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ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ

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ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ
Godfrey Harold Hardy
生誕 (1877-02-07) 1877年2月7日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドサリーCranleigh
死没 1947年12月1日(1947-12-01)(70歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドケンブリッジシャーケンブリッジ
国籍 イギリスの旗 イギリス
研究分野 数学
研究機関 ケンブリッジ大学
出身校 トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)
博士課程
指導教員
A. E. H. Love
E.T.ホイッテーカー
博士課程
指導学生
en:Mary Cartwright
シドニー・チャップマン
en:I. J. Good
en:Edward Linfoot
en:Frank Morley
en:Cyril Offord
en:Harry Pitt
en:Richard Rado
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
Robert Rankin
ドナルド・スペンサー
Edward Titchmarsh
en:Tirukkannapuram Vijayaraghavan
en:E. M. Wright
主な業績 ハーディー・ワインベルクの法則
分割数の公式
ラマヌジャンへの支援
影響を
受けた人物
カミーユ・ジョルダン
影響を
与えた人物
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン
主な受賞歴 ロイヤル・メダル(1920)
ド・モルガン・メダル(1929)
ショーヴネ賞(1932)
シルヴェスター・メダル(1940)
コプリ・メダル(1947)
プロジェクト:人物伝
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ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ[1]英語: Godfrey Harold Hardy, 1877年2月7日 - 1947年12月1日[2]は、イギリス数学者数論解析学での業績で知られる。[3][4]生物学では、集団遺伝学の基本原理であるハーディー・ワインベルクの法則で知られている。

数学分野の外では、一般向けに書かれた職業的数学者の心性への最良の洞察の一つとされる1940年の随想『ある数学者の生涯と弁明』でよく知られている。

1914年から、ハーディはインドの数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンのメンターを務め、この関係は広く称えられている。[5]ハーディは、独学ではあったが非凡なラマヌジャンの才能をほとんど即座に見抜き、二人は親密な共同研究者となった。[6]ポール・エルデシュのインタビューで、数学への最大の貢献は何かと問われたとき、ハーディはためらうことなく、それはラマヌジャンの発見だと答えた。[7]ラマヌジャンに関する講演では、「彼との関わりは私の人生で唯一のロマンチックな出来事だ」と語っている。[8]さらに彼は、数学的能力を尺度化すると自分は1、ヒルベルトは10、ラマヌジャンは100だと評した。

経歴

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ハーディは1877年2月7日、イングランドサリー州クランリーに、教育に携わる家庭の子として生まれた。[9]父はクランリー校の事務長兼美術教師、母はリンカーン師範学校の上級女教師であった。両親はどちらも数学に素養があったが、大学教育は受けていなかった。彼と妹ガートルード・エミリー・ハーディ(愛称「ガーティ」)(1878–1963)は、教育に理解のある両親のもと、乳母のつく典型的なヴィクトリア朝の子供部屋で育てられた。幼いころから、サンタクロースの存在や祈りの効験について乳母と議論を交わし、妹に『ドン・キホーテ』『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』などを声に出して読んで聞かせた。[1]

ハーディの生来の数学的適性は幼少期から明白だった。2歳にして百万単位までの数字を書き、教会に連れて行かれると賛美歌番号の因数分解をして自らを楽しませた。[10]

クランリーでの就学後、ハーディは数学での業績によりウィンチェスター・カレッジの奨学金を得た。1896年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学した。[11]当初はロバート・ウェッブ英語版の指導を受けたが満足できず、一時は歴史学への転向も考えた。のちにオーガストゥス・ラブの指導を受け、彼の勧めでカミーユ・ジョルダンの「解析学講義」を読むことになり、そこで初めて「数学が本当に意味するもの」を学んだ。指導教員ロバート・ハーマン英語版の下でわずか2年準備したのち、ハーディは数学トライポス英語版試験で第4位となった。[12]後年、トライポス制度が手段が目的化していると感じた彼は、その廃止を求めた。在学中、彼はケンブリッジのエリート知識人秘密結社ケンブリッジ使徒会にも参加している。[13]

