DHL貨物便撃墜事件

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DHL貨物機
DHL A300B4-203F Cargo aircraft.jpg
事故機のA300B4-203F
出来事の概要
日付 2003年11月22日
概要 テロリストによる撃墜
現場 イラクバグダードバグダード国際空港
乗員数 3
負傷者数
(死者除く)
0
死者数 0
生存者数 3(全員)
機種 エアバスA300B4-203F
運用者 DHL
機体記号 OO-DLL
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DHL貨物便撃墜事件 (ディーエイチエルかもつびんげきついじけん)とは、2003年11月22日に起きたテロリストによる民間貨物機の撃墜事件である。

当日のDHL機[編集]

機長は副操縦士よりも、総飛行時間が3300時間多く、その半分以上はA300での飛行であった。副操縦士の総飛行時間は1275時間で、航空機関士は13423時間の飛行経験があった[3]

  • 主な積荷:駐留兵士の郵便物

事件発生[編集]

2003年11月22日、DHL社のエアバスA300B4-200F貨物機がイラク・バグダード協定世界時6時30分に離陸した直後、左ウイングチップに携帯式地対空ミサイルの直撃を受けた。ダメージを受けた主翼は炎上し、油圧制御系統は全損した。離陸に際して右主翼外側の燃料タンク1Aは満タンになっていたため、気化した燃料による爆発は起きなかった。ジェット燃料は1A燃料タンクが破壊されるにつれ、漏出していった。内側燃料タンク1にも損傷はおよび、燃料が漏出した[4]。 同機はバグダードに引き返し、パイロットの操作のみによる2基のエンジンの推力操作で、3人の乗員は片翼の一部を失った機体を着陸させた。主翼への大きなダメージ、油圧制御系統の全損、安全な着陸速度を上回る速度、準備の整っていなかった地上滑走路といった条件にもかかわらず、無事に着陸した。

『パリス・マッチ』(Paris Match)誌のリポーターは、DHL機を攻撃したフェダイーンの民兵部隊とともにいた[5]。同誌のジャーナリスト、サラ・ダニエルは非公開の情報源から、顔を隠した民兵がDHLのA300機に対してミサイルを発射している映像を入手したと明らかにした[6][7]。ダニエルはイラクの民兵集団の特徴を調査していた。また攻撃の瞬間に立ち会ったにもかかわらず、攻撃を実行した人物に関しては不明であるとしている[7]

攻撃直後[編集]

地上からの攻撃に曝されるのをさけるため、DHL機は急速上昇を実行していた。高度約8000フィート(約2450メートル)で、9K34ストレラー3(NATO識別符号:SA-14 グレムリン)が左ウイングチップに命中した[8]。弾頭は動翼と構造を損傷させ、火災を引き起こした。三重の油圧システムは油圧を失い、飛行を制御することが出来なくなった。機体は1985年8月12日JAL123便[9]と同様、ローラーコースターさながらの急速な機首の上下動を繰り返した。

機長は、JAL123便や1989年のUA232便と同様、エンジンの推力調整のみで垂直方向、速度そして高度を修正し、両エンジンの推力を左右非対称に変えることで水平方向を制御し、機体を旋回させた。航空機関士は、通常は油圧でおこなう着陸脚下げを、重力落下で実行した。抵抗を増大させることにより速度が低下し機体を安定させることになるため、早期に着陸脚を展開することは安全な着陸にとって緊要であった。

約10分にわたる試行の間に、乗員は旋回、上昇そして下降を制御することができるようになった。迷走の後、彼らは右旋回を行い、バグダード国際空港へ向かい下降を開始した。

緊急着陸[編集]

左翼のダメージと燃料漏出のため、機関士はエンジンを綿密に監視しなければならなかった。生還には両翼のエンジンの正確な制御が不可欠であり、万一左翼タンクからの燃料供給が失われた際には、燃料を右翼から供給しなければならなかったからである。

機長と副操縦士は、33R滑走路への最終アプローチを開始した。機体が右方向へ横滑りするため、機長は33Rより短い33L滑走路への着陸を選択した。視界はきわめて良好であり、機長と副操縦士は降下を制御することができた。直観に反することだが、彼らは機首や翼を激しく地面に激突させないためには、着陸前にスロットルを絞ってはいけないことを理解していた[4]

約400フィート(120メートル)で、乱気流により機体はバランスを崩し、右側に傾いた。推力補正によりロールは制御されていたが、機体は滑走路中央線を外れて着陸した。機関士はただちに逆噴射装置を全開にしたが、機体は滑走路から逸脱していった。その後、機体は不整地に逸走し、砂煙を巻き上げ、さらに鉄条網を引きずりながら1000メートルオーバーランし停止した[4]

事件後[編集]

