R・バド・ドワイヤー

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ロバート・バド・ドワイヤー
R. Budd Dwyer.png
1980年代のドワイヤー
第30代 ペンシルベニア州財務官
任期
1981年1月20日 – 1987年1月22日
前任者 ロバート・E・ケイシー
後任者 G・デイビス・グリーンJr
ペンシルベニア州上院議員
50地区選出
任期
1971年1月5日 – 1981年1月20日[1]
前任者 ジェームズ・E・ウィリアード
後任者 ロイ・ウィルト
選挙区 マーサー郡クロウフォード郡及びエリー郡の一部[2]
ペンシルベニア州下院議員
6地区選出
任期
1969年1月7日 – 1970年11月30日
前任者 地区創設
後任者 ハリソン・ハスケル
選挙区 クロウフォード郡の一部[3]
ペンシルベニア州下院議員
クロウフォード郡選出
任期
1965年1月5日 – 1968年11月30日
個人情報
生誕 ロバート・バド・ドワイヤー
(1939-11-21) 1939年11月21日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州セントチャールズ
死没 1987年1月22日(1987-01-22)(47歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ハリスバーグ
死因 銃による自殺
政党 共和党
配偶者
ジョアン・ドワイヤー
(m. 1963; バドの死 1987)
親戚 ロバート・マルコム・ドワイヤーとアリス・メアリー・バド・ドワイヤー(両親) (死亡); ロス・ドワイヤー、ローガン・シーバーグ(孫)[4]
子供 2
出身校 アラゲイニー大学
専業 教師、政治家

ロバート・バド・ドワイヤー(Robert Budd Dwyer、1939年11月21日 - 1987年1月22日)は、ペンシルベニア州の第30代財務官。 彼は1971年から1981年に州の50地区を代表するペンシルベニア州上院の共和党員として務めた。 その後、彼は1981年1月20日からペンシルベニア州の第30代財務官を1987年1月22日に死去する日まで務めた。 ドワイヤーはペンシルベニア州の州都ハリスバーグで記者会見を行い、集まった記者たちの前で、.357マグナムリボルバーで頭を撃ち自殺した[5] 。ドワイヤーの自殺はペンシルベニア州でテレビ放送された。

1980年代初めに、ペンシルベニア州は州の労働者が州の源泉徴収の間違いのために連邦税を過払いしていたことを発見した。 多くの会計事務所が、各労働者に対する補償を決定するための数百万ドルの契約を獲得するために競った。 1986年には、ドワイヤーは最終的に契約を獲得したカリフォルニアの会社から賄賂を受け取ったとして有罪判決を受けた。 ドワイヤーは自殺の翌日の1987年1月23日に共謀罪や郵便詐欺などで刑を宣告される予定だった。

ドワイヤーの裁判の間及び有罪判決の後を通じて自身に対して課された罪に対して無実であり、濡れ衣をきせられたと主張した。 数十年後、証拠が主にドワイヤーの有罪判決を得るために使用された検察の主証人、ウィリアム・T・スミスは、ドワイヤーについてのドキュメンタリー『Honest Man: The Life of R. Budd Dwyer』でドワイヤーの裁判で行った証言と同様にドワイヤーに賄賂を贈り、彼が受け取ったと語った。彼はドワイヤーに賄賂を贈る決断とそれがドワイヤーの死の要因となった事に悔恨の念を表した。ドワイヤーを訴追した元代理地方検事のJames J. Westは2010年にドワイヤーの有罪を断言した[6]

初期の生活と教育[編集]

若き頃のドワイヤー
1970年のドワイヤーの妻と子供
ドワイヤーと家族

ドワイヤーはペンシルベニア州ミードビルのアラゲイニー大学を卒業し、大学ではシータ・チー・フレタリティーのベータ・チー・チャプターの会員であった。教育での修士号を得た後、彼はケンブリッジスプリングス高校で社会学を教え、フットボールのコーチを務めた。

経歴[編集]

1970年代にゼラルド・フォード米国大統領と一緒にいるドワイヤー
1984年にペンシルベニア州の財務長官としての2期目の宣誓をしている際のドワイヤー 

共和党員としてドワイヤーは政治において活動的になった。 彼は1964年に第6区(1969年以前に州によって配分された議席)からペンシルベニア州下院議員に選出され、1966年と1968年に再選された。1970年に下院議員であったドワイヤーは、ペンシルベニア州の50番地区の上院議員の座を巡って争い勝利した。 勝利の直後、彼は下院議員の職を辞し、1971年1月に上院議員として宣誓した。

