田中吉次

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田中吉次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和3年7月3日1617年8月4日
改名 小十郎、吉次
官位 従五位下民部少輔
主君 豊臣秀吉秀次
筑後国
氏族 田中氏
父母 田中吉政、国友与左衛門女
兄弟 吉次吉信吉興康政)、忠政
中原師廉
吉勝民部
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田中 吉次(たなか よしつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将官位従五位下民部少輔

生涯

田中吉政の長男として誕生。父・吉政同様、豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍した。のち父・吉政が近江八幡城主となった秀吉の甥・豊臣秀次の老臣筆頭に任ぜられると共にこれに仕え、一字を拝領して吉次と名乗る。奥州仕置においては本願寺坊官下間頼廉らと共に奥州一揆の中核をなす浄土真宗寺院と緊密に連絡を取り、奥州の争乱が畿内に波及しないよう努めた。父・吉政が岡崎城主の頃、西尾城を治めたという話もある。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方に参陣し、父・吉政は功績によって筑後国主となる。翌慶長6年(1601年)、家康より入国のための暇をもらうと、まず吉次が吉政の入国に先んじて柳川に向かった。3月18日付けの大久保忠隣からの吉次宛返書が残っている。芳次、博多の酒などを秀忠とその側近の忠隣に送ったらしく、それに対する礼状である。後に父と不和になり、柳川より逐電したため廃嫡された。

元和3年(1617年)、京都にて病死した。家督は四弟・忠政が継いだ。

子孫

吉次の長男は吉勝民部、孫の田中政信は、江戸幕府将軍徳川秀忠に召し出され、210俵の旗本として存続した。忠政の跡継ぎがなかったことを受けて、忠政の母、側室の妙寿院が、元和6年(1620年)に出した手紙の中で、孫が2人いると書いているが、その一人が吉次の孫という可能性がある。

民部少輔吉次(長顕)の孫に、田中寿庵宗顕がいる。そして寿庵の孫の宗得は田中一閑と号した。一閑は信濃高遠藩に仕え、その後は加賀前田綱紀に仕えた。