ジャズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jazzから転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
ジャズ
Jas Messengers01.JPG
様式的起源 ブルースラグタイム黒人霊歌ワーク・ソングマーチ英語版クラシック音楽西アフリカ音楽英語版
文化的起源 19世紀、アメリカ南部
使用楽器 ピアノトランペットトロンボーンサクソフォンクラリネットフルート鍵盤楽器コントラバスドラムギター
派生ジャンル
サブジャンル
  • アヴァンギャルド・ジャズ
  • ビッグバンド
  • ビバップ
  • チェンバー・ジャズ英語版
  • クール・ジャズ
  • フリー・ジャズ
  • ジプシー・ジャズ
  • ハード・バップ
  • ラテン・ジャズ
  • コンテンポラリー・ジャズ
  • モード・ジャズ
  • M・ベース英語版
  • ネオバップ英語版
  • ポスト・バップ英語版
  • プログレッシブ・ジャズ英語版
  • ソウル・ジャズ
  • スウィング・ジャズ
  • 第三の流れ英語版
  • トラッド・ジャズ英語版
  • 融合ジャンル
  • アシッドジャズ
  • アフロビート
  • ボサノヴァ
  • クロスオーバー・ジャズ英語版
  • ダンスバンド英語版
  • フォーク・ジャズ
  • フリー・ファンク英語版
  • humppa
  • インド・ジャズ英語版
  • ジャム・バンド
  • パンク・ジャズ
  • ジャズ・ファンク
  • ジャズ・ロック
  • ジャズ・フュージョン
  • ジャズ・ラップ
  • マンボ英語版
  • ニュージャズ
  • スカ・ジャズ英語版
  • スムーズジャズ
  • スウィング・リバイバル英語版
  • ワールド・ミュージック
  • 関連項目
  • スタンダード・ナンバー
  • ジャズ: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に発生した音楽ジャンル。 西洋楽器を用いた高度なヨーロッパ音楽の技術と理論、およびアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感覚民俗音楽とが融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート[1]シンコペーションスウィングコールアンドレスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション(即興演奏)、ポリリズム(複合リズム)などの要素を組み込んでいることが、大きな特徴とされている。

    その表現形式は変奏的で自由なものだった。また、初期からポール・ホワイトマンやビックス・バイダーベック[2]らの白人ミュージシャンも深くかかわり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもあった。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼした。

    ジャズとは何か[編集]

    「ジャズ」という音楽の全体像を理解するためには、まずその多面性を認識しなければならない。他の音楽ジャンルと同様にして、ジャズにおいてもマクロな多面性である革新的要素と保守的要素、大衆的要素が混在し、それぞれの音楽性が相互に影響を及ぼしながら音楽の発展が成し遂げられていった。ジャズではその革新的な要素が自由な音楽的表現による動的で熱気を帯びた黒人・社会的弱者寄りのカウンターカルチャー (反体制文化) の象徴としての側面であり、そして保守的な要素がアダルティズムに則った静的で白人・富裕層寄りのクラシカル (権威主義的) な音楽としての側面、また大衆的な要素が大衆音楽ポピュラー音楽としても発展した大衆文化の象徴としての側面であった。ただしジャズの保守的要素に関しては、「富裕層」と呼ばれる人々が娯楽知識教養を重視する伝統的な上流階級ではなく、娯楽に本能的な快感 (いわばグルーヴ感やスウィング感) を重視するブルジョワジー有閑階級であったことから、大衆的要素と不可分な関係にある。

    また他にも芸術面におけるミクロな多面性も考慮しなければならない。その焦点となるのは「モダニズム」と呼ばれる、公民権運動ヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは方向性が異なった、芸術分野における反体制文化であり、その近代芸術運動におけるジレンマ[3]についても、ジャズの性質 (特にモダン・ジャズ以降のジャズ) を理解する上では重要なキーポイントとなる。下記でも言及するが、要は"様式を否定し革新性を追求するという本来の意味での「モダニズム」 (以下同義語の「前衛」) の芸術運動が、後に特定の様式として定義・固定されてしまう"というジレンマを指し[3]、モダン・ジャズの理念における正当性とされていたその「大きな物語」の崩壊が1960年代におけるジャズメンたちの方向性を揺り動かした現象である (ジャズ史における「ポスト・モダニズム」への展開) 。

