Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない/過去ログ9

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「独自研究」でないことを示す方法[編集]

質問

日本語Wikipedianの皆様、ご意見をおうかがいしたい点がございます。

もし、あるstatement (文、主張)に対する疑問が{{要出典}}テンプレートなどによって呈されたときには、出典を明記する (cite)ことがWikipediaの方針であると思います。そうしなければその主張は独自研究にあたることになると考えられますが、いかがでしょうか?

 少なくとも、英語版の「独自研究は載せない」にはそう明確に記載されています(注1参照[* 1])。 

英語版に基づいて以下述べます。

そこで、{{要出展}}タグなどによる要求があるにもかかわらず、もし、その主張(statement, 文)の信頼性のある出展が明記されない場合は、その文は独自研究となり、削除されても仕方がないと考えます。注意したいのはその主張(文)が独自研究でないと逆に主張するためには、問題とされた文が正しいかどうかではなく、そして、出典があるというだけでなく、本文に出展の明記(cite)がまずされなければならないということだと考えます。

出展が明記(cite)されても、Wikipedia記事中のその主張が、原情報の主張から導き出せないという疑問が呈されたとき(例えば、{{要検証}}により)、それについて議論し、それでもなお、合意が得られないときにはやはり「独自研究」となり、削除されても仕方がないと考えます。

合意が得られないときに解決できる唯一の方法は、原情報の該当主張の箇所を引用[* 2]することであると考えられます。 原情報でその主張がされているわけですからその主張は検証可能です。 検証可能性があればWikipediaの記事として載せてもよいはずです。 特筆性の問題が残りますがここでは省かせてください。

その引用箇所が記事の中立性を損なうと、疑問を呈した側がなお感じる場合は、疑問を呈した側自身は、疑問を感じるその原「主張」はそのままに、自分の考える「主張」、又は、それを裏付ける情報源の「原主張」を、該当箇所に併記、または、注などとして追記することが必要と考えます。 決してもとの「主張」を削除したり、削除要求をすることではないと思います。 

私は以上のようにWikipediaの方針を理解いたしました。

いかがでしょうか? ご賛同いただけますか? しばしば見られると聞く無用の編集合戦や単純なタグの貼付けと引き剥がしの繰り返しなどを抑えるには、現在の日本語の「独自研究は載せない」の文書のこの曖昧な点[* 3]を修正すべきではないかと考えています。——以上の署名の無いコメントは、Kanehiro(ノート履歴)さんによるものです。--Bugandhoney会話2012年10月12日 (金) 14:14 (UTC) 

資料: 両言語の「独自研究は載せない」からの引用

資料から直接の引用を行う場合、また内容に疑問が提出された、もしくは疑問が提出されそうな情報には、その裏づけとなる信頼できる資料を示さ[* 4]なければなりません。本方針によって規定している「独自研究」にあてはまる情報とは、信頼できる裏づけ資料が一切見つからず、そのため投稿者の独自の考えなのではないかと考えられるような情報です[1]

Any material that is challenged or likely to be challenged must be supported by a reliable source. Material for which no reliable source can be found is considered original research. The only way you can show your edit is not original research is to cite a reliable published source that contains the same material[* 1][2].

注(*)
  1. ^ a b Kanehiro訳: あなたが編集したものが「独自研究」でないことを明らかにできる唯一の方法は、同じ題材・ネタ(material)を含む信頼でき、公開されている情報源の出典を明記することです。 
  2. ^ 英語:quote, quotation. この引用は著作権のいう引用と同義であるようです。ですので、原情報の主張をそのままの文言で本文に引用の作法に則って書くことが必要です。この引用の要件や作法は「引用のガイドライン」の「引用の要件」を手がかりに見ることができます。
  3. ^ 次の注の箇所
  4. ^ 特に曖昧と思われる箇所は「示さ」という言葉です。少なくともここは、「出典を明記し」にすべきと考えています。
参照
  1. ^ 日本語版 独自研究は載せない 
  2. ^ 英語版 独自研究は載せない 

