P・ラムリー

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P・ラムリー
P. Ramlee
1954年
基本情報
出生名 Teuku Zakaria bin Teuku Nyak Puteh
生誕 1929年3月22日
出身地 海峡植民地ペナン
死没 (1973-05-29) 1973年5月29日(44歳没)
マレーシアの旗 マレーシアクアラルンプール
ジャンル
  • マレー歌謡
  • マレー・ポップス
職業 シンガーソングライター俳優映画監督音楽プロデューサー
担当楽器
活動期間 1945年 - 1973年

P・ラムリー (マレー語: P. Ramlee1929年3月22日 - 1973年5月29日)はマレーシアのシンガーソングライター、俳優。1929年にマレーシア、ペナン州で生まれた。1950年代から1970年代にかけて活躍し、「マレーシア音楽の父」と呼ばれている。1963年には東京で開催されたアジア映画祭で「The Most Versatile Talent Award」を受賞しています[1]

後に続く「マレーシアの英雄」、1970年代から1980年代にかけて大きな人気を誇ったスディルマン・アーシャドなどと共に、マレーシア大衆音楽の最重要人物とされている。P・ラムリーがジャズラテン音楽世代なら、スディルマン・アーシャドはロック世代を代表する歌手だった。二人ともポップ・ソングも伝統歌謡も歌い、幅広いレパートリーを持っていた[2]

1973年5月29日に心臓病のため44歳で死去[3][4]。2019年には、彼の歌曲149曲が国家遺産となりました[5]

来歴[編集]

P・ラムリーは、1929年にペナン島で生まれました。中等教育の途中で太平洋戦争が勃発、日本軍がペナン島を占領すると日本海軍学校に入学します。そこで音楽の基礎や日本語を学び、日本の曲をピアノやバイオリンで演奏するようになります。後に、日本映画からも影響を受けたそうです。

1945年には最初の音楽バンドを結成し、音楽家としてキャリアをスタート。1948年に『チンタ(愛)』で映画デビュー。44歳という若さで亡くなるまでに映画60作品以上に監督・俳優として携わり、300曲以上を作曲。1950年代から60年代のマレー映画黄金期を支えた大スターでした。現在でも、彼の映画は繰り返しテレビで放映され、歌は多くの歌手によってカバーされています。

P・ラムリーは、新作映画ごとに新しい曲を生み出し、マレー歌謡、ポップソングの礎を築きました。ピアノ、バイオリンのほか、トランペットやサックスも演奏した彼は、マレーやインドネシアの「ジョゲッ」や「クロンチョン」、「ドンダン・サヤン」など地元の音楽スタイルをベースに、ラテン音楽、ジャズ、アラブ、インド音楽のリズムやメロディを自身の体に浸透させ、自在にブレンドして作曲する才能を発揮しました。1960年代に作曲した「ブニ・ギター」では、当時海外で流行していた「ツイスト」も取り入れています。

ディスコグラフィー[編集]

アルバム[編集]

  • マレイシアの伝説 - Legenda Malaysia (1992)

V.A.[編集]

  • インドネシア音楽歴史物語 - Early Poplar Music Of Indonesia (2013)

曲目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 銀幕の精神#4 地上に舞い降りた神の作品 P.ラムリー”. WAU (2019年6月1日). 2019年6月1日閲覧。
  2. ^ CD「シティ・ヌールハリザ - ライヴ~スディルマンの思い出」解説文
  3. ^ P. Ramlee dies in Kuala Lumpur” (英語). New Nation (1973年5月29日). 1973年5月29日閲覧。
  4. ^ Malay movie idol Ramlee dies after heart attack” (英語). The Straits Times (1973年5月30日). 1973年5月29日閲覧。
  5. ^ Alhamzah, Tahir (2019年4月23日). “#Showbiz: P. Ramlee's works among cultural items declared National Heritage” (英語). NST Online. 2019年4月23日閲覧。