Wikipedia‐ノート:コメント依頼/Greenland4

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人物記事の出典について[編集]

本題とそれるのでこちらに書いておきますが、人物記事は伝記作家の領域ということで、伝記作家の書いたものを無条件に使用可能とGreenland4さんは仰っています。が、すでに触れたとおり、WP:RS#情報源の評価に沿った評価が必要です。私も作家の書いたものがすべてダメだと主張しているわけでなく、桐野作人の記事内に出典付きで書かれているとおり、学術的にも肯定的に触れられているという明確な根拠があれば、「事実確認や正確さに定評のある情報源」(WP:RS)として問題ないわけですし、 Takabegさんのいうように学術論文に引用されているという事情があれば、使用可能なこともあるでしょう。しかし、そうした判断を経ずに、人物記事だから、作家の書いたものが一律で使えるとGreenland4さんは仰っているわけで、これは方針やガイドラインに沿わないものだと考えます。なお、小村寿太郎が歴史分野の記事であることは疑いないところだと思いますが、たとえば「WP:RS#大衆文化やフィクション」に属する人物などでは、必ずしも学術的な出典が存在しないため、個人サイトなどでなければ、ライターの書いた文章が出典として使用可能だということもあると思いますので、分野による考慮が必要だと思われます。--伊佐坂安物会話/履歴2020年10月30日 (金) 23:49 (UTC)[返信]

伊佐坂安物様。お答えいただき、ありがとうございました。おっしゃることはわかりますが、伊佐坂様の御見解はやはり歴史を専門に学ばれた方の御意見だなと感じます。しかし一般には、小村は人物だし、白象は象だろうというのが普通の受け止め方ではないでしょうか。「GA選考」でも、伊佐坂様以外のお二人は「人物記事」という受け止め方をされているように思います。小村が「歴史的人物」であることは疑いのないところではありますが、しかし、ひるがえって、どこからが「歴史的人物」であり、どこからがそうでないのか、その輪郭はひじょうに曖昧ではないかと考えます。この問題は、「歴史」の側から理解していくのではなく、「人物」の側から考えていくべきと考えます。人物伝・伝記のソースは、
  1. 自伝・自著・自己言及、近親者(家族、臣下)の手記・評伝
  2. ノンフィクション作家、伝記作家、ルポライター、ジャーナリスト、同業者など第三者による評伝・評価
  3. 歴史学者・科学史家・文学史家など専門家による評価・評伝
に分けることができます。ここにおいて、歴史的事実関係の信頼性において 3.>2.>1. ということは言えても、順番からいえば、1. → 2. → 3. という段階を経てようやく専門家によって本格的な言及がなされるのが一般的で、2.は1.がないとなかなか書けないし、3.は2.がないと書けない。小村などは、1.がなかったために2.もほとんどなく、教科書でゴチック体で書かれるほどの人ではあっても 3.が出版されるまでに1世紀以上かかった、白象についても、石坂昌三氏の著作(2.)があったからこそ和田実氏の労作(3.)があったのではないかと考えます。いずれにせよ、3はいきなり出てくるものではないと思います。すべての人物が、1.2.3.すべて揃っているというのならば、伊佐坂様の御見解も正しいと思いますが、人物によっては1.しかないような場合もあります。最近では「Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/松岡朝 20201011」がそうでした。こういう場合、2.があるとたいへん助かるのだと思います。また、1.2.はあっても3.がない、そういう人物もたくさんいると思います。そうしたとき、「3.がないから方針違反」ということが果たして言えるものなのか、私にはたいへん疑問です。無いものねだりは非常に酷だと思うのです。そしてまた、私は伝記には伝記の価値というものがやはりあると思います。極論すれば、「8歳のときに日清戦争があり、18歳のとき日露戦争があって28歳のとき第一次大戦がはじまった」という記載があったとして、それは確かに「歴史」にはなっていて出典の信頼性も高いのでしょうが、「評伝」にはなっていない。人物としては、そのとき何を考え、どう行動したかが書かれないと意味がないと考えます。したがって、人物記事には、通常の歴史記事とは別の基準を設けるべきではないのかというのが、私の意見です。つまり、伝記作家(2.)を中心に書かれるべきだと思うのです。作家の書いたものは、確かに読んでいて事実誤認を見つけることは多いですが、そういうものとして利用すべきではないか。つまり、史実については歴史書・通史などによって考証しながら2.を使う分には問題ないのではないかと思います。1.しかないような人物、亡くなって間もない人物は1.しかない場合も多いわけですが、これがGA基準に達しないというのであれば、私は最初からGA選考基準にそう書くべきだと思います。「自伝しかない人物」はもともと「対象外」だと。誰が書いても無理だということであれば、本人も傷つかずにすむのではないでしょうか。--Greenland4会話2020年10月31日 (土) 17:49 (UTC)[返信]