ここまではKanehiro会話)が記載しました。

コメント とりあえず訳し直してみました[1]。推敲など適宜行っていただければと。注1(英語版で赤線が引いてあるところ)に関してはもともと、日本語版の文章にも入っていました。
それで、WP:VとWP:NORは重なる部分が大きくて、要するに検証可能でなければ独自研究であって、独自研究であれば検証可能ではない、ということであって普段は違いをあまり気にしないのですが、中にはWP:NORが大きな意味を持ってくるケースがあります。それは出典は明記されている(形式的にはWP:CITEを満たしている)けど、独自研究に当たるという場合です。たとえば、直前の節で延々と揉めている、歴史映画における歴史考証の不備の指摘がそれに当たります。映画の中であるシーンがあるということは検証可能ですし、史実ではそのシーンが実際にはどうなっていたかも歴史学の文献を用いて検証可能です。要するにどちらも検証可能性は満たしているわけです。問題はこの二つの情報源を、「この映画には歴史考証の不備がある」という、どちらの資料でも直接的かつ明示的には述べられていない結論を導くために利用していることなのですね。一見検証可能ではあるけれども、こういうのも独自研究になるということですね。胆になるのはKanehiroさんが引用している英語版文章の直後に続く一文だと思います。日本語版でも導入部で独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することですというふうにふれられてはいたのですが、これはとっても大事なことなのでこの際一緒に訳してみました。--Bugandhoney会話2012年10月12日 (金) 14:14 (UTC)
コメント Bugandhoney さん、Kanehiro会話)です。
いやおかげで文書が随分とよくなったと思います。 この調子で他の方の了解もとれれば良いのですが。
このあたりや「引用」に対するWikipediaのあり方についてはほぼ同じ意見ですね。
この文書を更に良くするとすると、次の二点がポイントかと思います。
  1. 1点目は、この文書に「引用」という言葉がまだ2度出てくるが、これは本当に『引用』で良いのか、ということです。 Wikipedia‐ノート:出典を明記するディー・エムさんが言うようにWikipediaの「引用」と著作権の「引用」が同一であるならです。また、この2箇所の引用は英語で本当にQuote, Quitationになっているかということです。確認作業をしようと考えていたのですがあなた様に聞くほうが早いかもしれない。 これ、Quote, QuotationではなくCite, Citation、Use、referではないでしょうか。 だから、Citeなら「出典を明記する」または「参照情報を記載する」などとし、Useなら「利用」する、referなら「参照」するにすべきと思います。 英語のen:Help:Cite_errorsに直接対応する日本のページはないのですが、Help:引用エラー/Refタグがあるのにreferencesタグがないページというのがあって、この「引用」は英語ではCite(Citation)ですね。これは Help:参照エラー/... あるいは、Help:出典明記エラー/...とすべきところでしょう。 探せばまだまだあると思います。 議論の中でも様々な人が、これらの言葉を混用してしまっていて、コミュニケーションに齟齬をきたしています。 用語集と日英対訳集が欲しいところです。それで用語集なんかも提案したり探したりしています。
  2. 2点目は、この文書をもっと実務的なものにしたい。 実際に記事を共同で編集するときの関係者のアクションと関連付けたいと思うのです。  2012年10月12日 (金) 14:14 (UTC) に書いた文書ではその変意識したのですがうまく伝わったでしょうか? 要するに、[要出典], [要検証]ラベルを貼ったり、剥がしたりするアクション、「出典を明記」するアクション、「引用」(著作権上の)をするアクション。これらのアクションとその必然性を、文書が共同で協議されがら(あるときは対立しながら)出来上がっていくプロセスの中で説明する。また相談させてください。 --Kanehiro会話2012年10月12日 (金) 18:09 (UTC)
一点目に関しては、一般論としては英語版ガイドラインを翻訳する際には、逐語訳にこだわる人と意訳にこだわる人がいて、語法に厳格にこだわるのは難しいです。特にすべてのガイドライン文書で用語法を統一するというのは、いろんな人がいろんな時点で記事を編集しているというウィキペディアの特性上難しいと思います。私の場合、一つの文書の中にある表記ブレに気付いたら、気付いた範囲で直すぐらいです。
二点目に関しては、そういうのにはいろんなケースが考えられるのであって、一つの手続きですべてまかなえる、というようなことは実現しにくいんじゃないかな。一応手引きとしてはWP:NOCITEがありますよね。--Bugandhoney会話2012年10月12日 (金) 18:49 (UTC)
報告 「引用」の次の二箇所を「参照」に替えました。ひとつは英文の翻訳と思われます。
1. 「非学術的な分野に関しては」で始まる段落:
元: 「...ウィキペディアはその記事(およびその記事が引用している情報源)を参照することができます。」 
新: 「...ウィキペディアはその記事(およびその記事が参照している情報源)を参照することができます。」 
理由: 原文は "The New York Times, then Wikipedia could refer to the article (and to the sources quoted in the article)." (この段落中のものを含め上3つの太字強調はKanehiro会話)) であり、「引用」を意味しない。「参照」が適当だろう。 
提案 この段落全体の削除。 ただ、この段落は Wikipedia‐ノート:独自の調査/NOR原文の訳 の翻訳、 そして、原文は03:59, April 13, 2006 JST版(SlimVirgin, William M. Connolley, 1010011010, Slrubenstein, Proto, et al. に基づくもので、2006年当時のものである。 この段落はすでに現在は原文では削除されている(理由は調査していない)。名誉毀損のおそれもあるので、この段落は削除が適当であると考える。皆様の意見を待ちたい。
2. 「ジミー・ウェールズは、..」で始まる脚注:
元: 「なぜ実験結果などを引用したり、それらを何か新しいものに総合することによって、物理学の新奇な理論をつくるべきではないのか」
新: 「なぜ実験結果などを参照したり、それらを何か新しいものに総合することによって、物理学の新規の理論をつくるべきではないのか」
理由: 原文は、"...why ... ought not create novel theories of physics by citing the results of experiments and so on and synthesizing them into something new, may fail to see how the same thing applies to history." (この段落中のものを含め上3つの太字強調はKanehiro会話)) であり、このcitingは著作権法上の、したがって、Wikipedia上の引用ではない。 citeの訳は、「参照する」あるいは「出典を明記」すると訳すのが良い。 citation と reference はほぼ同じ意味で使われる場合がある:"A citation, or reference, is a line of text that uniquely identifies a source:"(en:Wikipedia:Citing sources 冒頭)。 (なお、novelも「新奇な」を「新規の」とした。 ここでは新しい理論ぐらいの意味しかなく、必ずしも、「奇抜」とはいえない(これはあまり重要な変更ではない)。

--Kanehiro会話2012年10月13日 (土) 03:20 (UTC)

WP:PSTS[編集]

WP:PSTS について、Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源 にて更新の必要があるのではないかという意見がありました。私もそんな気がします。(当然のことではありますが)こちらで議論したほうがよいという指摘もありましたので、節を作りました。英語版 13:10, 8 February 2013‎ の版から訳を作ってみたので、以下記載します。

ウィキペディアの記事は、公表ずみの信頼できる二次資料(一部では三次資料)に基づいて書かれていなければなりません。二次資料や三次資料は、項目の主題の特筆性を立証するため、および一次資料の新規な解釈を避けるために必要です。ただし、一次資料は注意深く使えば出典とすることができます。項目が一次資料だけを出典としている状態は避けねばなりません。解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべきであり、それらの記述に際して一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません。

どのような出典が適切であるか、個別の事例によっては決定が難しくなることもあります。以下に示すのは一般的な規則です。一次・二次・三次資料のどれが適切であるかは善意による客観的な判断と常識の問題です。各項目のノートで議論して決めてください。本方針の目的には、一次・二次・三次資料はそれぞれ次のように定義されます。