1974年と1978年に再選された後、ドワイヤーは州政府への就任を決心し、1980年には1976年以来ロバート・E・ケーシーが務めていたペンシルベニア財務官の選挙に勝利し就任した。 1984年に任期を終え、再び出馬し再選された。 

収賄捜査[編集]

1980年代初期、ペンシルベニア州の公務員が、連邦保険拠出法(FICA)の税金を何百万ドルも過払いしていた。 その結果、州は労働者への還付額を決定するため会計事務所の入札を募った。この契約は最終的にペンシルベニア州ハリスバーグ出身のジョン・トゥルコートJrが所有するカリフォルニア州のコンピュータ・テクノロジー・アソシエイツ(CTA)が獲得した。 その後、ペンシルベニア州知事、ディック・ソーンバーグは、460万ドルの契約の入札プロセス中に行われた贈収賄の申し立てを詳述する匿名のメモを受け取った。

連邦検察官による調査が行われた。 ドワイヤーは、CTAに向かって契約を進めるために彼の地位を利用することの見返りとして30万ドル相当のリベートを受け取ることに同意した収賄容疑の疑いがかかっていた。 連邦検事は、トゥルコート、トゥルコートの弁護士ウィリアム・T・スミスと、スミスの妻、ペンシルベニア州上院の共和党の元党首ボブ・アッシャーを告発した。減刑判決を受ける代わりにトゥルコートとスミスは、連邦政府を代表してドワイヤーとアッシャーに対する証言をした。

ドワイヤーはいかなる不正行為も否定した。 連邦検察は、一件だけの贈賄容疑での起訴(最長5年の拘禁を意味するだろう)の代わりにペンシルベニア州の財務官として辞表を出し、政府の調査に完全に協力するよう求める司法取引を持ち掛けたが、ドワイヤーは拒否した。完全な裁判になった。 しかし、訴訟は起訴された人だけに限られていたため、彼の弁護は検察によって抑止された。 賄賂スキャンダルで結ばれていたが、裁判ではなかった共犯者の名前は保留されていた。 これらの無名の個人は、ドーフィン郡共和党の職員であったと考えられていた[7]

1986年12月18日、ドワイヤーは11件の共謀罪、郵便詐欺、偽証罪、州間輸送などの有罪判決を受け、最高55年の懲役および30万ドルの罰金を受ける[8][9]可能性があった。彼の判決は、1987年1月23日、地方裁判所のマルコム・ミューア判事によって行われる予定だった[8]

ドワイヤーの共同被告であるボブ・アッシャーは、懲役1年の判決を受けた。 彼は後に政治に戻って、ペンシルベニア州の共和党国家委員長を務めた[10]

州財務官としてのドワイヤーの状況[編集]

ペンシルベニア州の法律では、1月の判決まで正式にドワイヤーを解職することができなかったと述べている。 これを考えると、ドワイヤーは、法的控訴が解決するまで、無給休暇で給料を支払わずに財務長官に留まると述べた。 その間、州財務省は副財務官ドナルド・L・ジョンソンによって運営された[8]

ドワイヤーは有罪判決を受けた後、引き続き無実を公言し続けた[10] 。12月23日に彼はロナルド・レーガン大統領に大統領恩赦を[11] 、この努力への支援を求めアーレン・スペクター上院議員に手紙を書いた[12]

ドワイヤーへの判決の週、ペンシルベニア州検事総長リロイ・ジマーマンと州検事はペンシルベニア州憲法の条項を調査していた。憲法では、犯罪で有罪判決を受けた公務員の解職が「自動実行」つまり判決時に自動的に解職されるということであった。この憲法的ポイントを確認した決定はドワイヤーの判決の前日の1月22日に予定されていた[8][13]

1月22日の記者会見[編集]

1987年1月15日、ドワイヤーは秘書のジェームズ・「デューク」・ホーショックと副財務官ドン・ジョンソンと記者会見のアイディアをドワイヤーの自宅で議論した。当時は、ジョンソンはドワイヤーは記者会見の場で知事や彼の有罪判決に関わった個人を攻撃しないように忠告し、ドワイヤーは彼がそうしないことを彼に保証した。 記者会見が行われれば、結局ドワイヤーが辞任すると見なしたホーショックとジョンソンは離れた[14]