Greenland4さんの仰っていることは、方針とガイドラインのどの部分に基づいているのでしょうか。「歴史記事」と「人物記事」という二つのジャンルがあって、明確に二つに区分されるという理屈も違和感があり、そのうえで小村寿太郎は歴史記事ではなく、人物記事のみとしか言えないというのも、あまり普通の受け止め方とは言えなさそうです(例えるなら、「江戸幕府は歴史記事ではなく、組織の記事というのが普通の受け止め方で、なので組織に関するビジネス書を出典に使うべきです」……というのと同じことで、普通は成立し得ない主張だと思います)。ですが、そこが論点というわけではなく、すでに述べたとおり、仮に「人物記事」だとしても、WP:RS#情報源の評価に沿った評価を行わず、作家の書いた出典を無条件に使えるというGreenland4さんの主張が、方針とガイドラインに沿わないと考えています。
出典の区分についてですが、まず、仮に1.(自伝の類)しかないということであれば、それは記事主題に特筆性に疑義が生じますし、そもそも削除対象ということもありえます。一次資料のみが使用されている場合、良質な記事の目安のうち、「検証可能性が信頼できる情報源によって担保されている」「独自研究になっていない」「中立的な観点からの記述がなされている」(WP:GAC)に抵触するということで、GA基準に達しないことは現状の基準でも明白だと思います。2.しかまとまった評伝がないのであれば、その情報源が信頼できるものか、人物の属するジャンルを考慮しつつ、すでに挙げた方針・ガイドラインと照らして慎重に検討すべきでしょう。学術的な文脈で評価されていたりするなど、「事実確認や正確さに定評のある情報源」(WP:RS)だということであれば使用も可能だと思われますが、「読んでいて事実誤認を見つけることは多い」ような作家の書籍を出典として用いて、誤りを広めるべきではないです(3.に属する関連文献で書ける範囲で書くべきということです)。「そのとき何を考え、どう行動したか」というのは、もちろん信頼できる情報源から書けるのであれば書くことが必要だと思いますがそもそも、歴史上の人物では、史料がなくて書けない場合も多いと思われます。それなのに、たとえば、『ローマ人の物語』に基づいて、カエサルの思いを無理して書いたりしたら、事実ではなく塩野七生の個人的な想像を百科事典に書くということになり、問題が生じると思われますし(ローマ人の物語#批判)、作家の出典を中心に使うべきだとは私は思いません。--伊佐坂安物会話/履歴2020年10月31日 (土) 23:44 (UTC)[返信]
話を近現代史に限るとすれば、実は、歴史家のメスの入った人物評伝は全体のなかでごく少数だと感じます。たとえば「蔣介石」記事は、
  • 保阪正康『蔣介石』(文藝春秋社〈文春新書〉、1999年)
  • 横山宏章『中華民国 ― 賢人支配の善政主義 ― 』(中央公論社〈中公新書〉、1997年)
  • 石川禎浩『革命とナショナリズム 1925 - 1945』岩波書店〈岩波新書 シリーズ中国現代史3〉、2010年。
の3つに大きく依拠しているようです。確かに、保阪正康は作家ではありますが、この記事から保阪出典を取り除いたら、そもそも記事が成り立つでしょうか。また、伝記作家やノンフィクション作家の力を借りずに「林きむ子」や「お鯉 (芸妓)」の記事が充実するでしょうか。「伝記に拠らずに伝記を書け」というのは、なかなか難しいのではないかと思います。評伝は作家に任せるようなところが、歴史学者のなかにもあるのではないかと思います。方針・ガイドラインに、「人物は歴史記事に含む」という明言があるわけでもありません。ここは閾値の問題だと思います。今後、近現代の人物記事を書かなければよいだけの話ではありますが、それだと少し寂しい気はします。--Greenland4会話2020年11月1日 (日) 01:41 (UTC)[返信]