  • 一次資料は、ある事象について、それに密接したところにある独自の資料であり、多くの場合はそれに直接参加した人によって作成されます。その人たちは、事件、歴史の一時期、芸術作品、政策決定、などについて内部からの観点を提供します。一次資料は、独立した情報源や第三者情報である場合も、そうでない場合もあります。交通事故の目撃者による話は、その事故についての一次資料です。同じように、著者によって行われた新規な実験を記した科学論文は、その実験結果についての一次資料です。日記などの歴史的文書も一次資料です。
    方針:他の方針によって制限されるのでない限り、信頼できる公表ずみの一次資料はウィキペディアでの使用が許されます。しかし、誤った使い方がされやすいので、取り扱いは注意深くする必要があります。一次資料に記載されている情報の解釈には、信頼できる二次資料が必要です。ウィキペディアにおいて一次資料を使用してよいのは、事実について率直な記述を行う場合のみであり、特殊な知識を持たない、普通の教育を受けた人が、その資料を参照して検証できる場合に限られます。たとえば、ある小説についてあらすじを記述する場合、その小説の文章を出典とすることは可能ですが、それについての解釈には二次資料が必要です。一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。項目全体を一次資料に依拠してはいけません。一次資料のみに依拠した大きな段落を作る場合にも慎重になってください。あなたの個人的な経験に基づいた記述を記事に加えてはいけません。そうすることにより、ウィキペディアが一次資料となってしまうからです。存命人物について一次資料を使うときには、より慎重になってください。
  • 二次資料は、一次資料に基づいてそれを作成した人物によるその人自身の考察を提供するものであり、普通は事象から一歩離れたところにあるものです。二次資料には、一次資料から得た作成者の解釈・分析・評価・論拠・構想・意見などが記されています。二次資料は必ずしも、独立した情報源あるいは第三者による資料ではありません。作成者は作成にあたって一次資料を使い、それらについての分析・評価を行っています。たとえば、ある分野における研究論文を集めて分析した総説は、その研究についての二次資料です。ある資料が一次資料であるか二次資料であるかは、文脈によって変わります。軍事歴史家によって著された第二次世界大戦についての本は、この戦争についての二次資料となるかもしれませんが、もし著者の戦争体験が含まれているのであれば、その体験についての一次資料となるでしょう。書評も、場合によって意見・総括・学術的な論評のいずれかになりえます。
    方針:ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。
  • 三次資料は、一次資料や二次資料を総括した、百科事典などの概説的な出版物です。ウィキペディアも三次資料にあたります。多くの初学者向け・学部生向けの教科書は複数の二次資料をまとめたものであり、三次資料とみなされます。
    方針:公表ずみの信頼できる三次資料は、主題についての広範な概略や、どのような一次資料や二次資料があるのかについての情報を得るのに役立つ可能性があります。また、特に複数の一次資料や二次資料が互いに矛盾している場合にそうですが、観点について重み付けをするのに役立つかもしれません。三次資料の中には他よりも信頼性の高いものがあるでしょうし、一つの資料中でもある記事は他よりも信頼性が高いということもあるでしょう。ウィキペディアの記事は、ウィキペディア内で三次資料として使うことは許されませんが、ウィキペディアそのものについての一次資料として使われることはありえます。

ちょっと長いので、原文は転記していません。これでこのまま現在の文章を置き換えてよいかなど、コメントなどありましたらよろしくお願いいたします。--Calvero会話2013年2月9日 (土) 09:49 (UTC)

賛成 すばらしいです。このままで行きましょう。--Bugandhoney会話2013年2月20日 (水) 21:47 (UTC)
議論が止まっているようですが、反対の意見がないのなら、方針ページの修正を実行しましょうか?--Dwy会話2013年10月16日 (水) 18:02 (UTC)
修正を実行しました。--Dwy会話2013年10月26日 (土) 02:32 (UTC)

Wikipedia:独自研究の例外について 特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成[編集]

こんばんは。独自研究についてご意見賜りたく投稿いたします。 指針では、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成は独自研究にあたるとなっておりますが、Aという信頼できる出典とBという信頼できる出典を「合成」してCという観点(独自研究)の記事を出してはいけないとなっております。ただし、「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。となっています。

たとえばの例ですが。

ABCDE5人の学生がZ大学の5kmマラソン部員である。(参考:他に部員はいない。交代も認められない)

  • ABCは「青色」の帽子をかぶって、マラソンに参加するルールである。
  • DEは「赤色」の帽子をかぶって、マラソンに参加するルールである。

(出典 第125回大学対抗マラソン登録メンバーとして、大会本部から各誌に公式発表されたもの。帽子の色のルールも絶対的なもの)

ABCDEのそれぞれの成績は以下の通りであった。

(出典 大会本部から別日に公式発表されたもの。)

  • A:5.34(分秒)
  • B:5.11
  • C:4.98
  • D:6.11
  • E:5.54

ここで、参加メンバーの情報とタイムの情報を見て、「第125回大学対抗5kmマラソンで、青色の帽子をかぶっていたZ大学部員の中で、一番タイムが短かったのは学生Cである。」と記述するのは、「青色の帽子の1人であり、その中でタイムが一番短い(早い)、ゆえに学生Cが青色の帽子をかぶっていたZ大学のマラソン部員の中では最速である」と三段論法が信頼できる出典2つで確保され、事実を述べたまでで、独自研究に当たらないと思われますがいかがでしょうか。異論・反論・補足よろしくお願いします。--Kenken12345678会話2013年2月20日 (水) 20:08 (UTC)

私はこういうのも独自研究として避けるべきだと考えます。まず、三段論法はこういうふうに正しいことが簡単に確認できる場合もあれば、専門的な内容でにわかには正しいかどうか分からない場合(他に部員はいない、交代も認められないというような前提条件が確かめにくい場合)もあるというのが一点。この例のように誰でも簡単に正しいことが確認できる場合は、わざわざウィキペディア編集者が書かなくても読者は同じ結論に至るはずだというのが一点(最速だったCがどっちの色の帽子をかぶっていたのか、わざわざ書いてなくてもすぐ分かる)。それで、最後が一番重要なのですが、「学生Cが青色の帽子をかぶっていたZ大学のマラソン部員の中では最速である」などというような、外部文献でも触れられていない結論をなぜわざわざ書く必要があるのか、というのが一点。要するにCが最速であるということと帽子の色がどんな関係にあるのか、帽子の色がなぜ重要なのか、外部文献では触れられていない解釈・解析結果になぜわざわざウィキペディア編集者が言及する必要があるのか、というふうに考えます。こういう事例は実際にあるのですよ。たとえば、ある人物記事における「いつも水玉のワンピースを着ている」という記述をめぐって揉めたという事例があるのですよ。帽子の色と一緒で、写真なり映像なりに当たればどんな服を着ているのか確認するのは簡単です。検証可能性はある。ただ、外部文献で言及がないときに、それをわざわざウィキペディア編集者が独自に指摘することは、記事主題の理解に役立つのかどうかよく分からない、記事主題に関してあらゆる情報を詰め込んでもいいことにはならない(WP:IINFO)、というふうに考えています。何が記事主題にとって重要で何が重要でないかを判断するときには第三者言及が必須ですね。--Bugandhoney会話2013年2月20日 (水) 21:47 (UTC)

