Portal:イスラーム/特集記事/過去の紹介記事

2007/3/26の紹介記事[編集]

パキスタンの歴史(History of Pakistan)では、1947年イギリスから独立を果たしたパキスタンの歴史について述べる。なお、パキスタン独立に至るまでの歴史については、インドの歴史南アジアの歴史などを参照のこと。

1947年8月14日、イギリスより独立を果たしてパキスタン国家が成立した。インドとの分離独立という形になり、ムスリム多住の地域を中心に構成された。その領域は、現在のパキスタンのほか、ベンガル地方の一部(現在のバングラデシュ)を含むものであった……続きを読む

2007/4/4の紹介の記事[編集]

現代のブルネイ 首都バンダルスリブガワンのモスク
現代のブルネイ 首都バンダルスリブガワンのモスク

ブルネイの歴史では東南アジア島嶼部北部に位置する都市国家、ブルネイの歴史を扱う。

まず、ブルネイの歴史を形成した要因について触れる。ブルネイの歴史は、東南アジア島嶼部という地理的な条件に強く依存している。その条件とは (1) 熱帯雨林、(2) 世界最大の多島海、(3) 大文明の交通路(隘路)、というものである。

(1) の条件は絶対的である。近代に到るまでブルネイを含む東南アジアでは、農業における土地生産性は温帯諸地域に比べ極端に低かった。というのも、……続きを読む


2007/4/22の紹介の記事[編集]

アルプ・アルスラーン(Alp Arslan 、1029年1072年12月15日)はセルジューク朝の2代目スルターンである。王朝の名祖であるセルジュークの曾孫にあたる。「アルプ・アルスラーン」はテュルク語で「獰猛なライオン」を意味する名前で、彼の軍事的な武勇や戦闘技術を称えて名づけられた。イスラームではムハンマド・ビン・ダーウード・シャグリ(Muhammad bin Da'ud Chaghri)と名乗った……続きを読む

ムハンマド・アル=イドリシアラビア語: أبو عبد الله محمد الإدريسي; 、Abu Abd Allah Muhammad al-Idrisi、1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?)は、中世に活躍したアラブ人地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。

ムラービト朝治世下にあったアフリカ北部のセウタ(現在はモロッコスペイン領の飛び地)で生まれ、コルドバで勉学に勤しみ、アンダルスや北アフリカの各地を旅した……続きを読む

2007/5/9の紹介記事[編集]

ナバス・デ・トロサの戦いスペイン語表記で Batalla de Las Navas de Tolosa アラビア語表記で معركة العقاب )とは、1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ハエン(Jaen)近郊のナバス・デ・トロサで、カスティリア王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝カリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い……続きを読む

福祉党トルコ語表記でRefah Partisi, RP)は、トルコ共和国イスラーム系政党。日本語では、繁栄党とも訳される。

1983年に設立。1995年に議会第1党となり、1996年には党首ネジメッティン・エルバカンを首班とする政権を樹立したが、軍部の圧力により1998年に非合法化された。

福祉党の前身は、エルバカンが1970年に設立した国民秩序党、およびその後継政党の国民救済党である……続きを読む

2007/5/19の紹介記事[編集]

10世紀にタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語版を著したバルアーミーの写本の挿絵(14世紀頃)
10世紀にタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語版を著したバルアーミーの写本の挿絵(14世紀頃)

タバリー(Tabarī, ابو جعفر محمد بن جرير الطبري Abū Ja'far Muḥammad ibn Jarīr al-Ṭabarī、838年923年)はアッバース朝バグダードで活躍したウラマーである。カスピ海南岸のタバリスターン地方(現在のマーザンダラーン州)の州都アーモルの出身。ハディース学とクルアーン解釈学(タフスィール学)で優れた業績を修めており、『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン章句解釈に関する全解明』の2著作は、後世の歴史学とタフスィール学の基礎的文献として現在でも重要である。ジャアファリー学派(タバリー学派)という独自の学派を形成したが、シャーフィイー学派ハンバル学派と対立し衰微した……続きを読む

サレカット・イスラームSarekat Islam)は、オランダ領東インド(現インドネシア)で結成されたイスラーム系大衆団体である。「イスラム同盟」と訳される例も多い。略称はSI

