ジョン・ウェットン

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ジョン・ウェットン
John Wetton
2010年1月のライブにて
基本情報
出生名 John Kenneth Wetton
生誕 (1949-06-12) 1949年6月12日
出身地 イングランドの旗 ダービーシャー州ウィリントン
死没 (2017-01-31) 2017年1月31日(67歳没)
ジャンル ロック
プログレッシブ・ロック
ハードロック
職業 ボーカリストベーシスト
担当楽器 ベースボーカル
共同作業者 (正式メンバー)
モーグル・スラッシュ
ファミリー
キング・クリムゾン
ユーライア・ヒープ
ウィッシュボーン・アッシュ
エイジア
U.K. ほか
公式サイト JOHNWETTON.com
著名使用楽器
フェンダー・プレシジョンベース
ゾン・レガシー

ジョン・ウェットンJohn Wetton1949年6月12日 - 2017年1月31日)は、イングランド出身のロックミュージシャンボーカリストベーシストソングライターキング・クリムゾンU.K.エイジアでの活動が有名。

概要[編集]

モーグル・スラッシュファミリーキング・クリムゾンユーライア・ヒープU.K.ウィッシュボーン・アッシュエイジア、アイコンなどの幅広いジャンルのバンドを渡り歩き、様々なアーティストと幾多にも及ぶセッションをこなしている。技巧的でヘヴィなベース演奏と、どこか哀愁漂う味わい深い歌声には定評があり、そのルックスも相まって多くのロックファンの人気を集めた。

プログレッシブ・ロックの分野での仕事が多いが、どちらかといえばエイジアやソロ作品に代表されるようなポップス志向が強く、キング・クリムゾンU.K.における楽曲作りでもそのセンスは多分にいかされている。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ダービーシャー州ウィリントンに生まれ、10代前半に家族と共に南西部のドーセットボーンマスに移り住む。教会のオルガン奏者だった兄の影響で、幼い頃からクラシック音楽に馴れ親しみ、足鍵盤のないオルガンやピアノで練習する兄のために連弾のようにして低音部のパートを受け持ったりしていた。

当時イギリスを席巻していたエヴァリー・ブラザーズシャドウズなどのロックンロールR&Bに次第に惹かれ、やがてエレキ・ギターを手にすることとなる[1][2][3]

音楽活動[編集]

エイジア- USA.ノーウォーク公演 (2006年9月)
Icon/エイジアの同僚ジェフ・ダウンズと (2006年9月)

地元ボーンマスやロンドンでバンド活動を行ない、ベースとボーカルを担当した。モーグル・スラッシュに加入して、同名アルバム(1971年)でプロ・デビューを果たした。

モーグル・スラッシュがデビュー・アルバムを発表した直後にマネージメントの理由で解散を余儀なくされると、ファミリーに加入し、『フィアレス』(1971年)、『バンドスタンド』(1972年)の2作のアルバム制作に携わった。

1972年、同郷の友人であったロバート・フリップに引き抜かれるようにキング・クリムゾンに加入。1974年にフリップが突然に解散を宣言するまで在籍し、3作のアルバム制作に携わった。『太陽と戦慄』(1973年)と『レッド』(1974年)は、いずれもキング・クリムゾンやウェットンの代表作の一つとして挙げられることが多い。

キング・クリムゾンの解散後、同じEGレコードに所属するロキシー・ミュージックのツアーに準メンバーとして参加[4][注釈 1]。その後ユーライア・ヒープに加入して、『幻想への回帰』(1975年)と『ハイ・アンド・マイティ』(1976年)の2作のアルバム制作に携わった[注釈 2]

1976年、リック・ウェイクマンビル・ブルーフォードとウェイクマン・ウェットン&ブルーフォード(仮称)を結成しリハーサルを行う。しかしウェイクマンが当時所属していたA&Mレコードと意見が合わなかったため、公式の活動には至らず、曲の一部がブルーフォードのソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』に収録されるに留まった[注釈 3][5]

一方、同年6月にロキシー・ミュージックを解散したブライアン・フェリーの依頼を受けて、シングル曲「レッツ・スティック・トゥゲザー」と4曲入りEP[6]の制作に参加した[7][注釈 4]。引き続いて新作アルバム『イン・ユア・マインド (あなたの心に)』の制作[8]にも協力し、同アルバムが発表された翌1977年2月に始まったワールド・ツアーに参加[注釈 5]。6月初旬には、同ツアーのメンバーとして初来日した[注釈 6][9]

1978年、プログレッシブ・ロック・バンド、U.K.を結成。彼等は1980年に解散するまで、日本公演を収めたライブ・アルバムを含む3作のアルバムを発表した。

1980年、初のソロアルバム『コート・イン・ザ・クロスファイアー』を発表。ウィッシュボーン・アッシュに加入してアルバム『ナンバー・ザ・ブレイヴ』の制作に携わった。