    革新的要素[編集]

    ジャクソン・ポロックアクション・ペインティングを模した絵画。ジャクソン・ポロックの絵画は、フリー・ジャズの誕生を告げたオーネット・コールマンのアルバム『Free Jazz』のジャケットデザインに起用されており、その絵画表現はジャズの革新的要素を美術的な側面から的確に捉えている (即興演奏における偶然性不確定性の享受、また"創作という行為や創作の過程にこそ芸術性がある"という思想) 。

    ジャズの歴史においては、革新的な要素が常にジャズミュージシャンたちの一種の原動力として働いていた。つまりは白人至上主義への対抗やマンネリズムの破壊、そして自由自在で流動的 (クロスオーバー) な音楽性を探求する「前衛」の思想である。それが各時代毎にムーヴメントとして顕在化することによって、その都度新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させていくことになった。その中でも、1940年代におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950 - 1960年代における当時の反体制運動を支持する若者からの熱狂的な支持は若者文化との濃厚な接触として、ともにエポックメイキングなものとなった (後者についてはビートニクジャズ喫茶1960年代のカウンターカルチャー#ジャズも参照) 。前者のムーヴメントによってジャズにおける「モダニズム」が確立し (後述) 、そして一方で後者のムーヴメントによってジャズミュージシャンの中には「モダニズム」のジレンマから解き放たれ、西洋音楽の排除を目指したフリー・ジャズロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、「ポスト・モダニズム」とも言える、音楽ジャンルや音楽イメージを超越した新たな音楽性が模索されていった。建築分野における「ポスト・モダニズム」の特徴である「多様性」、「歴史性」、「ラディカルな折衷主義」を主張するその傾向は、ジャズにおいても顕著に表れており、1970年代から現在に至るまで明らかな演奏スタイルの多様化と音楽性の揺り戻しが発生している。

    またフリー・ジャズなどの革新的要素が如実に表れた演奏スタイルにおける音楽イメージは、エネルギッシュで混沌とした印象以外には、もはやこの世の事物では表現することのできない人知を超越した領域に達しているものも多く、大衆性・商業性には結び付きづらい面があり、現在でもジャズの中ではコアな部類として理解されている[4]。しかしながらこういった革新性を追い求める姿勢こそが、ジャズを高尚で芸術性の高い音楽ジャンル[5]へとその価値を押し上げた大きな要因でもあり、またこの革新的な要素が存在しなければ、"ジャズは死ぬ (ジャズがジャズではなくなる) "といったような意見もある[6]

    保守的要素・大衆的要素[編集]

    禁酒法時代を代表する高級ナイトクラブ、「コットン・クラブ」。デューク・エリントン楽団のジャズライブは当時の白人富裕層やマフィアから人気を博した。

    ジャズの保守的な要素としては、白人や富裕層との交流にその起源がある。それは革新派による「進歩主義」や「モダニズム」、保守派から受け継がれた「権威主義」や「装飾美術」など革新性と保守性があらゆる分野で混迷を極めた、アメリカにおける狂騒の20年代を背景とする。その前兆が現れていた1910年代にクラシカルな編成であるビッグバンド (後のスウィング・ジャズ) が誕生すると、それを機にジャズクラブジャズバーニューヨークの各所で開店されていったが (ハーレム・ルネサンスも参照) 、しかしコットン・クラブの実情にも表れているように、クラブやバーにおける演奏者は黒人でありながらも、その主な顧客は白人の富裕層であった。それがジャズを"裕福な白人 (有閑階級) のためのサロン音楽 (社交場音楽) "としても発展させていくことになる。演奏する際にはタキシードや高級テイラースーツを着用するなど、服装はあくまでもフォーマルなものが通例となり、また音楽性も都会的で洗練されたものが求められていった。あるいはクラブやバーは若者にとって縁遠い存在であったため、音楽性もそういった場所に集う人々の嗜好に合わせた静的なものとなっていった (これらの音楽性を方向付ける上で白人ジャズメンの存在は大きくあった。またその音楽性は1960年代におけるクール・ジャズの誕生、ボサノヴァとの融合にも貢献した) 。あるいは白人や富裕層との交流は、ジャズに対して、"クラシック音楽という伝統的な枠組みの中で辛うじて獲得した表現の自由"といった捉え方をすることもできる。人種差別という社会的/文化的な抑圧下において、最低限の西洋の伝統的な様式・形式 (アコースティック楽器の使用やスーツの着用など) に則った上で隠微な形で自己を表現したこの手法は、「」、「洒落」、「ダンディズム」といった思想にも通じる (裏勝りの美学) 。他にも富裕層に関連して"「クラシック音楽」や「ジャズ」は年収の上昇とともに「好き」の割合が高くなっていく"といった調査結果が出ている[7]