判決2日前の1月21日にドワイヤーはスペクター上院議員と電話で話した。スペクターの補佐官は両者は8分間から10分間話したと述べた[15]。当時ドワイヤーは上院議員には助力を求める手紙を大統領には恩赦を求める手紙を送付していたが、上院議員はドワイヤーの要求は控訴審も含め裁判が進行中であるため「非現実的だ」 と返答した[12][15][16]

同日にドワイヤーは報道官のホーショックと副報道官のグレゴリー・ペニーに翌日の記者会見の準備をするよう求めた。その際にドワイヤーは彼らに何を話す予定なのか伝えなかった[17][18] 。ホーショックは翌日の1月22日の午前10時30分(EST)に記者会見を手配した。報道官は多数の記者に記者会見への参加を呼びかけた上で自身は記者会見の内容について知らないと述べた[8][18]

今回の記者会見では、米国の弁護士ジェイムズ・ジェイ・ウェストは、同氏に対する信念を守っていたことを振り返り、ドワイヤーの辞任は「状況の中で適切なものだと思う。辞任することで皆の時間と苛立ちをセーブすることになるようだ」[8] と述べた。同様に、ハリスバーグ・パトリオット・ニュース記者のケン・マーシャルは、記者たちの間でドワイヤーが財務官の辞任を発表するのを見るために出席するというコンセンサスがあったと述べた。「私の使命は、彼が(辞任の)言葉を述べるまでそこにとどまり、その後新しいトップに電話をかけることでした」[19]

当時は誰もドワイヤーが更に過激な行動をとることは考えていなかった。記者会見の前日の夜にドワイヤーは以下の様に記述している。

「私はジョーと一緒にいることを楽しんでいます。次の20年ほどは素晴らしかったでしょう。 明日はとても難しいだろうし、私は上手くやることができればいいと思う」[20]

ドワイヤーのプレス文[編集]

翌日の朝、ドワイヤーは予定通り記者会見に出席した。彼は再び無罪を主張し、用意してきた「刑事裁判システムについての散漫な論争」と表現した21ページのテキスト分を読み始めた[19] 。司法制度を汚し、自身も堕落した人物としてソーンバーグ元知事、連邦検察官、FBIのエージェント、ミューア判事などを挙げた[12]。ドワイヤーは死刑に反対し、ペンシルベニアの議会に参加していた間に投票に賛成してしまったことへの後悔を表明した。このスピーチは30分近く続き、終わる目途が立たなかったのでスピーチ開始から半分近く経った時に集まった記者の一部は帰りだした。ドワイヤーは記者が帰る姿を見つけ、演説を一時止め、「カメラをどかそうとしている人たちへ、あなたたちは留まるべきだ。まだ終わっていない」と述べた[18]

ドワイヤーのテキストの一部が扇動的であることから報道官のホーショックは彼を止めようと検討したが、ドワイヤーの会見後に彼自身の記者会見を開催すると結論づけた。「私は声明の内容を知らなかったことを知らせなければならなかった。私は彼のためにテキストを書いたと考えられることを望んでいなかった」[14]

前もって記者にも報道官のホーショックにも配布していなかった彼の声明の最後のページに到達し、ドワイヤーは一時停止した。「...そして私は今最後のページにいて、私は渡すのに十分ではありませんが、デューク[ホーショック]、私はテキストをここに残しておくからコピーして配布してくれ。今ここに余分なコピーがある」[21]。ドワイヤーは以下の様につづけた:

私は47年間の刺激的な挑戦と経験、多くの幸福な機会、そして何よりも男が望むことができる最高の妻と子供たちを与えてくれた主に感謝します。今、何の理由もなく私の人生は変わりました。私に電話をしてきたり手紙を書いてくる人は怒っており、無力感を感じている。彼らは私が無実で助けたいと思っていますが、この国では世界最大の民主主義があります。彼らは私が犯したことのない犯罪に対して私が処罰されるのを防ぐことが何もできません。私が現代の仕事であると言った人もいます。ミュラー判事は時代遅れの判決でも有名です。私は無実であるにもかかわらず刑務所で55年の懲役判決と30万5000ドルの罰金が科せられます。ミュラー判事は、すでに有罪判決が下されたときに「元気づけられた」と感じ、他の公務員に対する「抑止力」として私を投獄する予定であると語りました。 しかし、私を知っているすべての公務員は私が無実であることを知っているので、それは抑止力にはならない。 私は何も間違ったことをしていないので、それは正当な罰ではないでしょう。 私は政治的迫害の犠牲者なので、私の刑務所はアメリカ版の強制収容所に過ぎません。私は、家族に友情と祈りを広げ続け、米国で真の司法制度を創造するために飽き足らずに働き、私を擁護しようと努力して、私の家族彼らの未来の家族は私にふりかかったこの不公正によっては汚染されていません。私たちは権利と真実が勝利し、無罪となると確信しており、残りの人生は米国内で司法制度を創造するために努力しています。罪のない判決は、その解決を強化しました。しかし、私たちの法制度の疣贅を暴露するという計画について話し合ったので、人々は「なぜわざわざ? 誰も気にしない、あなたは馬鹿げているように見える。60分、20/20、アメリカの市民自由連合、ジャックアンダーソン、そして他の人たちは、あなたのような事件を長年にわたり公表してきており、誰も気にしない」と語りました。