同年、プログレッシブ・ロック界の著名なプレイヤーからなるスーパーグループ、エイジアを結成。デビュー・アルバム『詠時感〜時へのロマン』(1982年)が全米1位を記録し、全キャリア中最も成功を収める結果となった。

1983年にはアルコール依存が原因でエイジアを解雇された[注釈 7]が翌年に復帰し、1994年に脱退するまで中心人物としてバンドを牽引し続けた。

エイジア脱退後は主にソロ・アーティストとして活動する一方、プログレッシブ・ロック系のアーティストのトリビュート・アルバムに参加したり、スティーヴ・ハケットを中心とした大物ぞろいのバンドに加入してツアーに参加した。この活動が縁で、元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドともツアーをした。

晩年[編集]

2000年代以降は、病気を患う事が少なくなかった。

2002年、エイジアでの作曲のパートナーであるジェフ・ダウンズとライブで共演したのを機に、2人のユニットであるウェットン/ダウンズ (アイコン)を結成し、2005年にアルバム『アイコン』を発表[10]

2006年にオリジナル・メンバーによるエイジアの再結成に参加して精力的にツアーを行っていたが、2007年夏に行われた定期検診で心臓の冠動脈に異常が見つかり、同年8月10日にバイパス手術を受けた[11]。回復は順調で、2008年に再開されたツアーで復帰した。オリジナル・メンバーでアルバム『フェニックス』を制作し、同年4月発売。

2011年にはU.K.を再結成してライブ活動をしている[12]

死去[編集]

2017年1月、かねてより発症していた大腸癌の治療に専念するため、エイジアでの活動を一時休止することを表明した[13] 。間もなく病状が悪化し、Lisa Nojaimと結婚した数日後の[11]同月31日に67歳で死去[14]

その他[編集]

  • ギターやキーボードだけでなくフィドルまで演奏するマルチプレイヤーである。
  • U.K.やエイジアのステージではフロントマンの役割を担い、当然ながら挨拶して演奏曲やメンバーの紹介をすることが多かった。日本公演では、U.K.のライブ・アルバム『ナイト・アフター・ナイト』でも聞かれる「君たち最高だよ」という日本語の台詞を気に入っていたようで、その後の日本公演でも決まり文句にしていた。
  • 日本のバンドとも関わりがあり、VOW WOWRXとセッション経験がある。

ディスコグラフィ[編集]

ソロ/プロジェクト[編集]

スタジオ・アルバム
  • 『コート・イン・ザ・クロスファイアー』 - Caught in the Crossfire (1980年)
  • 『ヴォイス・メイル』 - Voice Mail / Battle Lines (1994年) ※旧邦題『バトル・ラインズ』
  • 『アークエンジェル』 - Arkangel (1997年)
  • 『チェイシング・ザ・ディア』 - Chasing the Deer (1998年) ※サウンドトラック
  • 『ウェルカム・トゥ・ヘヴン』 - Welcome to Heaven / Sinister (2000年)
  • 『ロック・オヴ・フェイス』 - Rock of Faith (2003年)
  • 『レイズド・イン・キャプティヴィティー』 - Raised in Captivity (2011年)
ライブ・アルバム
  • 『チェイシング・ザ・ドラゴン』 - Chasing the Dragon (live in Japan) (1995年)
  • 『アクスティカ/ライヴ・イン・アメリカ』 - Akustika: Live in America (1996年)
  • 『ライヴ・イン・トウキョウ』 - Live in Tokyo 1997 (1998年)
  • 『ノーマンズ・ランド』 - No Mans Land Live in Poland (1999年)
  • 『ヘイジー・モネット』 - Hazy Monet Live in New York City May 27, 1997 (1999年)
  • 『サブ・ローサ(ライヴ・イン・ミラン)』 - Sub Rosa Live in Milan Italy (1999年)
  • 『ライブ・イン・トウキョウ1999』 - Live at the Sun Plaza Tokyo 1999 (2000年)
  • 『ライヴ・イン・アージェンティーナ』 - Live in Argentina (2003年)
  • 『ライヴ・イン・スウェーデン』 - Live in Stockholm 1998 (2003年)
  • 『ライヴ・イン・オーサカ』 - Live in Osaka (2003年)
  • 『ライヴ・イン・ジ・アンダーワールド』 - Live in the Underworld (2003年)
  • 『アマータ』 - Amata (2004年)
  • 『アジェンダ』 - Agenda (2004年)
  • 『ライヴ・ヴィア・サテライト』 - Live via Satellite (2015年)
コラボレーション・アルバム

ジャックナイフ[編集]

  • 『アイ・ウィッシュ・ユー・ウッド』 - I Wish You Would (1980年)

ウェットン・マンザネラ[編集]

アイコン (ウェットン/ダウンズ)[編集]

  • 『ウェットン/ダウンズ』 - Wetton Downes (Demo Collection) (2002年)
  • アイコン』 - Icon (2005年)
  • Heat of the Moment '05 EP (2005年)
  • 『ルビコン』 - Icon II: Rubicon (2006年)
  • 『アイコン3』 - Icon 3 (2009年)