    ジャズ歌手/ポピュラー歌手として、また俳優としても活躍したフランク・シナトラ。

    大衆的な要素としては、まさしくジャズの大衆音楽としての側面を示している。一般的にジャズの誕生は、メインカルチャーや既存の文化への反抗がその発端として認識されていることが多いが、しかし実際はそれだけに留まらず、商業的に成功していたラグタイムブルースからの音楽性を受け継いだことで、当初から大衆音楽として誕生した面も大いにあった。大衆文化に寄り添いまた商業性を意識した音楽性であるこの大衆的要素は、1940年代のビバップの誕生まで保守的要素とともにジャズの主要な音楽性の一つとして存在しており、中でもビッグバンドやスウィング・ジャズは、前述したようにクラブやバーで演奏される富裕層のための落ち着いたサロン音楽としての役割と同時に、ダンスホールで演奏される若者や労働者のためのより享楽的で退廃性が増したダンス・ミュージックとしての役割も担っていた。あるいはヴォーカル・ジャズ英語版も同様にして大衆からの人気を博し、ロックやポップスが誕生する以前のポピュラー音楽の一翼を担っていた。ただしそのジャズ・ヴォーカリストたちの方向性については、ポピュラー歌手/スターとして扱われたビング・クロスビーフランク・シナトラ、ジャズメンとの共演が多かったビリー・ホリデイエラ・フィッツジェラルド、実際にジャズ演奏家としても活躍したルイ・アームストロングチェット・ベイカーなど、やはり多面的な様相が見られた。

    ジャズのイメージ[編集]

    マンハッタンの真夜中の喧騒。ジャズは都会の風景を連想させるが、クラブやバーで演奏される時間帯の影響からそのイメージの多くはこういったである。

    保守的要素から生まれた音楽性によってジャズは現在でも聴衆に「大人」、「オシャレ」なイメージを想起させ[8]、またそれは大衆的要素との不可分な関係からカフェレストランなど様々な場面で前述した雰囲気を与えるためのBGMとして利用されている。ジャズに対する一般的な音楽イメージについても、同じく保守的要素と大衆的要素の相互浸透から生まれたものである。いわば"高級な大衆音楽"とも言えるイメージを有し、ニューヨークやパリ東京などの中層 - 高層建築物 (摩天楼) が立ち並ぶ、無機質人工的な、またアンニュイ (退廃的) でアーバン (都会的) な高級感の演出にしばしば利用される (R&Bムード歌謡、フュージョン (後述) 、AOR (AC) 、シティ・ポップなどの誕生にも寄与した) 。あるいは、ジャズの既述した都会的で洗練されたイメージとクラシック音楽やブルースに影響された叙情・哀愁・孤独といったブルーなイメージが融合し「クール」、「ハードボイルド」といった男性像を連想させたり、狂騒の20年代におけるフラッパーなどの影響からジャズが「セクシー」、「エロティック」といった女性像を連想させる場合もある (いずれもタバコがそのアイコンとして用いられ、また前者のブルーなイメージに関しては"ジャズを表す色が青色"となった理由でもあり、"ジャズとの親和性の高さ"にも影響を与えた) [9][10]

    モダン・ジャズの音楽性[編集]