当初は華人系商人に対抗するムスリムの商人組織として結成されたが、組織の拡大とともに植民地支配に抵抗する急進的な民族主義団体としての性格を強め、1910年代から1920年代初頭にかけて、当時としては空前の規模の動員力を誇った。1923年にはサレカット・イスラーム党、さらに1929年にインドネシア・サレカット・イスラーム党 (PSII) と改名した……続きを読む

2007/6/5の紹介記事[編集]

イスマイル・ハニーヤ1963年 - )はパレスチナ自治政府首相であり、ハマースの政治指導者。2006年1月25日パレスチナ評議会選挙でハマースが大勝を収めたことにともない、3月29日に首相に就任した。2007年2月15日にハマースとファタハの連立を実現するために辞任し、3月18日に連立内閣の首相に就任した……続きを読む

2007/9/15の紹介記事[編集]

ヤクブ・ベクの乱末の東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦争。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れた。

東トルキスタンが清朝の支配下にはいって1世紀がたった1860年代の段階で、東トルキスタンは3つの路に分かれて統治されていた。1つは天山北路でイリ地方を管轄していた。もう1つは天山南路で8つの都市を管轄していた。すなわち西のホータンヤルカンドイェンギサールカシュガル、東のウシュトゥルファンアクスクチャカラシャールである。そして東路はウルムチ周辺を管轄していた。イリ将軍は恵遠城に駐箚し、3路の軍を統括していた。さらに天山北路の民政を直接担当し、天山南路の民政も地元のベグを通じて行っていた。しかし東路の民政に関しては甘粛省の管轄下にあった。

1820年代のジャーハーンギール・ホージャ1857年ワリー・ハーンのように……続きを読む 

2007/11/1の紹介記事[編集]

伊土戦争(いとせんそう、イタリア=トルコ戦争リビア戦争:Italo-Turkish WarまたはTurco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国オスマン帝国の間で戦われた戦争。

他の列強と同様に植民地獲得を模索していたイタリアは、1896年エチオピアに侵攻したが、アドワの戦いで歴史的大敗を喫した。これにより、イタリア社会党をはじめとした左翼勢力の反対やイタリア経済の疲弊などの問題が奔出、植民地獲得構想は一時頓挫した。しかし1908年から始まった青年トルコ人革命によりオスマン帝国内が混乱すると……続きを読む

2007/12/24の紹介記事[編集]

ウラービー革命 (الثورة العرابية) とは、1879年から1882年にかけて、エジプトで起こった革命運動である。アフメド・ウラービー陸軍大佐にちなんで、この名前がつけられた。ムハンマド・アリー朝ヘディーヴ (en:Khedive) とヨーロッパ列強に対抗した。

1870年代のエジプトは、政治的に腐敗しているのと同時に、財政破綻の状態であった。イスマーイール・パシャの手によって生み出された巨額な負債は、返済不能の状態にまで追い込まれていたし、フランスイギリスによって、エジプトの財政が管理される状況になってしまった。イスマーイールは、エジプト人にこの外部環境に対して、奮起させようとした際には、イギリスとフランスは、イスマーイールを退位させると同時に、従順なタウフィークをヘディーヴに据え……続きを読む

2008/1/5の紹介記事[編集]

ファトフ・アリー・シャー1772年9月5日-1834年10月23日ペルシャ語で、 فتح على شاه قاجار)は、ガージャール朝第2代シャー1797年6月17日から死亡するまで、ペルシャを統治した。アーガー・モハンマド・シャーの甥にあたり、アーガー自身が5歳の時に去勢されていたため、彼が暗殺されるとシャーとして即位した。ファトフ・アリーは、ザンド朝時代より15年間財務大臣を務めたハッジ・イブラーヒーム・ハーンを辞任させた。ファトフ・アリーの時代は、ペルシャ絵画の復興期であり、精巧な宮廷文化も復興した。特に、この時代には、ファトフ・アリーの庇護の下、他のイスラーム王朝には類を見ない肖像画や大規模な油絵が描かれた時代でもあった……続きを読む

