新興国競技大会

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新興国競技大会(しんこうこくきょうぎたいかい、英語: The Games of the New Emerging Forces, 略称:GANEFO)は、オリンピックに対抗するものとして1963年11月にインドネシアで開催されたスポーツ大会。

概要[編集]

いわゆる「新興国」(主に新しく独立した第三世界)のスポーツ選手のための大会で、その憲章では政治とスポーツが密接な関係であることが明らかにされた。

インドネシアのIOC脱退とGANEFO[編集]

開催のきっかけは1962年8月にジャカルタで開催された1962年アジア競技大会にインドネシア政府の方針でイスラエル中華民国が招待されなかったことが問題となったことによる。当時、インドネシア大統領スカルノアラブ諸国への宗教的親近感、特に社会主義国家建設における中華人民共和国への親近感を明らかにしていた(北京=ジャカルタ枢軸)。1961年にインドネシアは国連から脱退し、中国とともに「第二国連」構想を進めており、後の1965年には中国と新興勢力会議(CONEFO)を結成することになる。

このような方針は政治をスポーツから切り離すように努めてきた国際オリンピック委員会(IOC)の理念に抵触するものであった。また、中華人民共和国は中華民国がIOC加盟国として存続することを否定していたためにIOCから脱退した状態であった。そこでIOC、国際陸上競技連盟 (IAAF)、国際ウエイトリフティング連盟 (IWF) は第4回アジア大会は正式競技大会としては認めないとの方針を表明した。

1962年12月に中華人民共和国とインドネシアはアジア・アフリカの新興国と競技大会を開催準備するとしてIOCを牽制する共同声明を発表した[1]

1963年4月にはIOCがインドネシアのIOC加盟国としての資格停止(オリンピック出場停止)を決議、これに対抗しアラブ諸国12ヶ国が1964年東京オリンピックボイコットを示唆するなどの対立が強まった。

インドネシアはIOCを脱退し、同年4月28日には社会主義国、アラブ諸国、アフリカ諸国に呼びかけてオリンピックに対抗しうる総合競技大会を開催することを発表し、当初は中華人民共和国・インドネシア・カンボジアイラクギニアマリパキスタン北ベトナムソビエト連邦の10カ国だったが、同年11月にはさらに36カ国も参加した[2]

そこで、IOCや、IAAF、国際水泳連盟(FINA)といった国際競技連盟(IF)はGANEFOに出場する選手は資格が停止されオリンピックに参加する資格を失うと宣言した。

第1回新興国競技大会[編集]

第1回新興国競技大会は1963年11月10日から13日までジャカルタで開催され、中華人民共和国、ソ連、アフガニスタンアルバニアアルジェリアアルゼンチンベルギーボリビアブラジルブルガリアビルマ、カンボジア、チリセイロンキューバチェコスロバキア北朝鮮ドミニカ共和国フィンランドフランス東ドイツ、ギニア、ハンガリー、インドネシア、イラク、イタリア日本ラオスレバノンメキシコモンゴルモロッコオランダナイジェリア、パキスタン、フィリピンポーランド、マリ、ルーマニアサウジアラビアセネガルソマリアタイチュニジア北ベトナムアラブ連合共和国ウルグアイユーゴスラビアパレスチナ[3] など51ヶ国2700人[4] が参加した。日本からもGANEFO国内委員会が設立され選手が参加している。尚、この国内委員会は当時の日本体育協会とは無関係の団体であった。また諸国からの参加も、社会主義国家に親近感を抱く大学等が国を代表しているとしているものがあった。

中華人民共和国からは有力選手が出場し、最も多くのメダルを獲得した。一方、ソ連は社会主義国家の団結を示すためにGANEFOに選手を派遣したが、IOCにおいて立場を悪くしないためにこれらの選手はオリンピックに出場するレベルの選手ではなかった。陸上競技重量挙げアーチェリーにおいては世界記録が樹立されている。