    表参道にあるジャズクラブ、ブルーノート東京の外観。そのデザインにジャズとモダニズム建築/モダンアートの親和性の高さを認識することができる。

    スウィング・ジャズからビバップへの展開において、それまでのジャズの主な音楽性であった保守的要素や大衆的要素に対して、革新的要素が大幅な干渉を図ったことでモダニティが先鋭化され、ジャズ史における「モダニズム」が確立された。それは"芸術音楽としてのジャズ"の誕生でもあった。アメリカのジャズメンの多くが1950年代以降に主要な活動拠点・マーケットをヨーロッパ日本といった国外にシフトさせていったのも (後述) 、モダン・ジャズの誕生によってジャズの芸術性が高まったが故に、"ジャズを正当な芸術音楽として認識してもらえる"新たなエリアを開拓しようとした結果でもあった (前述したようにアメリカにおけるジャズの認識はあくまでもサロン音楽 (BGM) やダンス・ミュージックの域を出ないものであった。因みにこの国外へのシフトは勿論人種差別の影響が前提として大きくあったが、また政治思想プロパガンダの関与もあったことには留意である[11]) 。しかしその芸術性の獲得と引き換えにして、ミュージシャンらは"様式化による「前衛」の消失" (= 形骸化) という「モダニズム」のジレンマにも悩まされていくことになる。ただしその音楽性はしばらくは大幅な方向性の転換に至るということはなく、むしろ革新的要素と保守的要素、大衆的要素が見事にブレンドされたことでクール・ジャズやハード・バップなどの演奏スタイルを通じて順調に発展していき、そしてモード・ジャズにおいて芸術性と大衆性 (商業性) の総合的な最大到達点に達した (名盤『Kind of Blue』の誕生) 。これら一連のモダン・ジャズの演奏スタイルが全盛期となった1950 - 1960年代は"ジャズの黄金時代"として現在では認識されている (具体的な内容については#1950年代 - 1960年代を参照) 。あるいはその「モダニズム」の確立が特定の時代区分としての「近代」を標榜する建築美術様式への積極的なアプローチを促し、それによってアルバムジャケットリード・マイルスデヴィッド・ストーン・マーティン英語版をはじめとするバウハウス未来派キュビズムなどの抽象絵画に影響を受けたグラフィックデザインが数多く起用されたほか、モダニズム建築 (インテリアデザインを含む) との親和性も向上した (BGMとしての用途の拡大に貢献。ラウンジから寿司屋まで) 。しかしながら方向性を大幅に変えることなくその「モダニズム」のジレンマを「モダニズム」という概念の中で上手く回避してきた音楽性にもやがて限界が近づき、1960年代後半にはマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンといったモダン・ジャズを牽引してきた大物ミュージシャンまでもが前述のように「ポスト・モダニズム」へと向かっていった。これはジャズ史における最大のターニングポイントとなり、"ジャズとは何か"が改めて再確認されるきっかけともなった。

    総括[編集]

    これらの様々な音楽性は各々の演奏スタイルを持つミュージシャンたちによって現在まで脈々と受け継がれており (後述) 、またそういった多面性に魅了される者は多く、他のポピュラー音楽やマニアックな音楽ジャンルとは異なった魅力、いわば"趣味性や幅広い音楽性・芸術性を持ちながらも大人らしく洗練された側面を持ち (ハイカルチャー的) 、また程よくポピュラーで空気感との親和性も高い"音楽ジャンルとして、時代を問わず様々な層から一定の人気・需要を得ている。

    その他[編集]

    他にもジャズの文化的側面から派生して、高等で洗練された音楽を演奏しながらも自堕落で非道徳的な生活 (違法薬物の乱用や不倫など) をしていたかつての一部ジャズメンたちが、伝記映画などで時に自滅型のアンチヒーロー像として描写されたり、あるいは、メインストリームを冷静に見つめながらも自身はあくまでも自然体で過去にも未来にも縛られることなく向上心のないような人物が、"ジャズな人"と呼ばれることもある[12][13]