Bugandhoney様。非常にわかりやすいご説明ありがとうございました。大変参考になりました。 そう考えると、いまの芸能関係の人物各ページは独自研究だらけになりますね。おもちが好き。アイスが好きなど本人の嗜好に関係する情報や○○さんと○○さんと仲がよい、など・・も完全に独自研究というか、独自の観点ですね。

例がわかりにくくて申し訳ございませんでした。たとえ直すなら、A文献に「A社は50種類の製品を製造しており、20種類(商品名を表記している)を自社ブランドとして製造販売している。A社は50種類以外の製品を一切製造販売していない」。B文献に「A社の各製造販売個数表が掲載されており、製造販売している50種類すべての製造販売個数が載っていた」場合でも、A社の自社ブランド製品で一番製造販売しているのは○○である」と三段論法はなりたちますが、文献にその記載がないので、合成することができないということですね。でもそうすると、ただし、「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。はどのようなときに使えるのか、疑問が生じてきました。--Kenken12345678会話2013年2月21日 (木) 01:22 (UTC)

ノート:お花茶屋駅#京成線の駅から「各駅停車のみ停車する駅」を抽出して、その中で乗降客数の順位(出典あり)を記載するのは独自研究か。」から来た者です。喩え話ではなく発端となった記述について。(少なくとも2011年度の情報については)検証可能な記述ではあります。しかし、Bugandhoneyさんからご説明頂いたような「外部文献では触れられていない解釈・解析結果になぜわざわざウィキペディア編集者が言及する必要があるのか」という事例にあたるかもしれません。
ただ、Kenken12345678さんが「毎年トップ3」「優等列車が停車したことがない」との記述(こちらには出典がなく、「毎年」の範囲も明確でない)を付け加えたがために、「こんなに乗客が多いのに優等列車が停まらないのはおかしい」と意見を述べているようにも見えてしまい、目をつけられて除去されてしまった、とも考えられますが[独自研究]
(また、セクション名に全角空白が含まれると正常にジャンプできないので、勝手ながら半角に変えさせて頂きました。できれば今後もお避けください。)--Tkmkz会話 2013年2月21日 (木) 03:57 (UTC)

Tkmkzさんこんにちは。そうですね。貴殿のおっしゃる通りかも知れません。意見に見えてしまいますね。その記述はおっしゃるとおり。ただし、「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。はどのようなときに使えるのか。それを検証して、本文を変更します。(あまり連続編集になるのもどうかと思うので少しクールダウンします。自分自身も)、Cにも出典が必要に見えますので、Cの部分はどういう取り扱いが好ましいのか検証してから、本文を変更したいと思います。もちろん意見に見える部分は削除でいきます--Kenken12345678会話2013年2月21日 (木) 04:13 (UTC)

お花茶屋駅の記載を除去した本人です。こちらで議論になっているようですので来ました。ただし、「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。は、Kenken12345678さんが加筆した記載に当てはめますと、以下のとおりと思います。
A「京成電鉄の各駅の乗降人員および順位」=京成電鉄が発表する乗降人員で検証可能。
B「お花茶屋駅は各駅停車のみが停車する駅」=京成電鉄の路線図にある種別ごとの停車駅表示で検証可能。
C「京成電鉄の各駅停車のみが停車する駅の乗降人員で順位をつけると、お花茶屋駅は2位」=AとBから明白ではあるが、Cを直接京成電鉄が発表しているわけではない。
Cが掲載できるのは、京成電鉄(または信頼できる情報源)が各駅停車のみが停車する駅のランキングを発表している場合のみとなるでしょう。Cにも出典が必要に見えますのでではなく、Cという事象を掲載するにも当然出典は必要です。Wikipedia:独自研究は載せないの脚注1において、ジミー・ウェールズ氏の見解として以下のようにあります。
我々はそのような判断を下せるほどの専門知識は持ち合わせていません。しかし、我々はその理論が評判の良いジャーナルや評判の良い情報源を通して発表されているかどうかは、確認できます。ですから、適切な判断能力を備えた人々によって信用できると判断された物事に単に依拠することにより、ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです。
今回は乗降人員一覧と各駅停車のみが停車する駅を照らしあわせれば各駅停車のみが停車する駅の乗降人員の順位は導出できますが、AとBの検証可能性を満たす事実から導かれるCという見解が確かに正しいかどうかを検証するのが困難な場合があるため、信頼できる情報源がCを発表した場合のみ採用せよ、という方針となっているものと思います。--180.235.45.188 2013年2月21日 (木) 13:32 (UTC)
これのことですよね:
  • 普通(各駅停車)しか停車しない駅の中では、京成立石駅についで2位であり、毎年トップ3に入っているが、優等列車が定期停車したことはない。
という脚注にある一文ですよね。ある記述が適切であるかどうかは文脈に強く依存しますので、こういうふうに一般化して問題提起するのではなく、まずは記事のノートを使って議論すべきだったかと思います。記事に対するコメント依頼なども利用しながら。それで、これは微妙な例だとは思いますが、私はどちらかというとIPユーザーの方の見解を支持します。「普通(各駅停車)しか停車しない駅の中では...」以外にも、「乗り換えのない駅の中では...」、「葛飾区内の駅の中では...」、「京成電鉄の全駅の中では...」などといったバリエーションは無限にありますよね。その中でなぜ、「普通(各駅停車)しか停車しない駅の中では...」というようなランキングだけを取り上げるのかを正当化したり、それ以外のランキングも許容するべきかの判断は難しいと思います。WP:NORには:
  • あなたの編集が独自研究ではないことを証明する唯一の方法は、その情報を掲載している信頼のできる公表済みの情報源を明記することです。たとえ十分に出典が明記されていたとしても、その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合には、あなたは独自研究を行っていることになります。
とあります。「各駅停車の駅の中では2位である」というのはどの資料にも直接的かつ明示的には述べられていないのは明らかでしょう。WP:PSTSには専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説なら構わない、というふうになっているのですが、別のウィキペディア編集者が編集除去などを使って意義申し立てした時点で、これが専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説だと言い張るのは難しいかなと思います。この場合は、この結論を直接的かつ明示的に述べている出典をもってくるしかないでしょう。--Bugandhoney会話2013年2月21日 (木) 14:51 (UTC)

