琵琶湖
琵琶湖 | |
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衛星写真 | |
所在地 | 日本 滋賀県 |
位置 | |
面積 | 669.26[1] km2 |
周囲長 | 235.20[1] km |
最大水深 | 103.58[1] m |
平均水深 | 41.2[1] m |
貯水量 | 27.5[1] km3 |
水面の標高 | 84.371[2] m |
成因 | 構造湖 |
淡水・汽水 | 淡水 |
湖沼型 | 中栄養湖 |
透明度 | 2.2(南湖)5.5(北湖)[3] m |
プロジェクト 地形 |
琵琶湖(びわこ)は、滋賀県にある日本最大の面積と貯水量を持つ湖。一級水系「淀川水系」に属する一級河川で、河川法上の名称は「一級河川琵琶湖」[要出典]。国土交通大臣から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼で、ラムサール条約登録湿地でもある。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。
約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。
地理
琵琶湖の面積は669.26平方キロメートルで、滋賀県の面積の6分の1を占め、日本最大である[1]。貯水量は275億トンで、こちらも日本一である[4][注 1]。湖底が最も深い水域は竹生島と安曇川河口の間にあり、2005年には104.1メートルの最大水深が計測された[2][5][6]。
最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側の主湖盆を北湖(太湖)、南側の副湖盆を南湖と呼ぶ[7][8][9]。面積58平方キロメートル・平均水深4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99パーセントは北湖に蓄えられている[10][8]。一方、湖底地形から見ると、北湖盆、中湖盆、南湖盆に分けられ、北湖盆と中湖盆の境界は沖島北方付近で、鞍状の湖底地形が存在している[11][要ページ番号]。
東京湾平均海面 (T.P.) 基準でプラス84.371メートル、大阪湾最低潮位 (O.P.) 基準でプラス85.614メートルの高さが琵琶湖基準水位 (Biwako Surface Level、B.S.L.) と定められている[2][12]。B.S.L.は、1874年に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断して定められたものと推測されているが、その後、後述するように瀬田川が改修されたため、さらに水位を下げることが可能となり、2000年ごろまでには満水位を意味するようになった[12][13][14]。
湖岸
琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため後述するように生物も多様である。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた平野系湖岸である[15]。また、底質と植生から次の3つに分類することができる[16]。
湖岸域には陸上生物圏と水中生物圏をなだらかに繋ぐ推移帯[注 2]が広がり、生物多様性への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた[20][21]。しかし第二次世界大戦後、大規模な護岸工事などにより人工湖岸が増え[注 3]、推移帯としての面積は大幅に減少した[21][22][23]。
河川
琵琶湖には117本の一級河川を含む400以上の流入河川があり、周囲の山地からの流れを源流とする[24][25]。主な流入河川としては、湖南・湖東では野洲川・日野川・愛知川などが、湖北では姉川・高時川・余呉川などが挙げられる。湖西には大きな河川は安曇川しかなく、ほかは比良山地からの小河川である。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・出水のしやすさ・渇水の多さを特徴とする[26]。中世後期以降、一部の河川は天井川化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、河口域では三角州が発達したり逆に陸地が後退するなどしている[27]。
流出河川は瀬田川のみであり、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る[26][28]。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の治水・利水のために瀬田川洗堰が設けられている[26]。琵琶湖からの流出経路は、これに琵琶湖疏水(第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である[29][30]。琵琶湖の治水・利水・交通などにおける淀川や琵琶湖疏水との関係については、後述する。
内湖
昭和初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の内湖があった[31]。これらの内湖は、繁茂するヨシなどにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた[32]。また内湖は、今津や堅田といった津の発展において船溜まりとしての役割を果たしたほか、安土城や大溝城の立地にも影響を与えた[21]。
しかし、琵琶湖の洪水防御のため1943年から始まった河水統制事業により[33][出典無効]、事業が終了する1952年までに平均水位が数十センチメートル低下したことや、これに前後して内湖の大半が干拓されたこともあって琵琶湖の自然は大きく変化し、固有の風致や生態系が大きく損なわれた[要出典](「入江干拓」および「大中湖」も参照)。2013年現在残されているのは、近江八幡市の西の湖をはじめとする総面積4.25平方キロメートルの23内湖のみである[31]。
2003年現在、滋賀県は一部の内湖を復元することを計画しており[34]、生態系の回復や水質浄化が各方面から期待されている[35]。
湖面の島
琵琶湖には沖島・竹生島・多景島の3島[注 4]がある。沖島は近江八幡市の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である。竹生島は長浜市の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートルの島、多景島は彦根市の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートルの島である。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は西国三十三所や琵琶湖八景に含まれている。また、多景島から西に4キロメートルの地点には沖の白石がある[36]。この他、草津市には、1978年ごろに着工された人工島の矢橋帰帆島がある[37]。
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竹生島
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沖島
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多景島
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沖の白石
行政上の扱い
琵琶湖の河川法上の扱いは、一級河川(淀川の本川)である。通常の国土交通大臣が管理する一級河川とは異なり、滋賀県知事に管理が委託されている[38][注 5]。
琵琶湖が所属する市は次のとおりである(北から時計回り)。各市名の右に、市ごとの琵琶湖の面積(単位:平方キロメートル)を示す[39]。