グループ[編集]

モーグル・スラッシュ
  • 『モーグル・スラッシュ』 - Mogul Thrash (1971年) ※旧邦題『炸裂!モーグル・スラッシュ』
ファミリー
  • 『フィアレス』 - Fearless (1971年)
  • 『バンドスタンド』 - Bandstand (1972年)
キング・クリムゾン
ユーライア・ヒープ
  • 幻想への回帰』 - Return to Fantasy (1975年)
  • 『ハイ・アンド・マイティ』 - High and Mighty (1976年)
ロキシー・ミュージック
ブライアン・フェリー
  • 『アナザー・タイム、アナザー・プレイス (いつかどこかで)』 - Another Time, Another Place (1974年)
  • 『レッツ・スティック・トゥゲザー』 - Let's Stick Together (1976年)
  • 『イン・ユア・マインド (あなたの心に)』 - In Your Mind (1977年)
  • 『ベールをぬいだ花嫁』 - The Bride Stripped Bare (1978年)
U.K.
ウィッシュボーン・アッシュ
  • 『ナンバー・ザ・ブレイヴ』 - Number the Brave (1981年)
  • 『アーガス・スルー・ザ・ルッキング・グラス』 - Argus Through the Looking Glass (2008年) ※マーティン・ターナー・アンド・フレンズ名義
エイジア

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ このツアーの音源を中心に制作されたライヴ・アルバム『VIVA!ロキシー・ミュージック』(1976年)には、ブライアン・フェリーを初めとする正式メンバーと並んでウェットンの名前が記されている。
  2. ^ ユーライア・ヒープにはデヴィッド・バイロンがリード・ボーカリストとして在籍しており、ウェットンはベースとコーラスを担当したが、アルバム『ハイ・アンド・マイティ』からシングル・カットされた「ワン・ウェイ・オア・アナザー」では、メンバーで同曲の作者であるケン・ヘンズレー(キーボード、ギター、ヴォーカル)とリード・ボーカルを分担した。同アルバムでは2曲をヘンズレーと共作し、メロトロンも演奏した。
  3. ^ この時、当時ウェイクマンとイエスのマネージャーを兼任していたブライアン・レーンの秘書のジルと知り合い、後年結婚したが後に離婚した。
  4. ^ これらに収録された楽曲は全て、同年9月に発表された彼の3作目のソロ・アルバム『レッツ・スティック・トゥゲザー』に収録された。
  5. ^ 2月初旬から同年7月末まで行なわれた。
  6. ^ 1977年6月5日と9日中野サンプラザ、6月6日大阪厚生年金会館。メンバーはフェリー(Vo, Key, Harmonica)、ウェットン(B, Vo)、クリス・スペディング(G)、フィル・マンザネラ(G)、アン・オデール(Key, Vo)、ポール・トンプソン(Dr)、メル・コリンズ(Sax)、マーチン・ドローヴァー(Trumpet)、クリス・マーサー(Sax)。6月9日には中野サンプラザ公演に加えて、渋谷のNHK放送センターの101スタジオで総合テレビジョンの『ヤング・ミュージック・ショー』の公開録画を行なった。放送日は同年9月10日。
  7. ^ グレッグ・レイクが代役を務めた。

出典[編集]

  1. ^ ミュージック・ライフ. シンコー・ミュージック. (1976年5月1日) 
  2. ^ ROCKS. ライブグラフィック. (1977年8月1日) 
  3. ^ ジョン・ウェットン ベースを抱えた渡り鳥. シンコーミュージック・エンタテイメント. (2019年2月17日) 
  4. ^ Buckley (2004), pp. 182–183.
  5. ^ パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥデイ. シンコーミュージック・エンタテイメント. (2008年9月19日) 
  6. ^ Discogs”. 2024年2月10日閲覧。
  7. ^ Buckley (2004), pp. 207–208.
  8. ^ Buckley (2004), pp. 215–216.
  9. ^ 城山, 隆『僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」』情報センター出版局|、2005年、422-428頁。ISBN 978-4795843622 
  10. ^ ジェフ・ダウンズ&ジョン・ウェットン、ついにデビュー”. CDJournal. 音楽出版社. 2018年5月22日閲覧。
  11. ^ a b Smith (2019), p. 391.
  12. ^ エイジアのジョン・ウェットンが亡くなったのを受けてジェフ・ダウンズが長文の追悼文を公開 - NME JAPAN
  13. ^ エイジアのジョン・ウェットン、癌治療に専念するため活動を一時休止 - BARKS
  14. ^ エイジアのジョン・ウェットンが死去。享年67 - RO69

引用文献[編集]

  • Smith, Sid (2019). In the Court of King Crimson: An Observation over Fifty Years. Panegyric. ISBN 978-1916153004 
  • Buckley, David (2004). The Thrill of It All: The Story of Bryan Ferry & Roxy Music. London: Andre Deutsch. ISBN 0-233-05113-9 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]