731部隊

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再建された建物
石井四郎博士

731部隊(しちさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3][4]生物兵器の実戦的使用[5][6]を行っていた。 細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

沿革

軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[7]

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[8]関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[7]

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[7]厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった[9]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[10]

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判戦争犯罪人として訴追された[11]

軍組織における位置

沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。

部隊の活動

本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がペストコレラ性病などの生物兵器びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。近年になり米国の公文書が機密指定解除されて研究されたが、その中からは731部隊で非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[12]

防疫活動

表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章陸軍技術有功章が贈られた。

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点についてシェルダン・ハリスen)などは、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張している[13][14]。しかし、常石敬一は、これらの自作自演説には確かな証拠がなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている[15]。また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している[16]。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも北里柴三郎が出席している[17]

生物兵器開発

731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。

日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。

731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。終戦直後にアメリカ軍が元部隊員に行った尋問の記録とされる「田中淳雄少佐尋問録」によると、1943年に防疫研究の余暇を使ってノミ増殖の研究を命ぜられたものの、大量増殖は不可能であるとの結論になっている。

人体実験

731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする説がある。 人体実験が行われていたとする説によると、被験者とされたのは捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていたという。その人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされるが[18]ハバロフスク裁判では石井四郎中将が無罪とされているため証言の信用性は疑問である[要出典]。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[19]。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという[11]

こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員など関係者の証言である[2][3]。例えば、元731部隊員で中国帰還者連絡会(中帰連)会員の篠塚良雄en:Yoshio Shinozuka)は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことを、2007年にアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[20]。ただし、中帰連関係者などの証言については、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であることから、信憑性を疑問視する見方もある[21]また、篠塚の証言に関しては、731部隊には少年隊は存在しなかったとして疑問視する見解もある。[要出典]

人体実験に関わる部隊の活動や証言を裏付ける文献資料はほとんど確認されていない。近年になり731部隊関係の米国の公文書が機密指定解除されたため調査が行われたが、その中からは非人道的な実験が行われた記録は発見されなかった[12]。ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の石井の行動の克明な記録に加えて、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていたが、その中にも非人道的な活動を明示する内容は無かった[22]。 また、森村誠一『続・悪魔の飽食』などに「731部隊によって生体解剖される中国人の犠牲者」として紹介された写真は、『山東省動乱記念写真帖』(青島新報、1928年)に掲載された済南事件被害者の検死中の写真であり、731部隊とは無関係であった。

わずかに確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている[23]。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯匪賊アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[24][25]もっとも、「特移扱」とされた人物がいたとしても731部隊に移送されたと解釈する根拠はないとの批判がある。[要出典]

また、現存する731部隊の医学的成果を常石敬一が分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法[26]の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[27]この分析に対しては、実際に見つかっている資料の限りでは通常の検体を使ったウイルス特定でしかないとの批判もある。[要出典]

物証としては、石川太刀雄丸が1943年に日本本土に持ち帰った病理標本だけであるが、人体実験の証拠には至らないことが判明している[要出典]

なお、731部隊で人体実験が行われたとの説が一般に広まるきっかけとなった森村誠一『悪魔の飽食』は、「ノンフィクション」と称したフィクション作品である[要出典]同書では行われた人体実験の内容と称して、「注射針で体液を吸い出してミイラにする」、「人間が入るほどの遠心分離器で体液を全て搾り出す」、「真空にほうり込み、内臓が口、肛門、耳、目などからはみ出し破れる」等、現代の最先端科学でも不可能な手法や物理的にありえない現象が数多く登場している。全て匿名証言の形式で記載されており、その内容は事実に反する点が多い[要出典]

生物兵器の実験的使用

生物兵器について、単なる研究だけではなく、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある[28]日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリックen)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする[28]。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がいる[29]。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない[28]。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが[13]、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる[15]

また、ノモンハン事件においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、科学的には加害効果がとうてい期待できないことから、研究者の常石敬一や秦郁彦デモンストレーションにすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[30]

このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある[31]

アメリカ軍 との取引

終戦時に特別列車で日本に帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。

1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカやイギリスなどが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。

同年2月10日に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)内のアメリカ政府の関係者は本国政府に対して「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しアメリカ政府は「アメリカ人の専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。

