DSPメディア

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DSPメディア
業種 音楽&芸能
事業分野 K-POP
設立 1991年10月
創業者 イ・ホヨン
本社 大韓民国の旗 韓国ソウル特別市江南区論硯洞35-8
事業地域 アジア
製品 音楽&芸能
サービス 音楽&芸能事務所
ウェブサイト DSPmedia(韓国語)
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株式会社DSPメディア(DSP media Co., Ltd.、以下「DSP」)は、大韓民国ソウル市に本社を置く総合エンターテインメント会社、芸能事務所。事業内容は、音盤制作および企画、有線・無線コンテンツ事業、放送コンテンツの企画および制作など。

概要[編集]

同社の前身は、現在も代表を務めるイ・ホヨンが1991年に設立した「テソン企画」である。1999年には「DSPエンターテインメント」、2008年に現在の「DSPメディア」へと社名を変更する。

イ・ホヨンは、1988年にハンバッ企画社長の誘いをきっかけに芸能マネージメントの世界に入り、ソバンチャやユ・ヨルといった歌手を発掘した。その後は、ZAMIDOLSechskiesFin.K.L、CLICK-B、2Shai、A'st1、SS501KARARAINBOW、A-JAX、KARDといったアイドルグループを次々と世に送り出してきた。

これらのグループは、SMエンターテインメント所属のグループとライバル関係にあると世間では見られることが多い。H.O.T.Sechs KiesS.E.S.とFin.K.L、神話とCLICK-B、東方神起とSS501 、少女時代とKARAはそれぞれ、デビュー時期からして対抗馬的な存在である。特に90年代後半には、H.O.T.の5人に対してSechs Kiesの6人、S.E.S.の3人に対しFin.K.Lの4人、神話の6人に対してCLICK-Bの7人と、SMのグループより1人多いメンバー構成でデビューさせてきた。そのため、「DSPは常にSMの後追いばかりしていて二番煎じだ」と皮肉られることもたびたびあるが、それでも後発グループでありながら、SM所属グループと対等に近い存在のグループを次々と作り出す力には定評がある。

それとDSPが韓国で初めて試みたものも多い。まず、日本のアイドルのシステムを導入して消防車とZAMをヒットさせた。消防車は「韓国で初のアイドルグループ」と呼ばれ、ZAMは「韓国・初の男女混成グループ」である。以後、1996年には14〜15歳の中学生で構成されたデュオ「IDOL」を排出し、歌手の平均年齢を大幅に下げた。SechsKiesの「ブラックキス」と「ホワイトキス」はアイドルユニットの始まりで、FIN.K.Lは4人4色で完全にグループ内の色別を担当した構成があり、Click-Bは「韓国で初のバンド型アイドル」であった。韓国でアイドルグループをヒットさせたのはSMエンターテインメントよりもDSPが先である。

同社は、2000年頃に中国で起こった韓流ブームの時は、海外進出にはあまり積極的では無かったが、2004年以降の日本での韓流ブームや、東方神起の日本進出を受け、積極的な方針に転換する。2006年には日本法人「DSP Entertainment Japan ( 現DSPmediaJAPAN)」を設立し、イホヨンの旧知の高和彦が代表取締役としてSS501を日本へ進出させた。この時の高のノウハウや人脈は、のちの後輩KARAの日本進出成功に生かされることになり、続いてRAINBOWを日本へ進出させた。

イ・ホヨンは敏腕で情に厚い性格であるという評判が多いようで、元Fin.K.Lのソン・ユリSechs Kiesのウン・ジウォンがテレビのバラエティー番組で「専属契約書自体、存在しなかった」と証言しているほど彼を信頼していたのだという。しかし、2010年3月にはイ・ホヨンが脳卒中で入院し、彼の妻が事実上の責任者となった。イ・ホヨンの片腕だった理事も独立したという。2011年1月に、KARAのメンバー3人(スンヨン、ニコル、ジヨン)が専属契約解除を求めた事件は、イ・ホヨンが不在であるため、仕事や収入に関する不満に関して、DSP側との対話が上手く成り立たなくなったのも原因の一つであるとされている。

同社は、音楽制作が中心の『DSPレコーディング』と、映像制作が専門の『DSPプロダクション』に分かれており、映像制作では「外科医ポン・ダルヒ」や「マイガール」などのドラマを手がけている。事務所は一軒家をリフォームしレコーディングスタジオ(1階、[1])、レッスンルーム(地下室)を備える。

2018年2月14日、イ・ホヨン社長は長い闘病生活の末、64歳で死去した。

エピソード[編集]

  • 創業者のイ・ホヨンは、日本のアイドルを見て韓国にもアイドルを作りたいとして自分の住んでいた家を改装し、それが現在の事務所となった。
  • SechskiesFin.K.Lなどが活躍していた時代は現在のような練習生システムや事務所に練習室などが無かったため、トレーニングをせずにデビューさせていた。その当時は実力や才能の優れた人物を他の芸能会社やダンススクールなどからスカウトして、それぞれの技術を他のメンバーに伝授してデビューさせるシステムだった。その代表的な事例がSechsKiesである。ダンスはダンサー出身のイ・ジェジンとキム・ジェドクが、ラップはウン・ジウォンが教えていたが、カン・ソンフンはボーカルレッスンを受けずに、ボーカルを担当していた。また、FIN.K.Lも声楽専攻だったオク・ジュヒョンが他のメンバーたちにボイスレッスン(発声練習)をしており、SS501KARAもボイストレーニングをしていないことで有名だった。SS501は、最終的に私費で学び、後に後輩たちも私費で練習したという。
  • キャスティング力があることでも定評がある。代表的な例にSechsKiesのメンバー、Click-Bのオ・ジョンヒョク、ユ・ホソク、SS501のキム・ヒョンジュン、KARAのク・ハラなどが挙げられる。そしてそれらのメンバーが後に大きく活躍したことを見れば、社長の感が非常に優れていると言える。イ・ホヨンが社長を辞退した後の現在は、DSPの新人開発チームが人材招聘を務めている。

参考文献[編集]

  • 『韓国エンターテインメント三昧』田代親世:著、芳賀書店、2000年、21項
  • 週刊文春』2011年2月3日号「KARA、少女時代 K-POPアイドルの『血と骨』」
  • 『K-POPバックステージ・エピソード』酒井美絵子:著、河出書房新社、2011年、146~148項
  • 古家正亨のALL ABOUT K-POP』ソフトバンククリエイティブ:刊、2010年、46項

脚注[編集]

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  1. ^ 入室にはセコム指紋認証セキュリティーを導入している。

外部リンク[編集]