UTA

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UTA
Union de Transports Aériens
Union des Transports Aériens.svg
IATA
UT
ICAO
UTA
コールサイン
UTA
設立 1963年10月1日
運航停止 1992年12月18日
ハブ空港 シャルル・ド・ゴール国際空港
保有機材数 14機 (1992年12月時点)
本拠地 フランスの旗フランス共和国パリ市8区
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UTAフランス語: Union de Transports Aeriens、IATA: UT, ICAO: UTA, コールサイン: UTA)は、1963年から1990年にかけて存在したフランスの国際航空会社。

概要[ソースを編集]

主にフランス本土とアフリカインド洋上の旧植民地、および日本東南アジアニューカレドニアタヒチオーストラリアニュージーランドなど島などを結び、エールフランスに次ぐフランス第二の航空会社だったが、1990年、エールフランスに吸収合併された。 機材の塗装は尾翼付近を紺色としていた他は白だったが、ドアだけを緑色に塗るという特徴的なものであった。 旅行会社のパンフレットなどではUTAフランス航空と紹介されていた。

1946年10月26日パリマルセイユ便から運行開始したT.A.I.(Transports Aériens Intercontinentaux・英語版)と、1950年パリ・ダカール便を開設したUATUnion Aéromaritime de Transport・英語版)の二社が合併し設立。前身会社はいずれもパリ=オルリー空港ベース、機材はダグラス DC-3(C-47)型機、DC-4(C-54)型機などを使用し冒頭の植民地中心に事業展開していた。

UATは1949年に西アフリカに定期航路を展開するフランスの船会社シャルジュール・レユニ(Chargeurs Réunis、英名United Shippers)[1]と複数の工業技術者出資で発足、運行はパリ発着でダカール、ポワントノワールサイゴンの各航路や不定期航空貨物便を展開、メインフリートをダグラスDC-6B型機に定め増機を図ったが新造機の納入は早くとも4、5年後というダグラス社の回答に日本航空同様中古機を買収し内3機は貨物型DC-6A型機を旅客型に改修、新造の2機は1958年に受領し代買追加を含め延べ10機を使用している。1953年2月19日デ・ハビランド コメット1型機を西アフリカ便に投入しさらに同年11月にはトリポリヨハネスブルグ航路の一部便で運用した[2]

UAT デ・ハビランド コメット1A型機

1961年3月エール・アフリックの発足時にUATは機材貸与など事業協力し、シャルジュール・レユニなどと連名協同設立した総合輸送事業の合弁会社SODETRAを業務再編しUATが担当だった航空輸送部門を分離してエール・アフリックに継承させている。

T.A.I.ダグラス DC-6B型機

T.A.I.はダグラスDC-4型機と後継DC-6型機を主力に据え、1950年代初期にはパリ発着ハノイ[3]アンタナナリボ[4]アビジャン[5]ダカール[6]の各航路を展開、この間には飛行艇ショート ソレントをリース、ポリネシアボラボラ島へ商業運行の試験飛行や1952年シュド・エスト SE.2010型機を4機8ヶ月使用して取りやめなど試行錯誤を繰り返した。主力機のDC-6型は改良版DC-6B型機に展開、T.A.I.では1953年6月12日DC-6B型で2機目にあたる国籍登録記号F-BGOD(c/n43835/380[7])を完成引渡し後に仮設燃料タンクを増設しフェリーと実地実験を兼ねてサンタモニカ・パリ間5,700マイルをノンストップで飛行させ、この試みは1956年1月1日パリ・ハノイ路線からニューカレドニアヌメアまで延長された際に生かされた[8]

両社が発展した1950年代は一方で年を追う事に定期航路を展開していた地域フランス保護領と植民地では内戦や独立が相次ぎ、経由地のイギリス領なども国境紛争などが発生し、その乗入れ権と定期便航路維持どころか安全を脅かす世界情勢の変化に直面し、各地へ軍事支援の期間限定チャーター便で収益を得たが一時的なもので徐々に安定した事業展開が望めない状況となった。
T.A.I.では1956年カイロ国際空港でDC-6B型機事故と1959年9月24日ボルドー・メリニャック空港307便墜落事故(T.A.I.307便墜落事故・英語版)発生から安全面信頼性は失墜し、UATはこの世界情勢にデ・ハビランド コメット型機導入とその失敗からチャーター便を含む貨物事業強化で海上輸送シャルジュール・レユニとの連携をさらに強め挽回を図ったがこの親会社の投資ファンド部門から支援を回復できず[9]、両社は来たる1960年代を前に競合航空会社へ対抗絶対条件である機材のジェット化更新へ資金調達条件は厳しいものとなり経営不振に先行きすら危ぶまれた[10]。経営建て直しには二社合併策が提言されシャルジュール・レユニとUAT主導で計画は進みT.A.I.を吸収合併するかたちで1963年10月1日UTA(Union de Transports Aeriens)は発足した。社名は誤って「Union de Transports Aéromaritime」と報道などで誤記呼称されることが多く、前身会社UATの「Aéromaritime(空・海事)」との誤解だったが、略称「UTA」を「UAT」と間違う以外は抗議しなかったという。シャルジュール・レユニはのち増資分を引受け1990年頃までUTA全株式の62.5%を保有し、1954年11月に前身会社を発足し1960年2月コルシカ島を結ぶ定期便を開設したエールアンテールについて60年代に入り事業提携からUTAを通して増額出資分を引き受けている。