こんばんは。そうですね。良い意味で、また一つ勉強になりました。おっしゃるとおり、無限にNO1というのはあり、記事が埋まってしまいますね。削除された理由も納得です。クールダウンできましたので、お花茶屋駅の記載を削除。京成立石駅・新三河島駅は私ではありませんが、編集しておきます。ありがとうございました。あとは駅のノートで建設的なお話し合いができればいいなと考えております。--Kenken12345678会話2013年2月21日 (木) 15:04 (UTC)

この統計情報を解析している文献を気長に探せばいいんじゃないでしょうか。--Bugandhoney会話2013年2月22日 (金) 18:35 (UTC)

出典が付いてないと何でも独自研究か[編集]

出典が一時的についていない記述を独自研究呼ばわりした人に、出典は探せばあるのだから独自研究ではない、と主張したところ、本ページの「他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。」を根拠に、やはり独自研究である、と反論されました。これは私の感覚に合いませんので、現在の英語版を確認したところ、冒頭に端的に「信頼できる出典の存在しないものが独自研究だ」とあり、「存在」とは世の中にあることであり、記事内で言及されているかどうかは関係ない、とあります (en:Wikipedia:No_original_research#cite_note-Exists-1)。つきましては、当該文を「概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料が存在しないにもかかわらず加筆する。」と改訂することを提案します。--白駒会話2013年2月23日 (土) 00:59 (UTC)

出典を示す責任は掲載を希望する側にある以上、ご提案のような表現に変えても、状況はあまり変わらないと思います。「出典は探せばある」というのであれば、そう主張する人が出典を探してきて提示するのが問題解決への一番の早道であり、出典がないかもしれないと疑っている人に「お前が探せ」と要求するのは少し筋違いでしょう。--Dwy会話2013年2月23日 (土) 02:12 (UTC)
コメント 白駒さんのご提案に賛成します。独自研究と検証可能性の方針を混同させてはいけません。--みっち会話2013年2月23日 (土) 02:20 (UTC)
WP:NPOVのページでは「これらの方針(=三大方針)はほかの二つと切り離して考えるべきではなく、編集する際にはこれら三つの方針を合わせて理解するよう努めてください」と言ってますけど。--Dwy会話2013年2月23日 (土) 02:52 (UTC)
では、なぜ方針が三つに分かれているのですか?--みっち会話2013年2月23日 (土) 04:17 (UTC)
コメント私は白駒さんの意見に賛成します。Wikipedia:出典を明記するも絡んできますね。ちょっと違った見地からです。いくらWikipediaの法だからといって、つねづね合意形成して、正しい方向に改正されるべきです。そのためのノート議論があるのでないでしょうか。どうも「wp:****ではこうなっているんだよ!従え!!」ということだけをみて、Wikipediaがフリー百科事典であり、みんなで育てていくものだとの理解が欠けている人が多いように思えます。「もちろんWPも育てていくべきだと思います。」現在の規定に捕らわれることなく、自由に議論して合意形成していくのが正しいと思います。
前置きが長くなりましたが、検証可能性を満たす脚注の出典記載も、独自研究と言われないようにする脚注の出典記載も、わたしは「ほらこの出典があるから、独自研究でないよ。あるいは出典無き記述ではないよ」と他人に文句を言わせないためにしか働いていないように思えます。ウィキベディアン(私はこの名称宇宙人みたいで嫌いですが)で編集慣れしている人にはいいのでしょうが、いちいち脚注をいれて編集するのは、編集時間がかかり、負担になっています。負担になることで、時間的余裕がない人が参加できないという「みんなで育てていく」という事項の阻害要件になっています。また「出典をいちいち脚注にいれていくことで、本文記事よりも脚注が多い本末転倒な記事が多々あります。「いわいる出典を寄せ集めしただけの雑多記事」
白駒さんのいうとおり、出典がない場合はそれは削除でしょうが、出典がこの世に存在しているなら、わざわざ本文に書く必要はないと思います。Wikipediaは多人数が見るものですから、「これ出典あるの?という疑わしいものは当然疑問提起され、発見されます。いまはそれは無条件に削除して良いルールになっていますが、その疑義発見があったときに、要出典をつけるなり、執筆者にノートなりで出典を示してほしいとしたらどうでしょう。それで出典がだせない、あるいは信頼できない出典、わたしも誤解していた2つの出典からの独自研究だととわかったら、独自研究でも検証可能性がないでもどちらでもいいですから、削除で良いと思います。もちろんDwyさんの言うとおり、出典を提示する責任は、親切な第三者がいないかぎり、本人に帰するのは当たり前ですね。
Wikipediaが発展して、今日の充実したフリー百科事典の代表になっているのは、推奨はできませんが、ある程度3つの柱を無視した記事が出され、それが心ある人によって、削除訂正されて出典から検証できる記事になり、その記事が充実していった経緯もあるとおもいます。つまりルール違反が是正され、良質な記事に変化することだってあるわけです。しかし最近はもっぱら、記事の削除が中心となってしまっている。それでは記事が発展しません。記事が出典の羅列になり、フリー百科事典ではなく、出典要覧になってしまい、Wikipediaが衰退してしまいます。記事を書く人、もちろん執筆者本人が出典を確保することが大前提ですが、確保するだけで、脚注にいちいち記載するのは、その記事の内容に疑義があると第三者が考えた時でいいのではないでしょうか。みんな大人なんですから、書かれた記事をそのまま鵜呑みにはしないでしょう。Wikipediaの執筆する方は、出典発見熱心な方が多いと信じてます。良い意味で! わたしもいろいろやらかしましたが、いまは3つの柱を中心に現行ルールに従おうとしています。ミスはしますが、努力はしています。ただ、そんななか、別例ですが、芸能界の記事、なんとかなりませんか? 特にアイドルの記事など、検証可能性ゼロの、○○と××は仲が良い とか 妹と仲がよい たとえ出典があっても、一つ例を挙げれば、○○というアイドル本人の公式ブログで「今日××ちゃんに久しぶりあってうれしかった感激!」との記述を改変して、「○○と××は仲がよい」と記事にする。まさしく出典がまず一次資料であり、要注意出典、そして「××ちゃんと会えたから、仲がよい」と勝手に独自研究に走っている。あり得ない内容になっています。また「反対の立場の××がどう思っているか」出典がない。本当は嫌っているかもしれない。××のプログで記載があっても一次情報。両者の社交辞令かもしれない。そちらの方こそ大鉈をいれるべきでは。脚注に疑問のある出典が40も50も並んでいる醜悪な記事と思っています。私はたまたま芸能関係の情報を知る立場にいますが、出典の出版元は立派な会社ですが、記事はおもしろ半分でライターが書いている事実でない最悪の記事、でも信頼できる出版社だからと容認されています。また人間関係は出典が本人ブログであることがおおく、あとは週刊誌やエンターテイメント雑誌ばかり、しかしこれも放置されています。>脱線しましたが、このケースはもう少し深く話した方が良いと思います。建設的に。--Kenken12345678会話2013年2月23日 (土) 17:29 (UTC)

