初にあります。②は一義的には編集者向けですが、ウィキペディアは多くの人の参加を期待しており、タグ掲示者自身も含まれるし(議論に加わった方が望ましいが必須ではない)、読者が参加しても良い訳です。例えば「この記事全体が独自研究の蓋然性が高いな」と思えばタグを貼り、以後は「詳細に見ると、こことここが要確認ではないか、出典はないか」などの議論となり、③それらの(過去を含めた)経緯はノートです、という構成かと思います。つまり当タグには、①読者への注意喚起、②(本人や読者も含めての)改善への呼びかけ、③議論場所のガイドとの3ポイントが列挙されていると思います。--Rabit gti会話2018年9月13日 (木) 12:33 (UTC)[返信]

Rabit gtiさん、コメントと丁寧なご説明ありがとうございます。①、②、③の意図するところの解説よくわかりました。そうした議論の仕方のために、このタグは使われるということですね。ただタグ提示者の議論参加は必須としたほうがよいと個人的には思います。そうではないと言い出しっぺがどこかに行ってしまい、他の者がその後始末をする…というようなイメージを自分はどうも持ってしまうのです。それも実際の議論の支障となる事ではないのなら、自分個人の感想に過ぎないものではありますが。--ものぐさたろう会話2018年9月14日 (金) 00:08 (UTC)[返信]
コメントものぐさたろうさんのおっしゃる通り、タグ掲示者がノートの議論に参加して説明責任を果たすのが、実際には一番スムーズとは思います。ただウィキペディアへの参加形態はボランティアで自由なので、「タグ(問題提起・注意喚起)のみ)」「(タグは貼らず)議論参加のみ」「(議論には加わらず)情報提供のみ、揉めた時のガイドのみ」「(記事には関与しないが)ガイドやツール作成のみ」など、部分的な参加(貢献)も全く自由で、実際に多いと思います(私も時期により色々です)。勿論、他の方がタグ掲示者に「どこが問題ですか」と対話を試みる事も出来ます(そこで説明責任を果たさなければ、議論の結果、コミュニティの合意としてそのタグは除去となるかもしれません。ただし安易に除去してはいけません)。そもそもタグは貼らずにノートで議論が始まるケースも多数あります。そういう意味ではタグは「まずは一般読者への注意喚起。次に議論参加の呼びかけ」かと思います。つまり「おかしいと気づいた。読者は注意してね。議論した方がいいよ。」という指摘だけでも意見(貢献)で、指摘者が議論に参加する形が理想だが、義務では無いと思います。確かに、結果としてこのタグが無暗に多数残り続けているとは思いますが、ウィキペディアの議論では1人でも反対なら合意できない(多数決主義ではない)のと同様、「1人でも疑問なら注意喚起を消してはいけない」のかと理解しています(多数派による専制の防止)。--Rabit gti会話2018年9月15日 (土) 05:14 (UTC)[返信]
コメント 本題からみると余談ですが大事なことなので。《ウィキペディアの議論では1人でも反対なら合意できない(多数決主義ではない)のと同様、「1人でも疑問なら注意喚起を消してはいけない」のかと理解しています(多数派による専制の防止)》については概ねその通りですが、状況次第です。事実、反対者がいたところで合意が成立することもあります。--iwaim会話2018年9月15日 (土) 16:23 (UTC)[返信]
返信 (Rabit gtiさん宛)  それぞれの役割を分担する上で、タグ提示者はタグを貼るだけでもその役割は足りているということですね。ご説明ありがとうございます。ただ上でiwaimさんが仰られるように、「ノート等での具体的な指摘を必須とする」という条件を付け加えてもよいのではとも思います。--ものぐさたろう会話2018年9月16日 (日) 00:55 (UTC)[返信]