PANSY

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PANSY(パンジー)は、オスカープロモーションに所属していた北原佐和子真鍋ちえみ三井比佐子によるアイドルユニット[1][2]。『週刊サンケイ』1981年12月31日号、『ロードショー』1982年11月号の記事では、いずれも片仮名表記で「パンジー[1][2]。1981年8月結成[2]

概説[編集]

「ポスト・キャンディーズ」となるべきグループを育てようと、オーディションを行い約600人の候補の中から選ばれた3人[3]。当時人気絶頂であったたのきんトリオと同じくユニットとしての活動は映画やグラビアなどに止まり、シングルレコードはそれぞれのソロ作品のみ発売された。このことから「女たのきん」と呼ばれることもあった[4]

モデル業界最大手だったオスカープロモーションが[1]モデル業だけを営むだけでは消極的過ぎると[1]、いっそタレント業まで手を広げようと画策し[1][5]、当時人気絶頂であったたのきんトリオに対抗する「女たのきん」というコンセプトが考え出され[1]、傘下のモデルクラブ600人の中から[1]、何度もオーディションを繰り返し、最終的に3人を選び出した[1]。3人ともオスカー所属のモデルだった[1]。「女たのきん」は3人自ら公言した[1]

メンバー候補にはのちに女優となる高樹沙耶らがいた[5]

メンバー[編集]

プロフィールはそれぞれ『週刊サンケイ』1981年12月31日号[1]、『ロードショー』1982年11月号の記事[2]より当時のもの。

北原佐和子
真鍋ちえみ 
三井比佐子
  • 1963年12月20日生まれ[2]。。
  • 神奈川県生まれ[1]
  • 東京都立青山高等学校定時制在籍中[1]
  • 3サイズB80・W58・H85[2]
  • キャッチフレーズは「"のんびりチャコ"こと三井比佐子」[1]
  • リーダー格[2]

歴史[編集]

テレビドラマ先生は一年生』に1981年10月から3人でレギュラー出演したが、メイン戦略は雑誌グラビア[1]、1981年8月のデビュー以来90日で160本のグラビアを飾り[2]、1981年の後半数ヵ月で200回以上のグラビアに登場した[1]ブロマイドは発売10日で5位に躍り出た[2]。またたのきんを真似て、1982年4月以降、5月、6月と毎月一人づつソロデビューさせる戦略が練られた[1]。それぞれのレコードデビューには各レコード会社19社の争奪戦があった[1]。争奪戦の末、北原がテイチク、真鍋がCBSソニー、三井がバップに決った。各レコード会社とも「たのきん、イモ欽と三匹目のドジョウ」を平気で公言し、「売れる!」と確約した[1]。レコード会社、プロダクション双方で負担する宣伝費は一人5,000万円で計1億5,000円[1]。当時影響力のあった「東京大学アイドルプロデュース研究会」でもアイドル1位に選ばれた[1][2]

出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 山際淳司「ヒューマンウォッチング 人間観察誌No.24 一人一億円!? アイドルの本当の値段 パンジー 『レコード会社の契約金が1人1億円なんだって』『ホント―?』『ウッソー!』『歌うたえるかなー』『レッスンしたから大丈夫じゃない』などといっている82年型アイドル、パンジーのおしゃべりをドーゾ。」『週刊サンケイ』1981年12月31日号、産業経済新聞社、48–51頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「日本映画シアター 今月のおすすめ作品オールガイド 3人娘パンジー初主演!女子高生の殺人事件をめぐるキャンパス・ミステリー 『夏の秘密』/伊藤つかさから三原順子まで この秋はアイドル・ギャルが日本映画で大活躍だ!」『ロードショー』1982年11月号、集英社、213、215頁。 
  3. ^ 河北新報 1982年12月10日夕刊 12面「登場」コーナー
  4. ^ 「女たのきんパンジーをめぐる異常争奪戦」週刊平凡 1981年10月号
  5. ^ a b 「相棒」を蹴って石垣島へ、最後に水谷豊さんに送った手紙…高樹沙耶が語る芸能生活30年(1/3)”. デイリー新潮 (2020年11月9日). 2021年2月4日閲覧。