(コメント)この方針の意図するところとして、「独自研究」とはすなわち「自分で考えたこと」を指すように読めます。「資料を明記せずに加筆する」は「自分で考えたことを書く」という意味にも「出典はあるが明記せずに書く」という意味にも読み取ることができますが、方針文書全体の趣旨からして「自分で考えたことを書く」の意味であると解釈するのが自然でしょう。したがって、その意味をより明確化する「資料が存在しないにもかかわらず加筆する」に書き換えることは適切であると考えます。なお、上記はあくまで「出典はあるが明記せずに書くことが独自研究にあたるかどうか」という問題に対しての私の見解であることを申し添えます。--Muyo会話2013年2月23日 (土) 18:11 (UTC)

コメント Muyoさま。事の発端は、「安易に独自研究と言うコミュニティ」にもあるかもしれません。白駒さまのケースは履歴から推測すると、記述がおかしいな?と思った方が、いきなり要約欄で独自研究を言ったためかもしれません。これは「いきなり独自研究を言い出すのはマナーに反する場合がある」という考えが浸透していないからかもしれません。要出典や要出典範囲があるのですから、まずそれを穏便に用いることをガイドブックで呼び掛けることも必要なのかもしれません。(問題児が管理人さんに意見を言ってすみません…)。--べあぱーく会話2013年2月23日 (土) 18:38 (UTC)

すこし別な観点から。コミュニティの事をおっしゃる方もいらっしゃいますが、外に開いたウィキペディアは、外部の方々がどう思っているかをもっと意識すべきと考えます。私的な話ですが、私はウィキペディアに価値を見出しましたが、仕事上である技術者が「あんないいかげんな事しか書いてないもの」と断罪される場面に出くわした事があります。本節をご提議された方がどんな状況を指されるのかフォローしませんが、出典不明示とはそれ位の扱いに晒されても文句の言い様が無いものではないでしょうか。Wikipedia:出典を明記するはそれほど重要で、ウィキペディア上に現れない(何も書き込まない)方々への品質保証だと考えます。提議者の疑問には、「独自研究」など言葉尻でしかなく、これも記事品質への様々な攻撃の一形態と受け止め、それに耐えるには我々が出典を明記する事を粛々と進める以外に無いと考えます。--Rosalia batesi会話2013年2月23日 (土) 19:36 (UTC)

コメントべあぱーくさんの意見にも賛意します。なにもかもが複雑すぎるんです。WPまでも相互関係が複雑化して、訳がわからない状態になっていると感じます。それは確かに存在するかもしれませんが、多くのWPは冒頭に「ガイドライン」従うことが推奨されますが、方針ではありません明記されています。推薦されているだけなんです。絶対ではないのです。
三本の柱は「方針」ですので従うべき絶対事項ですが、それ以外はあまり考えずに執筆していいのではないのでしょうか。「Wikipedia:大言壮語をしない」とかこんな細かいところまで決めるからいけないんです。WPがないと、今度はジミー・ウェールズ氏の言葉までもってきて、ルール(方針)の様にいう人もいる。これには閉口しました。ルール(と本人はいっている)自体がその人の独自研究になってると一笑に付しましたが。Wikipediaに価値を見いださないのは個人の自由で、利用したくなければしなくて良い。断罪するなら断罪すればいい。ネット上のフリー百科事典にそこまで信憑性を求めるのは酷です。むしろ不可能ですよ、執筆者がこれだけいるのですから。でもそれがWikipediaの存在価値なのではないでしょうか。自由に執筆でき、情報を持ち寄れるという点が。
あくまでこれは個人的見解ですが、「Wikipediaを閲覧利用するなら、記事の信憑性判断くらいは閲覧者がすべきでは」とおもいますね。提議者さんの心中がどこにあるのかは本人にしかわかりませんが、記事品質への攻撃とは思えません。むしろ、簡便化への一方法として良いとおもったので賛意しました。私も閲覧利用しますが、あくまで参考書であり、教典としては利用しません。信頼性をそこまで求めていないので。特に出典が書籍・出版物にある場合、わざわざその書籍のそのページを探しに行って確認するなんて事しませんし、ほんとうにそのページにそう書いてあったのか、調べるには毎日国会図書館に通う必要がありますね。むしろ、「Wikipedia:人の執筆はまずその善意を信じる」くらいでもいいのでは。
ところで、この議題は、独自研究のノートより、「Wikipedia:出典を明記する」のノートで議論すべき議題かとは思いますが・・・。--Kenken12345678会話2013年2月23日 (土) 23:42 (UTC)
Wikipedia:ウィキペディアへようこそにも書いてあるように、我々(ジンボさんと財団と少なくとも相当数のWikipedian)は「質においても量においても史上最高の百科事典を目指して」います。少なくともコマーシャルベースで出版されている百科事典に要求される信頼性の水準は(今すぐは無理でも将来的には)クリアしなければなりません。「ネット上のフリー百科事典にそこまで信憑性を求めるのは酷です。むしろ不可能ですよ」というご発言は、ウィキペディアが目指すものを全否定しているように、私には見えます。--Dwy会話2013年2月24日 (日) 02:18 (UTC)

コメント 皆さん、出典まわりについて一家言あるのは分かりますが(私もあります)、提案の趣旨はあくまで「独自研究」の意味をはっきりさせることですので、それ以外のことを議論したいのであれば、別に節を立てて下さるようにお願いします。なお、「出典がないかもしれないと疑っている人に『お前が探せ』と要求する」とか、「出典がこの世に存在しているなら、わざわざ本文に書く必要はない」とか、私は言っていませんので、その点を御確認ください。提案の背景はべあぱーくさんの御指摘の通りです。--白駒会話2013年2月23日 (土) 23:57 (UTC)