石井は再度のGHQ内のアメリカ人による尋問に対し、「人体実験の資料はなくなった」と主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年[いつ?]アメリカで公開された資料[要出典]によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。

この様なアメリカ政府との取引が行われた結果、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

日本国への賠償請求

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中華人民共和国の180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[32]

この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、日中戦争を含む第二次世界大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国(この場合は中華民国と中華人民共和国)との間で条約協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

関東軍防疫給水部

組織

  • 関東軍組織図
  • 防疫給水部組織表
  • 関東軍防疫給水部(通称号:満州第691部隊)
    • 関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)
    • 牡丹江支部(通称号:満州第643部隊)
    • 林口支部(通称号:満州第162部隊)
    • 孫呉支部(通称号:満州第673部隊)
    • 海拉爾支部(通称号:満州第543部隊)
    • 大連支部(通称号:満州第319部隊)

関東軍防疫給水部長

  • 1940年8月23日まで関東軍防疫部長
  • 階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。

関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)

第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する。

支部

  • 牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
    • 総務課
    • 経理課
    • 第一課
    • 第二課
    • 第三課
    • 資材課
    • 教育課
  • 林口支部(満州第162部隊)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所文部省百日咳研究会)
    • 総務課
    • 第一課
    • 第二課
    • 資材課
    • 教育課
  • 大連支部(満州第319部隊)
    • 総務部
    • 研究部
    • 製造部

脚注

  1. ^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。
  2. ^ a b 山本真(大分協和病院医師)「森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)の証言1991年9月。
  3. ^ a b ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、1997年7月。ISBN 978-4-331-50590-8
  4. ^ Peace in こうち「『731部隊と高知』証言
  5. ^ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年、561頁。
  6. ^ 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、135-163頁。
  7. ^ a b c 秦(1999)、544-546頁。
  8. ^ 国立公文書館アジア歴史資料センター在満兵備充実に対する意見
  9. ^ “731部隊員は3560人 終戦直前、厚労省が集計”. 共同通信社. 47NEWS. (2003年9月4日). http://www.47news.jp/CN/200309/CN2003090401000414.html 2012年11月25日閲覧。 
  10. ^ 秦(1999)、567頁。
  11. ^ a b 秦(1999)、578-579頁。
  12. ^ a b https://megalodon.jp/2008-0815-0905-55/chronicle.com/free/v53/i20/20a00901.htm Release of Archives Helps Fill Gap in Files on Wartime Atrocities - Research - The Chronicle of Higher Education Jan 19 2007
  13. ^ a b シェルダン・H・ハリスen) 『死の工場―隠蔽された731部隊』 柏書房、1999年。
  14. ^ 解学詩 「新京ペスト謀略・1940年」『戦争と疫病―731部隊のもたらしたもの』 本の友社、1997年。
  15. ^ a b 常石(2005年)、157-158頁。
  16. ^ 常石(2005年)、171頁。
  17. ^ 常石(2005年)、104頁。
  18. ^ 小俣和一郎「検証 人体実験 731部隊・ナチ医学」第三文明社、2003年、p.82。ISBN 4-476-03255-9
  19. ^ 秦(1999)、552頁。
  20. ^ 篠塚良雄「アメリカ・カナダの入国を拒否されて」『中帰連』第7号、1998年12月。
  21. ^ 田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』自由社
  22. ^ 青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9。もっとも、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている。
  23. ^ 秦(1999)、550-551頁。
  24. ^ あいち・平和のための戦争展「[1][2][3]
  25. ^ 中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[4][5]
  26. ^ 「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵
  27. ^ 秦(1999)、552-553頁。
  28. ^ a b c 秦(1999)、561頁。
  29. ^ 秦(1999)、565-566頁。
  30. ^ 秦(1999)、556-558頁。
  31. ^ 秦(1999)、571-576頁。
  32. ^ 731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟

参考文献

書籍

  • 青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7)
  • 軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年
  • 近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7
  • 田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 不二出版、1991年
    • 「731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載
  • 田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2
  • 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9
  • 同上 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3
  • 同上 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269
  • 同上 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4
  • 秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5
  • 森村誠一悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1

その他

関連作品

小説

映画

テレビドラマ

舞台

マンガ

音楽

関連項目

外部リンク