ハーディは、自身に最も大きな影響を与えたものとして、フランスの数学者カミーユ・ジョルダンの「エコール・ポリテクニークの解析学講義」を独学した経験を挙げている。これによって彼は、大陸ヨーロッパのより厳密な数学伝統に触れることになった。1900年にトライポス第II部に合格し、同年トリニティ・カレッジのプライズ・フェローに選出された。[1]1903年には修士号(当時の英大学における最高学位)を取得。1906年にプライズ・フェローの任期が満了すると、トリニティの数学講師に任ぜられ、週6時間の授業で研究時間を確保できるようになった。[1]

1913年1月16日、ラマヌジャンはハーディに手紙を書いた。ラマヌジャンは、ハーディの著書「無限の秩序」(1910)を読んで彼の名を知っていた。[14][15]ハーディはその手紙を朝に読み、最初はトンデモか悪戯を疑ったが、熟考の末、その日の夕方には本物である可能性が高いと悟った。というのも「あれほど信じがたい技能をもつ盗人や詐欺師よりも、偉大な数学者のほうがまだよくいる」からである。[16]彼はラマヌジャンをケンブリッジへ招き入れ、こうして「私の人生で唯一のロマンチックな出来事」が始まった。[17]

第一次世界大戦中のバートランド・ラッセル事件の余波ののち、1919年、彼はケンブリッジを離れてオックスフォード大学のサヴィリアン幾何学教授職に就いた(これによりニュー・カレッジ英語版のフェローとなった)[18]。1928-1929年度にはオズワルド・ヴェブレンとの学術交流でプリンストン大学に滞在し、ヴェブレンはその年をオックスフォードで過ごした。[3]また1928年にはジョサイア・ウィラード・ギブズ記念講演英語版を行っている。[19][20]1931年にオックスフォードを去ってケンブリッジに戻り、再びトリニティ・カレッジのフェローとなり、サドレリアン教授職を1942年まで務めた。[1]彼がオックスフォードからケンブリッジへ戻ったのは、65歳定年制を避けるためだったとも言われる。[17]

1922年から1935年まで、彼はアビンドン・スクール英語版の理事会メンバーでもあった。[21]

1939年、彼は冠動脈血栓症を患い、テニスやスカッシュなどをプレーできなくなった。同時に、数学における創造的能力も失われた。彼はしばしば退屈を感じ、私的に回覧されたラッセル事件の回想録を書くことで気を紛らわせた。1947年初夏、彼はバルビツール酸系過量服薬による自殺未遂を図った。その後は死を待つと決めたという。彼は12月1日の早朝、妹が読み上げるケンブリッジ大学クリケット史の本に耳を傾けている最中に、突然この世を去った。[17]

業績

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ハーディは、厳密さを導入することで英国数学を刷新したと評価されており、厳密性はそれまで主にフランススイスドイツの数学の特徴であった。[22]イギリスの数学者は長らく応用数学の伝統にとどまり、アイザック・ニュートンの名声に拘束されていた。

ハーディは、数学の仕事を1日4時間にとどめ、残りの時間は談話、クリケット、その他の紳士的な活動に費やすのを好んだ。[17]

1911年からはジョン・エデンサー・リトルウッドと協働し、数学解析と解析的数論で広範な研究を行った。これ(ほか多くの成果とともに)は、のちにハーディ=ラマヌジャン=リトルウッドの円周法英語版として知られる手法の一環として、ウェアリングの問題の量的進展へとつながった。素数論では、彼らは種々の定理と、注目すべき仮定付き結果を証明した。これらは、数論を予想体系として発展させる上で大きな要因となり、第一・第二ハーディ=リトルウッド予想などが例である。ハーディとリトルウッドの共同研究は、数学史上最も成功し有名な協働の一つに数えられる。1947年の講演で、デンマークの数学者ハラルト・ボーアは、ある同僚の言を引用してこう述べた。「今日、真に偉大なイングランドの数学者は三人しかいない。ハーディ、リトルウッド、そしてハーディ=リトルウッドだ。」[23]

1919年11月、ハーディはリトルウッドとの研究についてバートランド・ラッセルに宛ててこう書いている。

リトルウッドに、少しでよいから執筆するよう気持ちよく促す方法が見つかればいいのだが。天のみぞ知る、私は彼に計り知れぬ恩義がある……しかし我々の協働では、彼はアイデアだけを提供する……面倒な部分は全部私がやらねばならない(さもなくば)全く進まない……私は彼からまったく助けが得られない。私がどれほど進んでいるか尋ねることすらないのだ![24]