Kenken12345678さんのご意見に対してに言いたい「一家言」は私にももちろんありますが、ここは堪えて、適切な場所で議論が提起されるのを待つことにします。さて、そもそもの議論はリーマン予想の件ということでよいでしょうか。確かに、{{独自研究範囲}}よりは{{要出典範囲}}か{{誰2}}等を使うべきケースだったように思います。ただ、「見込みは薄い」というような予想・推測に属する事柄は単純な事実と違い、独自研究が紛れ込みやすいのもたぶん事実です。ですから、このタグを使った方がそれを疑ったのも、理解できないことではありません。
白駒さんの改訂案ですが、たとえば「資料は確認しているが、煩雑になるので本文中では省略した」「資料を読んだことがあるが、手元にないので書誌情報が確認できず、すぐには出典として示せない」ようなケースは、(検証可能性の問題はあるかもしれませんが)独自研究には該当しない、ということでよいでしょうか。そこには同意できるのですが、「存在しない」ことを要件としてしまうと、独自研究に関する議論が「悪魔の証明」になりかねない点に不安を覚えます。どこまで調査しても、情報源がないことを証明することは論理的に不可能だからです。「何も資料を確認せずに書いたけど、きっとどこかに資料があるから独自研究じゃない」という抗弁が可能になってしまうと、検証する側にかかる負担が大きすぎます。そこで、「その論証に関する評判の良い資料を確認していないにもかかわらず加筆する」ではいかがでしょうか。たとえ世界のどこかに資料があっても、それを見ず・知らずに書いたとしたら、それはやはり独自研究と呼んでよいと思うのです。--Trca会話2013年2月24日 (日) 00:46 (UTC)
賛成 いいですね。Trcaさんの案の方が紛れが少なそうです--みっち会話2013年2月24日 (日) 00:56 (UTC)
賛成 + コメントTrcaさんの案に賛成します。ただ、「資料を読んだことがあるが、手元にないので書誌情報が確認できず、すぐには出典として示せない」については、「読んだことがある」だけで、記事の加筆時に実際に「確認」を行いながら執筆したのでなければ(記憶や思い込みに依存して加筆した場合は)、Trcaさんの案に照らしても独自研究になると思いますので、その点コメントしておきます。--Dwy会話2013年2月24日 (日) 01:19 (UTC)
コメント一義的な定義としては、文書の冒頭に「『独自研究(original research)』とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。」と示されています。
ただし、その論証に関する評判の良い資料が(世界中のどこにも1冊も)存在しないことが証明されなければ問題の指摘ができないとなってしまうと現実的な扱いに困難を生じますし、「悪魔の証明」になりかねないという点では、編集者が資料を確認したかどうかの事実確認についても同じ問題が生じますので、当該の「何が除外されるか」節の「資料を提示することなく加筆する。」という記述は、複数の編集者間で検討を行うための便宜的なみなし基準のようなものと理解するのが妥当かと思います。その意味では、現在の文面の「認定」という表現は、批判材料のためのレッテル貼りのような印象を受けるので語弊があるように思います。
実務上の対応としては、仮に出典の記載が不完全な記述があったとしても、それが信頼のおける出典に依拠した内容だということをその記事の文脈やノートでの議論の過程から十分に推定することができたなら、それ以上「独自研究」という前提にこだわり続ける理由はありませんので、その時点で次の問題解決フェーズ(検証可能性)へとスムーズに移行するのが良いと思います。
それを踏まえて、以下のような形の修正としてはどうでしょうか?
  • 「独自研究と認定される編集は、以下のようなものです。」を「独自研究とみなされる編集は、以下のようなものです。」に
  • 「他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。」を「他の概念や理論、論証、立場を反駁あるいは支持する論証について、その論証に関する評判の良い資料での確認が担保されないまま加筆する。」に
--ディー・エム会話2013年2月24日 (日) 03:09 (UTC)
コメント 私は自分の考えに基づく一家言をのべたまで。それは誰にも強要できないし、個々人考えは自由です。私は、粛々と方針・ガイドラインに基づいて執筆するだけで、商業ベースと同等にしようとかまで崇高な考えは持っておりません。ということで議論もまとまる様子がなし、オフトピックになりかけているので離脱します。--Kenken12345678会話2013年2月24日 (日) 15:34 (UTC)
コメント白駒さんの提案のままでもいいかなと思います。「特筆性」といっしょで、「記事中で出典が引用されていない=独自研究」ではないでしょう。ガイドラインにはすでに:
  • 独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。(導入部)
  • 疑問が提出された、もしくは疑問が提出されそうな情報には、その裏づけとなる信頼できる情報源を明記しなければなりません。信頼できる裏づけ資料が一切見つからない記述は独自研究とみなされます。あなたの編集が独自研究ではないことを証明する唯一の方法は、その情報を掲載している信頼のできる公表済みの情報源を明記することです。(「信頼できる資料」節)
と書いてありますから、存在しないにもかかわらずと変えたところで、これをたてに独自研究を推し進める、などということは起こらないかなと思います。--Bugandhoney会話2013年2月25日 (月) 14:57 (UTC)
コメント白駒さんの提案に賛成します。
基本的には、いわゆる3大方針のような重要な文書については、英語版から内容的に乖離する方向での修正はあまり作りたくないと思います。
個々の文書が求める範囲を超えていくことにも抵抗があります。Trcaさんの案よりも白駒さんのほうが好ましいと考えます。
資料が確認されているかどうかを要件とするのは、結局、その執筆者の行動によって独自研究かどうかが決まってしまうということになってしまう。そうじゃなくて、独自研究というのは、その内容によって決定するものだと思うんですね。
それは悪魔の証明に近いかもしれないけど、まずは執筆者間で意見の相違があって、主要な文献を一通りあたっても出てこなければ検証可能性の方針を根拠に除去すればいい。端的にいえば、独自研究は検証可能ではない。個々に検証可能でも独自研究になる記述はある。そういうふうに、異なる事柄を異なる方針文書であつかっていて、それらは密接に係わり合い、相互補完関係にある、ということなのだと思うのです。--Ks aka 98会話2013年2月25日 (月) 16:24 (UTC)

で、ここの議論の行く末はどうでもいいのですが、くれぐれもWikipedia:出典を明記するを守らない言い訳にならにようにして下さい。この節の表題が「出典が付いてないと…」で始まっているのが悪い。出典不明記の記述は執筆じゃないのだから、誤解を招かないように纏めて下さい。--Rosalia batesi会話2013年3月1日 (金) 19:56 (UTC)