小村寿太郎・蒋介石と林きむ子お鯉 (芸妓)といった人物を同列に考える必要はなく、繰り返しになりますが、分野を考慮して出典の信頼性を評価することが必要だと思います。林きむ子」やお鯉 (芸妓)についていえば、コメント依頼の方でGreenland4さんが挙げている、森まゆみの著作については、書評が、井波律子松原隆一郎といった学者(歴史学者ではないですが)の手で全国紙に掲載されており、断定はしませんが、信頼できる情報源として使える余地があるかもしれません。ただ、そうした評価(WP:RS)を行わず、人物記事なら無条件に作家の伝記が出典として使える、というGreenland4さんの意見は、方針・ガイドラインに抵触するということです。--伊佐坂安物会話/履歴2020年11月7日 (土) 14:14 (UTC)[返信]
コメント Greenland4様宛 読み物としてのクオリティや、読者にとって有益な情報を提供することを重視されて編集されていらっしゃるとは思うのですが、「人物記事」を「伝記」と捉えるところに問題があるような気がします。図書館で閲覧できるきちんとした百科事典には多くの人物記事が記載されていますが、それらには人物の経歴や業績、人物像が書かれているだけで、「伝記」や「評伝」として書かれている訳ではないはずです。また、伝記作家が書いている訳ではなく、それぞれの人物の分野に詳しい有識者が執筆していると思います(有識者として作家が含まれている可能性はありますが……)。また、良質な記事の分類で人物記事は「人物伝」として歴史分野に括られていることから、人物記事は歴史記事と考えている方もいらっしゃるようですが、作家は文学に分類されていますし、記事や記述ごとに専門分野に応じた信頼できる情報源を考慮していけば、落ち着くべきところに落ち着くと思います。本人言及として、自著・自伝をどの程度使うかは難しいところではありますが……。あと「人物としては、そのとき何を考え、どう行動したかが書かれないと意味がない」というご見解ですが、百科事典の記事としてはそれを「過度に」求めてはいけないような気がします。Wikipediaを読んだ後にもっと知りたいから伝記や評伝を探して読んでもらう……といったぐらいがちょうど良いのではないでしょうか。--Assemblykinematics会話2020年11月7日 (土) 19:55 (UTC)[返信]
(Assemblykinematicsさんへ)すみません。「良質な記事の分類で人物記事は「人物伝」として歴史分野に括られていることから、人物記事は歴史記事と考えている方」というのは私のことを言いたいのだと思いますが、私は小村寿太郎が歴史記事だと言っているのであって、すべての人物記事が歴史記事として取り扱われるべきだとは主張していません。誤解があると思うので、その点だけ明記しておきます。--伊佐坂安物会話/履歴2020年11月8日 (日) 12:31 (UTC)[返信]

石島 (韓国)についての話[編集]

  • コメント こちらについての返信になりますが、これはもうGreenland4さんのコメント依頼の話ではないので私もノートの方にかかせていただきます。
  • 竹島関係の記事に関する限り具体的な内容について人に教示できるような見識は持ち合わせておらず、学説の妥当性自体について私に判断できることはないので記事内容の加筆については申し訳ないながら何も言えません。単純にWikipediaの石島 (韓国)の記事を見てその内容からだけ判断すれば、私が考える最善の解は1. 記事を削除する、2. 内容を数行~最大でも10行程度に圧縮して竹島問題の記事に移す、になると思います。ちょっと長くなりますが、理由は次の通りです。
  • 私は石島 (韓国)の記事は特筆性、立項のされ方自体に問題があり、記事主題的に純学問的な記事にはなりえないと思います。複数の学説による論争がある(または「あった」)主題に関連する記事を当該記事と同じ単位で立項することを想像すれば問題点は明らかです。
  • 例えていえば、石島 (韓国)の立項のされ方は邪馬台国論争の関連記事として、「邪馬台国 (九州)」を立項するのと同じです。ここに邪馬台国九州説への疑問点が列挙されていれば、それは邪馬台国九州説はおかしいという結論を読者に伝えるための文書でしかありません。さらに、ちょっと脱線しますが、私「利用者:TEN」は邪馬台国論争は近畿説が正しく「純学問的には、ほぼ決着のついてしまった問題」であり、九州説はもう成立し得ないと考えています。ですが、だからといって「邪馬台国 (九州)」の記事に「魏志倭人伝の提示」⇒「邪馬台国北九州説の説明」⇒「疑問点列挙」⇒「邪馬台国九州中部説の説明」⇒「九州説を取る学者の猛烈な反駁」⇒「桜井市纒向学研究センターの結論(※一応、これは架空です)」を加筆すれば、どれほど膨大な出典に基づいて書こうと(それらしい出典を相当数付与して記述できます)私の意見を表明したものでしかありえません。