    他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、「ジャジー (jazzy) 」と形容詞的に表現されることがある。著名な例としてはスティングの『Englishman in New York』や石川さゆりの『ウイスキーが、お好きでしょ』、椎名林檎の『丸ノ内サディスティック』など。なおこの用語はジャズの派生ジャンルに属している楽曲にはあまり使用されず、あくまでもロックやポップス、歌謡曲など、全くの別ジャンルに属している楽曲に使用されることが多い[14]

    歴史[編集]

    1920年代 - 1940年代[編集]

    Duke Ellington, 1943年
    Buddy Bolden, 1905年頃
    Art Blakey, 1985年

    ジャズは西洋音楽アフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアルブルース[15]ラグタイム[16]の要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘルサハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ラグタイムの有名ミュージシャンにはアフロアメリカンのスコット・ジョプリン[17]がいた。ラグタイムは1900年ごろから1920年ごろまで、人気の音楽となった。

    ニューオーリンズが発祥の地[18]とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデン[19]がニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない[20]

    1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。

    初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった[18]第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた[18]

    1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントンベニー・グッドマングレン・ミラーカウント・ベイシー[21]トミー・ドーシースタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった[18]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとヴォーカルとの融合において重要な役割を果たした。

    その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ[22]等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[20]。戦前に設立されたアルフレッド・ライオン[23]ブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。

    1950年代 - 1960年代[編集]

    50年代にはチャーリー・パーカー[24]ディジー・ガレスピーセロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コールメル・トーメ、リー・ワイリー、ペギー・リー[25]らの歌手も、この時期活躍した。

    1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックを丸ごとジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィス[26]が『死刑台のエレベーター[27](監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』(監督:エドゥアール・モリナロ)に、ケニー・ドーハムが『彼奴を殺せ』(監督:エドゥアール・モリナロ)に参加。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[28]

    1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンアルバート・アイラーサン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ[29]という言葉が広まっていった[30]。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディサラ・ヴォーンカーメン・マクレエエラ・フィッツジェラルドニーナ・シモンアニタ・オディ、らも活躍した[31]。白人歌手のヘレン・メリルウテ・レンパーらも人気を集めた。

    1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[32]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラーキャノンボール・アダレイホレス・シルヴァーナット・アダレイラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。

    1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。

    1970年代 - 1980年代[編集]

    70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョン[33]と呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナーラリー・カールトンアル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラジョージ・ベンソンチャック・マンジョーネグローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。

    1990年代 - 現在[編集]

    1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。90年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。

    またハリー・コニック・ジュニア[34]ダイアナ・クラールノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンホセ・ジェームスジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスの音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも登場している。電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニージョン・アバークロンビージョン・スコフィールドロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。2010年代になると、ヒップホップファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーサンダーキャットのコラボのジャズラップなどが人気となり、カマシ・ワシントンのサックスも注目された。また、様々な音楽要素を融合させ、多数の楽器を使いこなすジェイコブ・コリアーのパフォーマンスも話題となった。

    ジャズメンの来日[編集]

    NHK『タモリのジャズスタジオ』において音楽評論家ピーター・バラカン氏が「ヨーロッパ日本がなければ、アメリカのジャズミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズプレイヤーにとって日本は重要なマーケットとなっており、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソンベニー・カーターエラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。

    ヨーロッパのジャズ[編集]

    ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのケニー・ボールの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などはよく知られている。フランスではシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを演奏した。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた[35]

    ラテン・アメリカのジャズ[編集]

    アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。

    アフリカのジャズ[編集]

    ダラー・ブランドがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。

    戦前日本のジャズ[編集]

    戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した[36][37]

    ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。関西のプロたちが東京に流れた背景には1927年に警察が大阪市内のダンスホールを一斉閉鎖したことも一つの要因だった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの『ダイナ』がヒット。ダイナは最も多くカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。

    最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースチンのマイ・ブルー・ヘブン[38]をカバーした『青空』で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。

    1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した[39]。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。

    行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令[40]を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は各種の慰問団などへシフトしていく。

    戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一服部良一淡谷のり子ディック・ミネ志村道夫南里文雄堀内敬三川畑文子中野忠晴ベティ・稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、フランシスコ・キーコ、水島早苗、ハット・ボンボンズ、コロムビア・ナカノ・リズムボーイズあきれたぼういずらがいた。