イラン立憲革命(いらんりっけんかくめい、{lang-fa|انقلاب مشروطيت ايران}}; Enqelāb-e Mashrūṭiyat-e Īrān)は1906年から1911年にかけてイランで発生した革命ガージャール朝専制に反対 し憲法議会の獲得と維持を主要な目標とし、国内の広範な集団を糾合した運動と、これを巡る一連の政治変動を指す。なおイラン革命1979年イラン・イスラーム革命を指す語として定着しつつあるが、1980年ころまでは立憲革命を指した。このため本項で扱う20世紀初のものを「イラン立憲革命」、1979年のものを「イラン・イスラーム革命」として区別することが多い……続きを読む

2008/1/19の紹介記事[編集]

エルズルム(Erzurum)は、トルコの都市。エルズルム県の県都。人口は約36万人(2000年)。多くの歴史的建造物が残されているほか、ウィンタースポーツも盛んである。2011年における冬季ユニバーシアードの開催地。

古来より、黒海イランを結ぶ交易路の中継地であった。現在もアナトリア半島を横切って、首都アンカラからコーカサス地方に向かう高速道路・鉄道がエルズルムを通過しており、交通・物流の要所として重要な役割を……続きを読む

2008/1/28の紹介記事[編集]

アラビア語の文法構造は本来VSO型であり、正則語とされるフスハーでは基本的にこの形をとる。しかし現代の実情では欧米諸地域の言葉が入り込んでいることなどから主語を文頭におくSVO型が使われることも多く、アラビア語の教則本でもこの形を採用しているものが見られる。

前置詞指示代名詞など、単語に接続する語が多く、文節構造を持つ。 لحبيبتي という一見してひとつの単語のように見える語であっても「私の恋人のために」という意味がある……続きを読む

ヤズドペルシア語: یزد‎)はイラン中央部、ヤズド州の州都。イランにおいて古い歴史をもつ都市の一つで、ゾロアスター教文化の中心地である。エスファハーンの南東約280kmに位置する。人口は2005年の推計で433,836人。。世代をこえた砂漠環境への適応のため、ヤズドは建築学的にも独特の表情を持つ都市である。高品質の手工業品、特に絹織物菓子で知られる……続きを読む

2008/3/8の紹介記事[編集]

ハマー(ハマ、Hama、 アラビア語: حماة、「要塞」の意)は、シリア(シリア・アラブ共和国)西部のオロンテス川中流にある都市で、ハマー県の県都である。人口は410,000人を数え、ダマスカスアレッポホムスラタキアに次ぐシリア第5の都市になっている。北のアレッポと南のダマスカスの間にあり、ホムスからは北に当たる……続きを読む


ラッカアル・ラッカー、Ar-Raqqah、Rakka、アラビア語: الرقة)は、シリア(シリア・アラブ共和国)北部の都市で、アレッポの160km東にあり、ユーフラテス川中流域の北岸に位置する。アル・ラッカー県の県都。 ジャズィーラ地方西部の主要都市で、モースルデリゾールハッサケカーミシュリーなどと並び……続きを読む


オスマン帝国領ハンガリーは、1541年から1699年までオスマン帝国の支配を受け、今日ではハンガリーに属する地域について記すものである。16世紀より、オスマン帝国の勢力が徐々に強まり、バルカン半島を占領していく間、ハンガリー王国中世後期の市民暴動で弱体化していった。ラヨシュ2世時代(1516年-1526年)、国内の衝突が貴族を二分していた……続きを読む

2008/6/4の紹介記事[編集]

ヒラー山(ヒラーさん)またはヒラーの洞窟(ヒラーのどうくつ)(英語: Hiraアラビア語: حراء‎)とは、サウジアラビアマッカ(メッカ)の郊外、北東約5キロメートルの地点にそびえる岩山。頂上の南西側にある洞窟は、預言者ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(ムハンマド、マホメット)に対し、神による最初の啓示が下されたところとして知られる……続きを読む

2008/7/6の紹介記事[編集]

ムスリム・ブルガリア人(ムスリム・ブルガリアじん、ブルガリア語:българи мохамедани / Balgari Mohamedani)はムスリムであるブルガリア人。かれらの多くは、16世紀から18世紀オスマン帝国統治下で、イスラム教に改宗したキリスト教徒ブルガリア人の子孫である。 ポマクПомак / Pomak)、アフリャン(Ахрян / Ahryan)、ポガネツ(Поганец / Poganets)、マルヴァク(Марвак / Marvak)、ポトゥルナク(Потурнак / Poturnak)とも呼ばれる。