  • 前のコメントで要約したGreenland4さんによる石島 (韓国)での編集はこれと同じ状態になっており、石島 (韓国)の記事に現在存在している論証過程も「石島=独島説はおかしい」という結論を伝えるための文書であることは今の記事を読めば明らかであると思います。そして「1906年7月13日付「皇城新聞」"鬱陵島の配置顛末" という決定的なものが出てしまった」結果、「純学問的にはほぼ決着のついてしまった問題」と結論付けているのは誰か?と言えば、上記のコメントを見る限りGreenland4さん自身としか言えません。
  • 仮に本記事が独立した主題として成立するとしても、「純学問的に決着がついた」という判断は信頼できる出典に基づいて記事に反映されなければならないです。Wikipediaは一応百科事典という枠組みで運営されており論文ではないので、論争について特定の決着を伝えることは記事の目的ではないはずです。これは例えば人類最古の言語=ヘブライ語説やギリシア語説(いわゆるアダムの言語論争)や天動説のような今日では「完全に純学問的に決着がついた」として扱われている論争についての記事でも同様であり、Wikipedia記事に望まれることは人類最古の言語がヘブライ語であるという説が今日の学問的に見ていかに成立しえないか、天動説が成り立ちえないかを論争当事者・関係者の出典を引いて論証・説明することではなく、そうした議論がどのような経緯で始まり、途中どのように議論され、今日のその結論に至ったのか、という経緯(研究史)と状況を出典に基づいて説明し、関連情報へのリンクを読者に提供することであり、論争のある主題について要求される「中立性」というのは対立している両方の説を載せるとか、あるいは学問的決着やプチ・どんでん返しといった表現で語られるようなものではないと思います。
  • 上記から、本記事に本来必要な改善とは削除・移動であると思う次第です。--TEN会話2020年10月31日 (土) 18:04 (UTC)[返信]
返信 丁寧な御返答ありがとうございます。邪馬台国に関しては、TENさんとまったく同意見でありまして、纒向遺跡ほか決定的なものが出てきてしまっている以上、「邪馬台国九州説」は成り立ちがたいものだと考えており、ちゃんと勉強している人にとっては、すでに「ほぼ決着がついてしまった問題」といってよいと思います。この記事については、純学問的には「ほぼ決着がついてしまった」といってよいと思うのですが、それが同時に、政治的には「新たな問題を提起する」「新たな火種を用意する」というものになっています。学問的中立性と政治的中立性が両立しない、むしろ背反するという稀有なケースだと思います。「特筆性」に関しては、「于山国」「于山島」あるいは「邪馬台国」と同様、文献上にあらわれた島・国なわけですから、個人的には問題ないと思っています。「立項のされ方」については、おっしゃる通り、議論の必要なところかもしれません。あるいは「石島 (大韓帝国勅令第41号)」のような名前の方が適切なのかもしれません。ただし、「削除・移動」ないし「内容の圧縮」という結論については、いかがなものかとは思います。この記事は、「竹島外一島」(あるいは「竹島一件」「竹島事件」)などと同様、広く「竹島問題」のなかで問題とされるテーマのひとつを単独記事化して詳述したということなのであり、結局はそういうつながり全体のなかで説明していくしかないのではないかと考えます(最後に少し記事に手を入れたいと思っています)。TENさん、いつもいつも貴重な御意見ありがとうございました。TENさんの御意見は常に率直で論理的、明快で納得のいくものばかりでした。お世話になりました。自分としては、これを最後に領土問題にこれ以上かかわる気はなく、議論に参加するつもりもないので、後はみなさんにお任せしたいと考えます。--Greenland4会話2020年11月8日 (日) 20:50 (UTC)[返信]
返信  返信ありがとうございます。過分な評価をいただきましたが、上の案は私ならこうする以上の話ではないので結論というつもりはないです。一応、私のコメントの趣旨は学術的な分野の記事ならば「純学問的には『ほぼ決着がついてしまった』」という部分にはWikipedia執筆者の評価ではなく信頼できる出典が必要(故に邪馬台国論争を私の判断によって決着のついたものという形式で書くのは適切では無く、この例ならばそれこそ史学雑誌等での総括のようなものが必要。石島=独島説についても同様)、また論争の決着や結論を示すことは百科事典記事の担当するものではないということであり、学問的中立性・政治的中立性の両立という観点で書いたものではないことだけ、再掲させていただきます。--TEN会話2020年11月9日 (月) 16:34 (UTC)[返信]