    戦後日本のジャズ[編集]

    戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子伊東ゆかりしばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。

    戦後は、服部良一が作曲したブギウギ笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミジョージ川口ティーブ釜萢ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである[41]。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。

    鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年穐吉敏子が、1962年渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[42]1963年には松本英彦モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。

    1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[43]

    1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行富樫雅彦日野皓正菊地雅章山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里ジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる[44]

    1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。

    1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂プロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した[32]

    21世紀に入ってからも、H ZETTRIO山中千尋矢野沙織寺久保エレナ上原ひろみ国府弘子、西山瞳、菊地成孔小曽根真らが活躍している。

    主なスタイル/ジャンル[編集]

    過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。

    アーティスト[編集]

    著名なジャズ評論家[編集]

    ジャズが演奏された著名な場所[編集]

    著名なジャズクラブ[編集]

    • ヴィレッジ・ヴァンガード(1935年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。
    • ミントンズ・プレイハウス(1938年 - 1974年、ニューヨーク)テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。
    • バードランド(1949年 - 1965年、ニューヨーク)マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。
    • プリザベーション・ホール(1960年代 - 、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。
    • ブルーノート(1981年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。

    ジャズクラブ以外[編集]

    ジャズ喫茶[編集]

    ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。

    著名なジャズ・フェスティバル[編集]

    三大ジャズ・フェスティバル[編集]

    北アメリカ[編集]

    ヨーロッパ[編集]

    日本[編集]

    開催終了[編集]

    著名なジャズ教育機関[編集]

    ジャズに関するその他の作品・関連メディア[編集]

    TV・ラジオ番組[編集]

    ジャズ専門衛星放送[編集]

    ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信)[編集]

    ラジオ放送[編集]

    映画[編集]

    アーティスト伝記物、もしくはストーリー・音楽ともにジャズと関わりの深い作品

    洋画[編集]

    伝記物
    記録映画
    フィクション

    邦画[編集]

    伝記物
    フィクション
    ジャズの映画音楽/サウンドトラック

    その他[編集]

    参考文献[編集]

    • 『ジャズの歴史 その誕生からフリー・ジャズまで』 Frank Tirro、音楽之友社、1993年。ISBN 4276232511
    • 『ハーレムの黒人たち』植草甚一、晶文社(2005/5)
    • 『コーヒー一杯のジャズ』植草甚一、 晶文社(2004/12)
    • 『ファンキー・ジャズの勉強』植草甚一、晶文社(2005/6)
    • 『ジャズの十月革命』植草甚一、晶文社(2005/4)
    • 『ジャズは海をわたる』植草甚一、晶文社(2005/7)
    • 『ジャズマガジンを読みながら』植草甚一、晶文社(2005/7)
    • 『ビリー・ホリディ物語』油井正一、大橋巨泉
    • 『ジャズ 進化・解体・再生の歴史』悠雅彦、音楽之友社、1998年。ISBN 4276370787
    • 『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、西島多恵子、山下泰司、黒田京子ほか多数、洋泉社、1997年。ISBN 4896912500
    • 『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。ISBN 4636207505
    • 『ニューヨークJazz』小川隆夫、東京キララ社、2002年。ISBN 4380022005

    関連図書[編集]

    • 『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、貴志俊彦、岩波書店、2013年10月。ISBN 4000291157

    脚注[編集]