一ヶ月以上経ったから閉じませんか。本節の「出典が一時的についていない記述」どころか、私は出典をつけた記述を即座にrvされ、ノートで出典範囲を超えた要求を元にrvの正当化をされた体験をしました。Wikipediaの本質からすれば、出典不提示は論外で、rvにはタグをつけ然るべき時間を置いて処置するか、反駁できる出典を伴って全般を書き換えるべきと考えます。本節は提示主題からして最新のWikipediaに対する認識から少々ずれていますので、このまま終わりましょう。--Rosalia batesi会話2013年4月19日 (金) 17:40 (UTC)

「ここの議論の行く末はどうでもいい」といわれる方がなぜご自分の言いっぱなしのまま議論を閉じようとされるのでしょうか。あなたの体験がすべてではありません。先にも述べましたが、「独自研究は載せない」が「検証可能性」とは別の方針として立てられていることを考えるべきです。Ks aka 98さんのまとめで私は納得しました。--みっち会話2013年4月19日 (金) 23:33 (UTC)

詳細な名称・数量・日付・所属・内訳などの補完情報・付加情報について[編集]

Wikipedia‐ノート:出典を明記する#詳細な名称・数量・日付・所属・内訳などの補完情報・付加情報についてにおきまして、補完情報・付加情報の取扱いについて確認を行っております。--W-run会話2013年10月3日 (木) 21:10 (UTC)

現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査[編集]

かつて、「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」には、このような記述がございました。

なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。 — Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料(2013-6-30 07:51 (UTC)版)
ここのノートの#WP:PSTSセクションの議論によって、10月26日に改変にともない除去された訳ですが、
Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源/過去ログ3#二重差し戻しについてが議論のルーツとのこと)

2点、質問でございます。

  • この文言も、当時の英語版からの導入だったのでしょうか?
  • 現在の英語版(「en:Wikipedia:No original research」)には書かれていない?すなわち、この記述は二度と戻ってこない方向?

コメントのほど、何卒宜しくお願い申し上げます。--Benzoyl会話) 2013年12月7日 (土) 04:36 (UTC) --Benzoyl会話2013年12月7日 (土) 04:43 (UTC)

修正提案[編集]

脚注1の部分に「基本理念」という言葉がありますが、リンク先の相応する言葉はbasic conceptでして、続く内容もジミーウェールズによる考え方であって、これを方針文書にて基本理念ととるとだいぶ意味合いが大きくなってしまっているかと思います。この方針文書ではここは「基本理念」ではなく「基本的考え方」に修正したほうがいいかと思われます。2週間待ち異論がなければ修正します。--タバコはマーダー会話2014年8月7日 (木) 05:28 (UTC)

修正しました--タバコはマーダー会話2014年8月22日 (金) 03:52 (UTC)

問い合わせは駄目なのですか?[編集]

長野電鉄などで「山の内線」の記述を見かけ、長野電鉄に問い合わせたら「の」ではなく「ノ」が正しい事を確認したので、編集内容の要約とCOにその旨を書いて「ノ」に訂正し、ノート:長野電鉄にもその旨を書きました。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84&diff=prev&oldid=50818857

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%B7%9A&diff=prev&oldid=50818999

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%B7%9A&diff=prev&oldid=50819137

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84&diff=prev&oldid=50819237

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B9%AF%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A7%85&diff=prev&oldid=50819713


そしたら「それは独自研究のような」と書かれました。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84&diff=50821966&oldid=50819237


さらに2ちゃんねるの589・590・591にボロクソに書かれ、最後には差し戻されました。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84&diff=prev&oldid=53462902

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%B7%9A&diff=prev&oldid=53462982

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%95%B7%E9%87%8E%E9%9B%BB%E9%89%84%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%B7%9A&diff=prev&oldid=53463015

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B9%AF%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A7%85&diff=prev&oldid=53463083


うち1つは「問題ありません」と僕の編集に差し戻してもらえましたけど。

https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B9%AF%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A7%85&diff=53511131&oldid=53463083


実際はどうなのでしょうか?--ほらー イサムン まん会話2014年12月7日 (日) 13:52 (UTC)

端的に言うと、問い合わせは検証可能性を満たさないのでダメです。あなたが問い合わせて「そう聞いた」と言っても、それを確認する術が検証する側にありません。ウィキペディアでは、内容の適正を担保するため、事実かどうかよりも検証可能かどうかが重視されます。それを許せば、あなたが虚偽の内容を「問い合わせて確認した」と偽って記述することもできてしまいます。山ノ内線の件にしても問い合わせでなく、「鉄道要覧」などの誰でも入手可能な資料を出典としていれば、問題はなかったでしょう。そもそも、自分の趣味で現場を煩わせるのは、褒められた行為ではありませんが。--Kone会話2014年12月8日 (月) 14:37 (UTC)

オリジナル画像についての改訂案[編集]

内容についての変更はほとんどなく、文面だけの編集といえると思います。そのまま編集しても問題ないと思いますが念のため先にここで提案します。

改訂案: 利用者:Insanity/sandbox/改訂案:Wikipedia:独自研究は載せない オリジナル画像 2014-02-02

変更点は以下のとおりです。

  • 現行英語版も参考にして、文章を整理し、必要な言葉を補いました。
  • 説明が必要な写真の加工について、「映り込みの修正除去」を例示しました。(画像の切り貼りなどによってごまかす操作を考えています)切り抜きや(縦横比を保つ)拡大縮小、回転および、軽微な明るさ・コントラスト・トーンカーブの編集、ノイズ除去(ただし実験や観測の結果得られるものを除く)、ホワイトバランスの調整等は説明が必要な加工とはみなさなくて良いと思われますが、そのことについてはあえて触れませんでした。
  • 画像そのものではなく、記事で画像を(コモンズなどから)呼び出す基準についての文章なので、一部を「画像」→「画像の利用」、「削除」→「削除・除去」と置き換えました。
  • ライセンス更新に対応し、「アップロード」をコモンズにアップしようのページにリンクすることにしました。

以上です。--Insanity会話2015年2月2日 (月) 12:54 (UTC)

チェック 本文に反映しました。--Insanity会話2015年2月11日 (水) 03:06 (UTC)