この時点で、ドワイヤーは準備された発言を読むのを辞め、集まった報道陣は依然として彼の辞任を待っていた。 それでもなお重要な部分が残っていて、彼が実際にやろうとしていたことを詳述した。

私は財務官を辞任するつもりはないと繰り返し言いました。何時間もの思考と瞑想の後、私は自分の状況に固有のものなので、誰にもあてはまらない決定をしました。昨年5月、裁判後にあなた方に10年の話をお伝えすると言いました。浅はかな人にとっては、今朝の出来事がその話になります。しかし、深い懸念を抱いている人たちには、本当の話は、今朝からの希望と祈りの結果になります。数ヶ月、数年のうちに、ここにアメリカで真の司法制度が発展します。私は彼らの恥として広がっている恥の事実が、私たちの市民の恥知らずな部分を燃やさず、アメリカの誇りに火をつけるかどうか見ながら死んでいきます。すべてのラジオやテレビ局、そして米国のすべての新聞や雑誌で私の話を伝えてください。身体的または精神的苦痛を引き起こさせたくないので、胃や心が弱い場合はすぐに退出してください。 ジョアン、ロブ、ディーディー [sic] - 私は君たちを愛している!私の人生をとても幸せにしてくれてありがとう。私の人生の犠牲が無駄ではないことを忘れないでくれ

彼の演説から逃れることを決めた後、ドワイヤーは彼のスタッフの3人を呼び、それぞれに州財務省の記章が入った封筒を渡した[14] 。ボブ・ホルシュテに渡された最初の封筒には、ちょうど2日前に就任したペンシルベニア州知事ボブ・ケイシー宛の手紙が入っていた。 グレゴリー・ペニー副報道官に渡された第2の封筒には、臓器提供者カードおよびその他の関連資料が含まれていた。 ドン・ジョンソン副財務官に渡された最後の封筒には3通の手紙(妻のジョアン宛と、彼の子供のロブとディーディ宛)と葬儀の手配を含む、ドワイヤーの家族向けの資料が含まれていた[14][20][22]

記者会見に参加していたフリーランスの写真家ゲイリー・ミラーは現場の状況を「長たらしく悲しい出来事だった」と表現した[19]

公開自殺[編集]

ドワイヤーが話し終わり、ノートを彼のスタッフに渡した後、スミス&ウェッソンモデル27.6インチ 357マグナムリボルバーをマニラ紙製の封筒から取り出した。部屋の群衆がドワイヤーが封筒から引き抜いた銃を見たとき、場の雰囲気は急変し、パニック状態になった。ドワイヤーは聴衆に冷静に「部屋を離れてください。もしかしたらこれがあなたに影響を与えるかもしれない」[23]と言った。

混乱の後、助けを求めに部屋を離れた人達がいる一方、部屋に留まった人は「やめろ!」「間違っている!」「話を聞け!」と怒鳴りながら、ドワイヤーに銃を降ろすよう求める人や、ドワイヤーに近づき彼の武器を確保しようと試みる人もいた。ドワイヤーは「やめなさい、やめなさい、これが誰かを傷つけてしまうかもしれない」と警告した[24]。その後ドワイヤーは自分の口の中に向け銃を撃ち床に崩れて死亡した[25]。ドワイヤーの自殺は5台のニュースカメラが記録していた。そのうちの一台のカメラはドワイヤーを映し続けており、発砲の後、ドワイヤーの死体をズームアップで映した。フロアに崩れ落ちたドワイヤーの鼻孔と後頭部から血が流れ出ていた[26] 。ホーソホックが演壇に上がりメディアに離れるよう求め、医療援助と州警察に連絡するように求めた。