    [脚注の使い方]
    1. ^ http://www.simplifyingtheory.com/blues-scale-blue-note/
    2. ^ http://www.redhotjazz.com/bix.html
    3. ^ a b 「モダニズム」の2つの意味、また「前衛 」と「モダニズム」の意味・表現の違いの詳細については、こちらを参照→モダニズム (artscape) 2020年9月20日閲覧。
    4. ^ 「フリー・ジャズ」の誕生と存在意義”. uDiscoverMusic. 2020年9月17日閲覧。
    5. ^ 山下洋輔「魂の音楽 ジャズの魅力」”. KEIO MCC. 2020年9月13日閲覧。
    6. ^ 坂本龍一インタビュー後篇 「音楽に力はあるか」”. WHAT’s IN? tokyo. 2020年9月17日閲覧。
    7. ^ 高収入層は「アイドル」や「アニソン」を聴かない? 転職サイトが「音楽と年収」のアンケート結果を公開”. キャリコネニュース. 2020年9月15日閲覧。
    8. ^ ジャズに関する意識調査①”. ローソンエンターテインメント. 2020年9月12日閲覧。
    9. ^ ルパン三世×ジャズの魅力 ハードボイルドな世界構築”. NIKKEI STYLE. 2020年9月15日閲覧。
    10. ^ 牧山純子 ジャズのなかにはいろいろなエロスがある”. PHPオンライン衆知. 2020年9月15日閲覧。
    11. ^ 齋藤嘉臣『ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史』(2017年、講談社選書メチエ)
    12. ^ タモリ「もともと向上心はないけど、仕事以外は厳しいんです」【滝川クリステル】”. GOETHE. 2020年9月17日閲覧。
    13. ^ 「ジャズだねぇ」タモリのこの独特な言い回しは、はたしてどんなヒトを指すのか?”. citrus. 2020年9月17日閲覧。
    14. ^ ジャジー[jazzy](音楽用語辞典)”. ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス. 2020年9月17日閲覧。
    15. ^ 戦前のブルース・マンにはロバート・ジョンソン、チャーリー・パットンらがいた。
    16. ^ http://www.allmusic.com/style/ragtime-ma0000004422
    17. ^ 1920年の「メイプルリーフ・ラグ」を作曲。彼の友人が紹介した
    18. ^ a b c d 斎藤真 他(監修)『アメリカを知る事典』(平凡社、1986年)pp. 210-217
    19. ^ http://www.nps.gov/jazz/learn/historyculture/bolden.htm
    20. ^ a b 岩浪洋三『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』(朔北社、2008年)pp.65-68、291-292
    21. ^ https://www.allmusic.com/artist/count-basie-mn0000127044
    22. ^ http://www.jazzradio.com/bebop
    23. ^ ドイツ人。相棒はフランシス・ウルフ。
    24. ^ http://www.allmusic.com/artist/charlie-parker-mn0000211758
    25. ^ http://www.npr.org/2008/02/13/.../nat-king-cole-the-singer
    26. ^ 表題曲でマイルスはブルージーな即興演奏を披露している
    27. ^ ジャンヌ・モローが出演したサスペンス映画
    28. ^ 相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』(新潮社、2007年)pp.116-127
    29. ^ http://www.allmusic.com/subgenre/free-jazz-ma0000002598
    30. ^ 『フリー・ジャズ』レビュー(All Music Guide)
    31. ^ http://www.discogs.com/Billie-Holiday-Ella-Fitzgerald
    32. ^ a b 『音楽CD検定公式ガイドブック上巻』(音楽出版社、2007年)p.131, 220
    33. ^ http://www.allmusic.com/subgenre/fusion-ma0000002607
    34. ^ Chart Beat, Billboard, April 9, 2009
    35. ^ 田中まり 「第三帝国とジャズ」北陸学院短期大学紀要 32, 237-248, 2000-12-28
    36. ^ ジャズライブKOBE神戸とJAZZ|NHK神戸放送局(2015年8月24日閲覧)
    37. ^ 兵庫県/神戸県民局7月のメッセージ(神戸県民局長平野正幸)(2015年8月24日閲覧)
    38. ^ http://www.discogs.com/Gene-Austin-My-Blue-Heaven/
    39. ^ http://meikyoku-pei.jugem.jp/?eid=446
    40. ^ 以下の3つの基準で禁止された。「1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽」(情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64)
    41. ^ みつとみ俊郎 『音楽ジャンルって何だろう』 新潮社〈新潮選書〉、1999年12月25日、p.40
    42. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.57
    43. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。
    44. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.56, 57 日本のミントンズ・プレイハウスといえるのだという。
    45. ^ 11PMオープニング・テーマ曲の作曲者

    関連項目[編集]

    外部リンク[編集]