乗員たちはヒュー・ゴードン=バージ記念賞(Hugh Gordon-Burge Memorial Award)を受賞した[10]。これは、機体または乗客を守るために際立った行動をした、あるいは、将来の航空安全に顕著な貢献をした航空機搭乗員に対して授与される賞である。表彰は年次で行われるが、推薦のみであったとしても顕著な名誉と見なされる。

航空安全財団は「航空安全における航空安全財団プロフェッショナリズム賞」(FSF Professionalism Award in Flight Safety)を、乗員たちの「イラク・バグダード離陸後のミサイル攻撃後に、機体を安全に着陸させた並はずれた操縦技術」[11]に対して授与した。

2006年5月、機長はエアバス社のテストパイロット、アルマンド・ヤーコブとともに王立航空協会トゥールーズ支部において「飛行制御不可能なA300を成功裏に着陸させること」("Landing an A300 Successfully Without Flight Controls")と題した講演をおこなった。

事故調査委員会によると、DHL機は攻撃された後、左主翼の一部が剥がれ落ち、桁は折れる寸前の状態だったという。さらに、そこから漏れる燃料や油によって火災が発生していた。主翼と下部貨物室の深刻なダメージに加えて、地表の岩くずを吸入した2基のジェットエンジンは破滅的にひどい状態であった。OO-DLL機はすでに長年使用されてきたこともあり、登録を抹消され2度と飛行することはなく、いまもバグダードに置かれている[12]

フランス人女性ジャーナリストは『目前にいながらテロリストの行為を制止しなかった』と世界中から批判されたが、彼女は「銃を持ったテロリストに囲まれたら、誰だって恐れて止めることなんかできない」とテレビのインタビューなどでコメントした。

映像化[編集]

脚注[編集]

  • Aviation Week and Space Technology, 8 December 2003
  • Mayday (also known as Air Emergency and Air Crash Inestigation), Season 3, Episode 5: Attack Over Baghdad
  1. ^ 1979年製造。マレーシア航空9M-MHBとして1995年まで使われ、その後カーニバル航空に短期間N225KWとしてリースされた後貨物機に改造され、2000年にDHLに引き渡された。
  2. ^ Elco B. (2006年4月30日). “Special planes: OO-DLL hit above Bagdad”. European Tribune. 2013年7月9日閲覧。
  3. ^ https://web.archive.org/web/20050625095108/http://asasi.org/2004_PPTs/Malinge_Airbus%20Bagdhad_ISASI04_PPT.pdf
  4. ^ a b c Great escape
  5. ^ "Voici le commando qui a touché l'Airbus", Claudine Vernier-Palliez, Paris Match, N° 2845 – 27 Novembre 2003
  6. ^ Tape purports to show missile attack on cargo jet
  7. ^ a b Daniel, Sara. Voyage to a Stricken Land. Arcade Publishing, 2006, ISBN 1559707852, pg. 77
  8. ^ Pilots relive Iraq missile attack
  9. ^ 実際、DHL機のクルーは、コントロールが利かなくなった際、この事件の18年前に起こった「JAL123便事故」を思い出したという。
  10. ^ The Gordon-Burge Memorial Award – THCAP
  11. ^ FSF Professionalism Award in Flight Safety | Flight Safety Foundation
  12. ^ Photos: Airbus A300B4-203(F) Aircraft Pictures | Airliners.net

関連項目[編集]

  • 日本航空123便墜落事故 - 油圧を失い、方向舵が脱落した機体をエンジン出力の操作で制御しようと試みた一例。パイロットたちは羽田空港に戻ろうと最善を尽くしたが、最終的に群馬県の山中に機体が墜落。救助活動の遅れも重なり、520名が亡くなった。
  • ユナイテッド航空232便不時着事故 - 尾翼にあった第2エンジンの故障がきっかけで油圧を失った事故。前述のJAL123便と同様にパイロット達はエンジン出力の操作のみで機体の制御を試みた。スー・ゲートウェイ空港まで辿りつけたものの、着陸直前で姿勢を崩し、機体が横転。112名が犠牲になった。
  • エル・アル航空1862便墜落事故 - 第3エンジンの脱落がきっかけで発生した航空機事故。機体は右主翼の油圧と右エンジンを二基とも失ったため操縦不能に陥り、スキポール空港に辿りつく前に失速し、マンションに激突。搭乗していた4名全員と地上で39名が亡くなった。
  • フィリピン航空434便爆破事件 - 機内爆弾の炸裂によって乗客1名が死亡し、方向舵の操作機能をほぼ失ったため、パイロット達は本事件と同じように左右のエンジン出力を手動で操作。那覇空港まで旋回し、緊急着陸に成功。ただし、このケースの場合では、他の3つと異なり、機体の一部の脱落は起きなかった。

外部リンク[編集]