ハーディはまた、ハーディ=ワインベルグの原理(集団遺伝学の基本原理)を、1908年にヴィルヘルム・ワインベルグ英語版と独立に定式化したことでも知られる。彼は遺伝学者レジナルド・パニット英語版クリケットをともにし、パニットがこの問題を純粋に数学的な形式で持ちかけた。[25]遺伝学に興味のなかったハーディは、この数学的議論を「きわめて単純」と述べ、この結果がいかに重要なものになったかを理解していなかった可能性がある 。[26]

ハーディは1921年にアメリカ芸術科学アカデミーの外国人名誉会員[27]、1927年に米国科学アカデミーの外国人会員[28]、1939年にアメリカ哲学協会の外国人会員に選出された。[29]

ハーディの論文集は、オックスフォード大学出版局から全7巻で刊行されている。[30]

純粋数学

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ハーディは、自身の研究が純粋数学と見なされることを好んだ。おそらくそれは、戦争軍事への数学の応用に対する嫌悪のためである。彼は『弁明』と同趣旨の発言を繰り返し、こう述べている。

私は「有用な」ことを何一つしたことがない。私の発見のいかなるものも、良きにせよ悪しきにせよ、世界の快適さに直接・間接においてほんの少しの差異すらもたらしていないし、今後ももたらす見込みはない。[31]

しかし、集団遺伝学におけるハーディ=ワインベルグの原理に加え、ラマヌジャンとの整数分割に関する著名な仕事として知られるハーディ=ラマヌジャンの漸近公式は、物理学原子核の量子分配関数を求める(最初はニールス・ボーアによる)用途や、相互作用しないボース分布関数の導出に広く応用された。また、彼の数論の仕事は暗号においても重要である。すなわち、ハーディは自らの数学を「純粋」で無応用であることを望んだが、その多くは他分野で応用を見いだしている。[32]

さらにハーディは『弁明』で、数学者は一般に自分の仕事の無用性を誇るのではなく、科学が善にも悪にも用いられ得るがゆえに、少なくとも一つの学、すなわち自分たちの学問が日常的人間活動から遠く離れていることで「穏やかで清潔」に保たれることを喜んでもよいと述べた。[33]ハーディはまた、純粋と応用の差が有用性に関わるという信念を「妄想」として退けた。ハーディにとって「純粋」とは物理世界から独立した数学であり、同時にジェームズ・クラーク・マクスウェルアルベルト・アインシュタインのような応用系の物理学者もまた「本物の数学者」に含まれる。彼らの仕事は「恒久的な審美的価値」を持ち、「最良の文学がそうであるように、何千年を経ても数千の人々に強い感動を与え続ける」ため不朽である、と彼は考えた。彼が「本物」と呼ぶ数学がやがて有用になる日が来ることを認めつつも、『弁明』執筆当時においては、純粋であれ応用であれ、「退屈で初等的」な部分だけが「善にも悪にも」働き得るに過ぎないと断じている 。[33]

人柄

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ハーディは幼少期から極端に内気で、一生を通じて社交下手、冷淡、風変わりな人物だった。学齢期にはほとんどの教科で首席を占め、多くの賞を得たが、全校生徒の前で授与されるのをひどく嫌った。新しい人に紹介されるのが苦手で、鏡に映る自分の姿を見るに耐えられなかったという。ホテルに泊まるときは、すべての鏡にタオルをかけたといわれる。[34][35]

社会的には、ブルームズベリー・グループやケンブリッジ・アポスルズと関わり、ジョージ・エドワード・ムーア、バートランド・ラッセル、ジョン・メイナード・ケインズは友人であった。親密な友情以外にも、彼と感性(しばしばクリケットへの愛を含む)を共有する若者たちと幾つかのプラトニックな関係を持った。[36]クリケットへの共通の関心は、若きチャールズ・パーシー・スノーと親しくなるきっかけにもなった。[34][17]ハーディは生涯独身で、晩年は妹が身の回りの世話をした。