彼らはブルガリア語を母語として話すため、公的には、民族的にはブルガリア人の宗教的少数者と見なされ、ブルガリア人と異なる民族とは見なされていない……続きを読む

2008/7/28の紹介記事[編集]

イスラーム戦争法は、6世紀から18世紀までのイスラーム世界(ダール・アル=イスラーム)内での戦争および、イスラーム世界に属する国家と、非イスラーム世界(ダール・アル=ハルブ)に属する国家との戦争において、イスラーム世界の国家が遵守することを義務とされた戦争法のことを指す。近代の欧州戦争法およびそれを元にした現代の戦時国際法が世俗的なほうであるのとは違い、イスラーム戦争法はイスラームという宗教の教えに則った宗教法である。現在ではイスラーム戦争法は法的な次元では効力を失ったが、現代のイスラーム世界の国家が戦時国際法を運用する時、イスラーム戦争法からの影響を受けることがある。またイスラーム原理主義武装組織などは、現代でもイスラーム戦争法に則って戦争を行っている……続きを読む

2009/8/2の紹介記事[編集]

ティムールの征服戦争では1370年から1405年までのティムールの征服事業について解説する。モンゴル帝国再興を目指してティムールは中央アジアトルキスタンペルシアイラクシリア南ロシアインドへの征服戦争に生涯を費やし一大帝国を築く。これはユーラシア規模の最後の征服戦争であった……


ドゥマク王国ドゥマクおうこくインドネシア語: Kesultanan Demak英語: Sultanate of Demak)は、15世紀から16世紀にかけてジャワ島北岸に栄えたイスラム国家。

建国以前はビンタロという地名であったドゥマク地方は、マジャパヒト王国と同盟した地方、または属領であった。その統治権限はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世の息子であるラデン・パターに与えられた……


マフディー戦争英語Mahdist War)は19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンマフディー教徒エジプト、後に英国軍が戦った。これはアングロ・スーダン戦争またはマフディーの反乱とも呼ばれ、英国では自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。この戦争はウィンストン・チャーチル(戦争の終盤に参加している)の著作「河畔の戦い」(The River War)で詳細に叙述されている……

2010/1/2の紹介記事[編集]

ミナンカバウ人インドネシア語:Suku Minangkabau、あるいは、ミナン人パダン人の名前でも知られている)とは、インドネシア西スマトラ州の高地に住んでいる民族集団である。ミナンカバウ人は母系社会として有名であり、財産や土地は、母から娘に相続される。いっぽう、宗教的儀式や政治の中心を担うのは、一部で女性が重要な役割を果たすとはいえ、男性が中心となって行われている……続きを読む

ヒズブル・イスラムアラビア語: الحزب الإسلامي‎, Hizbul Islam)はソマリアのイスラム主義武装集団。ソマリア南部でアル・シャバブと並ぶ2大勢力の一つ。2009年2月に4つの軍閥が統合して設立された。ヒズブル・イスラムとはアラビア語で「イスラム党」の意味であり、アラビア語圏ではこの集団と無関係にヒズブル・イスラムと名乗る団体があるので注意が必要である……続きを読む

2010/2/9の紹介記事[編集]

エスファハーンの金曜モスクmasjid al-jum'aジャーメ・モスク)は、イランエスファハーンにある金曜モスク771年に建築されたエスファハーンでもっとも古いモスクであり、絶え間無く建築活動が行われた結果、建物のどの部分がどの時代に建てられたのかすら特定が困難な複雑な歴史を持つ。イランにおけるモスク建築史を体現している建築物とも言え、イスラム建築研究者の石井昭は「建築様式の博物館である」と評している……続きを読む

イーワーン英語:Iwan、ペルシア語:إيوان)とは、イスラーム建築によくみられる、一方が完全に開き、三方がで囲まれて、天井アーチ状となっているホールまたは空間7世紀に滅んだサーサーン朝ペルシャで顕著にみられ、後世に見いだされて11世紀から12世紀にかけてのセルジューク朝の時代にイスラーム建築の基本的な設計単位として定着した。イーワーンは、通常、中庭にむけて開いており、公共の建物だけではなく私的な住宅にも使用された……続きを読む