1960年代に入ると国内外の航空会社間で集客競争が激化した。UTAはその前身時代からエールフランスとの路線航路便数割当てをめぐる争いを展開し1963年合併発足後、フランス政府は郵便事業助成から介入しUTAにはフランス本土からアフリカ、オセアニアのおもに南半球を割当て大半には航路の独占権を付与し仲裁しのちアメリカとの以遠権交渉から、フランス発着サンフランシスコ、ロサンゼルスなどを経由し接続するオセアニア便数拡大で中間区間にあたる北大西洋横断便枠の割譲を受けている。
アメリカでは1978年12月航空規制緩和法英語版(Airline Deregulation Act)が議会通過後、北米の航空各社は自由競争の時代に入り北大西洋横断便はそれまでIATA協定から格安航空会社ロフトリディア(Loftleiðir英名:アイスランディック航空Icelandic Airlines 英語版)など所要時間が長いローカル路線便、会員制団体旅行クラブなどチャーター便に限られたが規制枠外からイギリスレイカー航空など幹線を低料金で大量輸送する会社が登場し新しい時代に入りつつあった。1986年フランス政府は航空事業の規制緩和とフランス国鉄(SNCF)にUTA、エールフランス、エールアンテールを含めた国内外航路網の統合整備を伴う総合交通輸送政策を発表、航空会社には路線の見直しと整備拠点など集約合理化を指示、事業規模の変更に伴い各社では人員整理解雇、賃金カットを予告するとパイロットを含めた労働組合によるストライキが頻発して欠航が相次ぎ、混乱する運行状況から乗客はフランス国籍航空各社を倦厭遠慮しそれぞれは減収し、UTAでは路線統合の見返りに乗換え便へ連結出来るニューヨーク便などの増便許可を求めたが1988年運輸大臣から拒絶され、1989年10月労組との交渉決裂からUTAは破綻を前に身売りを決断フランス国外の大手航空会社と交渉機会を持ったがオセアニア、インド洋などローカル国際航路が多い事業展開に興味を示す会社は無く1990年1月12日エールフランス傘下におかれ1992年12月18日吸収合併で消滅した。

日本乗り入れは1974年11月から東京当時の羽田空港に就航、路線は本国フランスのパリからではなくニューカレドニアのヌメアから延伸だった。アイランドホッピング航路が多いUTAでこの路線はヌメアで便名を変えてサンフランシスコニューヨークを経由してパリへ向かう航路で機材メンテナンスなどの都合でもあった。当初は季節期間限定運行でDC-8-53型機を使用して開始、成田空港移行後の1980年頃から日本航空との共同運航便(UTA機材で運行。)になったが季節限定運行は変わらず、1983年頃DC-10-30型機に更新から通年定期運行へ、1990年代のAFへの統合で747-300/400で成田に乗り入れてパリ、パペーテ、ヌメアの各便で使用されていた。現在ヌメア便はエアカランのA330で運航している。

主な運航機材[ソースを編集]

DC-6A 
DC-8-53 
DC-10-30 
747SP 
ボーイング747-200 
747-300 
ボーイング747-400 

エピソード[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 海上輸送の合同会社投資信託業も営む。
  2. ^ 3機導入。登録記号F-BGSCは就航後7週間目の1953年6月20日セネガルダカール(当時)ダーカー・ヨフ空港にてオーバーラン事故で喪失(死者無し)、翌年4月コメット連続墜落事故による耐空証明再取消しで運用を終えた。
  3. ^ パリ発着チュニスダマスカスカラチバンコクサイゴンハノイ終点。
  4. ^ パリ発着アルジェフォート・ラミードゥアラブラザビルアンタナナリボ終点。
  5. ^ パリ発着カサブランカバマコアビジャン終点。
  6. ^ パリ発着カサブランカバマコダカール終点
  7. ^ この機体は1956年2月20日カイロ国際空港で操縦ミスにより喪失している。
  8. ^ 1952年スカンジナビア航空もサンタモニカ・コペンハーゲン間フェリー飛行に仮設燃料タンクで北極圏を通過する実験を行うなどDC-6B型機は予行や試行で度々使用された。
  9. ^ 1958年12月26日ローデシア(現ジンバブエ)ソールズベリー(現ハラレ)でダグラスDC-6B型機がサイクロン接近の悪天候下のなか離陸直後に墜落、乗客乗員70名中死亡3名の事故を起こしている。開業後の約5年間とは打って変わりコメット型機導入失敗で機材不足に陥った反省から慎重な事業展開に移行、短命が予想されたダグラス DC-7C型機を見送りDC-6B型機を使い続けダグラス DC-8型機納入を待つ計画のなか、この事故は大きな痛手となった。
  10. ^ 1960年DC-8-30型機をT.A.I.は1機、UATは2機導入合併までに中古機を含めそれぞれ3機合計6機を導入している

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]