ドワイヤーは午前11時少し前に銃撃で即死したが、午前11時31分に現場で死亡を宣告された[24] 。後に補佐官がドワイヤーの角膜が臓器提供の希望により移植のために利用可能になったと述べたが、他の部位は彼の体が病院に到着した時点で使用不可能になっていた[18]

映像とテレビメディア[編集]

ペンシルベニア州の多くのテレビ局は、深夜にドワイヤーの自殺のビデオテープを放送した。 フィラデルフィア放送局の「WPVI(Channel 6)」は、ドワイヤーが銃の引き金を引き後ろ向きに倒れたことを示したが、弾丸の通り道は示さなかった[27] 。次の数時間で、ニュース編集者はどのくらいの映像を放映するかを決める必要があった[28]

WCAUやペンシルベニアのグループW放送局、KYWやKDKAを含む多くの放送局は、発砲の直前で映像をストップした。しかし、後者の2つの放送局は、発砲直前で停止された映像の下でその後の撮影の音声を継続することにした。グループWのニュースカメラマンのウィリアム・L・「ビル」・マーティンとレポーターのデイビッド・ソーレンバーガーは記者会見でカメラを設置していたが、彼らは、ドワイヤーが銃を口に咥えた状態で停止した映像と共に音声を放送することに決めた。少数だけが編集されていない記者会見を放映した。フィラデルフィアのWPVIは、午後5時と午後6時に自殺映像の全編を再放送した。アクションニュースは視聴者に警告することなく放送した。その放送局の放送が現在インターネット上で流通している自殺映像の元である。ピッツバーグのWPXIは早朝のニュース番組で無修正の映像を放送しているとAP通信が報道した。WPXIの運営マネージャーのウィリアムズは、放映の決定を説明するにあたり、「重要な人物についての重要な出来事だ」と述べた。ウィリアムズは夜のニュース番組で映像を放映することを避けた理由として「その時には彼の自殺を誰もが知っているし学校から帰ってきた子供がいる」と説明した[29] 。しかし、ペンシルベニア州中央部では、吹雪のためにドワイヤーの自殺日の日中に学校から帰宅した子供が多く、ハリスバーグのテレビ局WHTM-TVはその日に2回自殺のビデオを放映することを選びストーリーの重要な性質だとして、その後数百人の視聴者から苦情が寄せられたにも関わらず、決定を擁護した。

多くの学生はチャレンジャー号爆発事故と同様にブラックジョークを作ることで反応した。 ジョークの事例の研究で、ブラックジョークは無修正の記者会見の映像を放送された地域で起きたとされた[30] 。 ドワイヤーの自殺現場にいた少なくとも1人の記者が証人であることに苦しんでいた。 ドワイヤーから数歩先に立っていたラジオ記者のトニー・ロメオはドワイヤーの自殺後、うつ病を発症し記者職を休職した[31]

ボブ・ケーシー知事への手紙[編集]

ドワイヤーの共和党知事ソーンバーグへの深い不信が記者会見で詳細に説明された[32] 。ドワイヤーの記者会見及び自殺時点ではソーンバーグはドワイヤーに代わる新財務官を任命する権力はなかった。その代わり、民主党のボブ・ケーシー新知事が1987年1月20日に就任した[33]

ドワイヤーがケーシーに送った手紙には、とりわけ「あなたがこの手紙を受け取るまでに、ペンシルベニア州財務局は空白になっているでしょう。私は辞任しなかったことを強調しますが、ペンシルベニア州財務官として最後の時まであり続けました」と語っていた。また、ケーシー知事について、「今のペンシルベニア州が必要としている素晴らしい知事になられるでしょう」と語った。 ドワイヤーは妻ジョアンを「非常に才能があり、魅力的で、組織的で、勤勉です」と表現しペンシルベニア州の財務官の後任として提案した[34]

ケーシー知事はドワイヤーの提案を受けいれなかった。 1月22日の事態にかかわらず、ペンシルベニア州知事と議会は、すでにドワイヤーが辞任するか、解職されることを予期していた。そのようなことから、民主党の次の財務官がドワイヤーの残りの任期を務め、任期の終わりに辞任する合意が既に仲介されていた。そのような状況からドワイヤーの自殺の翌日の1987年1月23日にG・デイビス・グリーンJrがペンシルベニア州の第31代財務官に任命された。 [35]

遺族給付金と埋葬[編集]