彼は熱烈なクリケット・ファンだった。ケインズは、もしハーディが、日々のクリケットの試合結果に注ぐのと同じ関心と注意で毎日30分株式相場欄を読んでいたなら、彼は大金持ちになっていたろう、と評した。[36]彼は数学研究の最上位クラスを「ホッブス級」と呼び、のちにより偉大な打者ドナルド・ブラッドマンが現れると「ブラッドマン級」と言うようになった。[17]

20歳前後には無神論を決め、ケンブリッジ大学で礼拝堂出席が必須だったことが小さな問題となった。彼は両親にその旨の手紙を書き、それ以後はたとえ儀礼的な用務であってもいかなるカレッジ礼拝堂にも入らないことにした。[17]

彼はときに政治的にも関与し、活動家とまではいかないが、第一次世界大戦中には民主統制同盟英語版、1930年代後半には知的自由のための運動に参加した。[22]彼はアメリカソ連をほぼ同程度に評価し、第二次世界大戦の双方の陣営に反感を抱いた。[17]

ポール・ホフマン英語版は、友人に送った年賀の絵葉書に記された、ハーディの六つの新年の抱負を次のように紹介している。

  1. リーマン予想を証明する
  2. ジ・オーバルでの最後のテストマッチ第4イニングで211ラン無敗
  3. 神の不存在について一般大衆を納得させる論証を見つける
  4. エベレスト初登頂者となる
  5. グレートブリテンとドイツの社会主義連邦初代大統領に就任する
  6. ムッソリーニを殺す[37]

文化的言及

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ハーディは、2015年の映画『奇蹟がくれた数式』でジェレミー・アイアンズによって演じられている。[38]また、デイビッド・リービット英語版の歴史小説『インドの事務員英語版』(2007)は、彼のケンブリッジ時代とリトルウッドやラマヌジャンとの関係を描く。[39]さらにアポストロス・ドクスアディス英語版の数学小説「ペトロおじさんとゴールドバッハ予想」(1992)では脇役として登場する。[40]2014年のインド映画『ラマヌジャン』ではケビン・マックゴワンがハーディを演じた。

主な著作

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関連項目

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出典

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  1. ^ a b c d e Titchmarsh, E. C. (1949). "Godfrey Harold Hardy. 1877–1947". Obituary Notices of Fellows of the Royal Society. 6 (18): 446–461. doi:10.1098/rsbm.1949.0007. S2CID 162237076.
  2. ^ GRO Register of Deaths: DEC 1947 4a 204 Cambridge – Godfrey H. Hardy, aged 70
  3. ^ a b O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., "G. H. Hardy", MacTutor History of Mathematics Archive, University of St Andrews
  4. ^ G. H. Hardy at the Mathematics Genealogy Project
  5. ^ THE MAN WHO KNEW INFINITY: A Life of the Genius Ramanujan Archived 5 December 2017 at the Wayback Machine. Retrieved 2 December 2010.
  6. ^ Littlewood, J.E.; Bollobás, B. (1986). Littlewood's Miscellany (Rev. ed.). Cambridge [Cambridgeshire]; New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-33058-9.
  7. ^ Alladi, Krishnaswami (19 December 1987), "Ramanujan—An Estimation", The Hindu, Madras, India, ISSN 0971-751X. Cited in Hoffman, Paul (1998), The Man Who Loved Only Numbers, Fourth Estate, pp. 82–83, ISBN 1-85702-829-5
  8. ^ Hardy, G. H. (1999). Ramanujan: Twelve Lectures on Subjects Suggested by his Life and Work. Providence, RI: AMS Chelsea. ISBN 978-0-8218-2023-0.
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  10. ^ Robert Kanigel, The Man Who Knew Infinity, p. 116, Charles Scribner's Sons, New York, 1991. ISBN 0-684-19259-4.
  11. ^ "Hardy, Godfrey Harold (HRDY896GH)". A Cambridge Alumni Database. University of Cambridge.
  12. ^ In the 1898 Tripos competition, R. W. H. T. Hudson was 1st, J. F. Cameron was 2nd, and James Jeans was 3rd. "What became of the Senior Wranglers?" by D. O. Forfar
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外部リンク

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