国・地域
1 中華人民共和国の旗 中国 68 58 45 171
2 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 27 21 9 57
3 インドネシアの旗 インドネシア 21 25 35 81
4 アラブ連合共和国の旗 アラブ連合共和国 22 18 12 52
5 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 13 15 24 52
6 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 5 0 4 9
7 日本の旗 日本 4 10 14 28
8
Total

[5]

アジア新興国競技大会[編集]

1965年に入り、インドネシア国内での反共主義的なスハルトの台頭(9月30日事件の発生)に伴いインドネシアと中華人民共和国の蜜月は消えるも、中華人民共和国は新興国競技大会の存続を図り、北京を本部に「アジア新興国競技大会」に改め、1967年エジプトカイロで開催が計画されていた第2回大会は1966年11月25日から12月6日までカンボジアのプノンペン親中派ノロドム・シハヌーク国王が代わって開催することになった。参加国は前回の51カ国から、中華人民共和国、カンボジア、モンゴル、セイロン、日本、インドネシア、イラク、ラオス、北朝鮮、レバノン、パキスタン、パレスチナ、ネパール、シンガポールシリア、北ベトナム、 イエメンの17カ国まで減った。大会期間中に北朝鮮代表で元在日朝鮮人であったボクサーの金貴河(日本名:金田森男)が日本大使館に亡命未遂事件を起こした[6]

国・地域
1 中華人民共和国の旗 中国 108 57 34 199
2 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 30 42 32 104
3 カンボジアの旗 カンボジア 10 42 10 62
4 日本の旗 日本 10 12 8 30
5
Total

GANEFOと日本[編集]

日本国内においては日本オリンピック委員会(JOC)は1963年のGANEFOには参加しないことを決定。参加した選手は国際大会への参加資格を失うほか、国内の国民体育大会への参加資格も剥奪された[7]。従って、日本はメダルを少なからず獲得したものの、その国内団体は日本体育協会とは無関係の団体である。

脚注[編集]

  1. ^ 新兴力量运动会的缘起与中国和印尼的关系”. 国史网 (2014年6月6日). 2018年2月18日閲覧。
  2. ^ Modelski, George (1963). The New Emerging Forces. Canberra: Australian National University, Research School of Pacific Studies.
  3. ^ GANEFO opening ceremony footage”. Youtube (1963年). 2018年2月18日閲覧。
  4. ^ 出典:日本オリンピックアカデミー編『オリンピック事典』1981年。中国オリンピック委員会公式サイト では48ヶ国2404人としている。
  5. ^ Ewa T. Parker, “Ganefo I: Sports and Politics in Djakarta,” Asian Survey, 5:4 (1965), 181.
  6. ^ 日本スポーツ評論家協会 編『なんでもわかるスポーツ百科 67年版 評論・随筆篇』洋々社、1967年6月20日、78頁。NDLJP:2513567/62 
  7. ^ 昭和42年11月22日付 衆議院文教委員会議事録に記載がある。

参考文献[編集]

  • Huebner, Stefan (2016), Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia, 1913-1974, Singapore: NUS Press, ISBN 978-981-4722-03-2, http://nuspress.nus.edu.sg/collections/rest-of-asia-regional/products/pan-asian-sport-and-the-emergence-of-modern-asia-1913-1974?variant=925661658 
    • シュテファン・ヒューブナー 著、高嶋航・冨田幸祐 訳『スポーツがつくったアジア 筋肉的キリスト教の世界的拡張と創造される近代アジア』一色出版、東京、2017年11月。ISBN 978-4-909383-00-6  - 日本語版。
    • 浦辺登著『アジア独立と東京五輪』弦書房、2013年、ISBN 978-4-86329-086-0
    • 福岡地方史研究会編『福岡地方史研究 57号』2019年、ISBN 978-4-910038-07-0

関連項目[編集]

外部リンク[編集]