ドワイヤーの在職中の死により未亡人となったジョアンは合計120万ドル以上の遺族年金を受け取った。これは、当時、州制度で最大の遺族年金支払いであった。 ドワイヤーへの有罪判決が下された場合、州法は州が提供する年金給付金の支払いを禁止していたであろう[36]。ドワイヤーの広報担当者は、法的防衛費によって家計が破綻していた家族への年金給付を保護するために自殺した可能性があると示唆した[37]。 友人や家族からの他の声明でもこれがドワイヤーの動機であることを示唆している[20]

大衆文化[編集]

1988年、ポスト・ハードコアバンドのレイプマンはドワイヤーに言及した『Budd EP』をリリースした。

1990年、学術雑誌『Symbolic Interaction』でドワイヤーの自殺は「自殺研究へのエスノメソドロジー的アプローチ」として用いられた[38]

1992年、オルタナティブ・ロックバンドの「フェイス・ノー・モア」はドワイヤーの自殺の音声クリップのサンプルを取り上げた「The World Is Yours」という曲名の音楽を録音した。更にドワイヤーの最後に発した言葉「This will hurt someone(これは誰かを傷つけるだろう)」が曲の歌詞に含まれている[39]

また、1992年にドイツのスラッシュメタルバンド「Kreator」がリニューアルアルバム『Karmic Wheel』を作曲し、イベントに関する歌詞とドワイヤーの演説の部分録音を収録。 このアルバムのこの曲のバージョンでは、スピーチは聞き取りにくいが、編集アルバムのシナリオでは、より鮮明なバージョンが用意されている。

インダストリアル・ロックバンドのフィルターは1995年に自身のアルバム『Short Bus』向けの曲『Hey Man Nice Shot』を作曲した。フィルターのリーダーのリチャード・パトリックによれば、曲の歌詞は自殺の件についてだという[40]

2013年にデスコアバンド「Fit For An Autopsy」はアルバム『Hellbound』にドワイヤーへの追悼として『Thank You Budd Dwyer(あいがとうバド・ドワイヤー)』と題した曲を制作した[41]

2010年10月9日にノーカットのドワイヤーについてのドキュメンタリー『Honest Man: The Life of R. Budd Dwyer』が「Carmel Art & Film Festival 」で初放映された[42] 。2010年11月10日にドワイヤーの家族がペンシルベニア州のプレミアに参加し、ハリスバーグでQ&Aセッションに参加した(質問は審査されている)[43]

オーストラリアのメタルプロジェクト「エレンデ」は2015年に発売した曲『Weltennacht』の中でドワイヤーの自殺の音声を含んでいた。曲の公式映像には一部修正が加えられた自殺映像も含んでいた。

ペンシルベニア州を拠点とするロックバンド「CKY」のオリジナルアルバム『Volume 1』のカバーにドワイヤーの自殺の正確な瞬間を描写した絵が使用された。カバーはその後ギタリスト「Chad I Ginsburg」がステージで演奏している画像に変更された。

参考文献[編集]

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  38. ^ Bjelić, Dušan I. (Fall 1990). "Public Suicide as a Deed of Optionless Intimacy". Symbolic Interaction. 13 (2): 161–183. doi:10.1525/si.1990.13.2.161. JSTOR 10.1525/si.1990.13.2.161
  39. ^ "31 DAYS OF FAITH NO MORE - "THE WORLD IS YOURS"". Metalsucks.com. 2015年12月16日閲覧
  40. ^ "Hey Man Very Nice Shot". MTV. 7 July 1995. 2016年11月15日閲覧
  41. ^ "FIT FOR AN AUTOPSY Pay Tribute To Politician Budd Dwyer In New Song". Metalinjection.net. 2013年9月4日閲覧
  42. ^ Honest Man, Official Website
  43. ^ "Interview with the filmmaker and the Dwyer family by WHTM Harrisburg", ABC27, 10 November 2010 (unavailable as of 13 December 2010)

さらなる文献[編集]

  • Grossman, Mark (2003). Political corruption in America: an encyclopedia of scandals, power, and greed (2003 ed.). ABC-CLIO. ISBN 978-1-57607-060-4 - Total pages: 466
  • Keisling, William (2003). The Sins of Our Fathers (2011 ed.). Yardbird Books/yardbird.com. ISBN 978-0-9620251-0-5 - Total pages: 167

外部リンク[編集]

公職
先代:
ロバート・E・ケーシー
ペンシルベニア州財務官英語版
1981–1987
次代:
G・デヴィス・グリーン・ジュニア英語版