琵琶湖の市町境界については、かつて、どの市町にも組み入れられていなかった。2007年5月8日、沿岸の各自治体による共同会議において境界の設定に合意し、各自治体の議会の同意を得た上で総務省に届け出を行い、9月28日付で『官報』に確定が公示された[40][41][42]。境界確定の目的は主に地方交付税交付金の増額である。また、増額された交付金の半分は琵琶湖の保全に使われることが発表されている[43]。
歴史
自然史
琵琶湖は世界有数の古代湖[注 6]であり、その成立はおよそ440万年前[注 7]まで遡る。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、古琵琶湖層群と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層における各累層の泥・砂・礫の構成比率の違いにより示されている[47]。
440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市である。まず、地盤の断層運動によりできた浅い窪地に水が溜まり、40 - 50万年ほどかけて浅くて狭い湖となった(断層湖)。この湖は、旧大山田村付近にあったことから、大山田湖と呼ばれる[48][45]。300万年ほど前になると、この湖は阿山地方にまで北上した。この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方(滋賀)に位置する北部の沈下により狭くて深い湖となった(阿山湖、甲賀湖)[49][50]。260万年ほど前にはさらに北上し、水口地域・日野地域・多賀地域にまで広がっていった[51][50]。この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖などが多数集まった沼沢地群になり、その後さらに河川とその周囲の湿地といった環境になるなど、不安定な水域であった[49][50]。
大山田湖以前の現在の琵琶湖の位置には、古琵琶湖山脈と呼ばれる山があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で、東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく、東方へ流れていたという[要出典]。100万年ほど前になると、現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成された。その後、琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、北湖の地域にまで湖は広がり、以降北進することなく現在にまで至っている[49][50][注 8]。
人間史・環境史
近世以前
琵琶湖には90を超える湖底遺跡があり、縄文時代後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる[54][55][56][注 9]。一方、近世以前の琵琶湖についての史料は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である[58]。
- 先史時代
- 琵琶湖が現在の形に定まったのは、旧石器時代末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの石器が発見されているが、詳細は不明である[59]。縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える[60]。また後述するように、縄文後期には丸木舟が使用されていたことも判明している[61][62]。弥生前期の湖底遺跡からは、土器・木器・石器・炭化米などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測できる[63]。
- 古代
- 奈良時代には、後述するように、僧侶行基が琵琶湖の洪水を軽減することを目的とし、瀬田川沿いの大日山の掘削を試みている[64]。また、湖底遺跡は、平安時代末期を存続の終期とするものが多い[55]。
- 中世
- 中世の文書や絵図に記された耕地の一部は、後に琵琶湖や内湖に水没している[65]。後述する津の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により内湖が失われた木津(こづ、新旭町[66])に代わって、今津が発展するようになったことが挙げられる[67]。また横江遺跡(守山市)などにおいては、鎌倉時代ごろの堀で囲まれた集落が確認されている[68]。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており[69]、水野 (2011, p. 10) は、琵琶湖の水位上昇に対応しての洪水対策という役割の可能性についても言及している。
- 近世
- 織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた[61]。江戸時代の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり[70]、後述するように、琵琶湖の治水などを目的とした瀬田川の浚渫が計5回行われている[64]。1805年(文化2年8月 – 10月)には、伊能忠敬が沿岸を測量した[71]。
近現代
琵琶湖の面積[注 10]は1890年代の推定688平方キロメートルから、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、南郷洗堰の築造に関連する水位の低下のほか、干拓・埋め立て・湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる[72]。
以下詳細は各節に譲り、主な出来事を年表形式で記す。
- 1890年(明治23年)- 京都市へ水を供給する琵琶湖疏水が開通[8]。
- 1896年(明治29年)- 河川法が制定され、以降琵琶湖とその流入河川は行政の管理下に置かれる[73]。
- 1900年から1908年(明治33年から41年)- 南郷洗堰の築造を含む瀬田川の大規模な改修工事がおこなわれ、以降琵琶湖の水害は減る[73]。
- 1950年(昭和25年)7月24日 - 琵琶湖国定公園が指定される[74][75]。
- 1964年(昭和39年)9月 - 琵琶湖大橋が開通[74]。
- 1972年(昭和47年)- 琵琶湖総合開発特別措置法の制定に伴い琵琶湖総合開発事業が策定される[76]。
- 1974年(昭和49年)9月 - 近江大橋が開通。
- 1979年(昭和55年)10月 - 琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が公布される[74]。
- 1985年(昭和60年)12月 - 湖沼法における指定湖沼に指定される[74]。
- 1993年(平成5年) - ラムサール条約登録湿地に認定される[77]。
- 2000年(平成12年)3月 – 「マザーレイク21計画」が策定される[78]。
湖水
前述のとおり、琵琶湖の貯水量は275億トンであり、平均水位は84.371メートルがB.L.P.として定められている。
- 集水域・水循環
- 琵琶湖の集水域(流域)の98パーセントは滋賀県であり、また滋賀県の90パーセントが琵琶湖の集水域である[79][注 11]。2015年を対象とした推定によると、流入河川より39.3億トン・地下水より7.4億トン・湖面への直接降水より12.2億トンの計58.9億トンが琵琶湖に流入、湖面での蒸発により4.0億トン・瀬田川より48.4億トン・琵琶湖疏水より4.9億トンが琵琶湖から流出しており、滞留時間は4.7年である[80]。
- 透明度
- 透明度は、2018年の調査によると北湖で5.5メートル、南湖で2.2メートルであり[3]、気象条件によっては16メートルを超える透明度を観測することもある[81][注 12]。
水理
琵琶湖の水流は、流出部がいずれも南にあるため、基本的に北から南に向かうが、下記の環流や静振・密度流などにより、北向きの流れ[注 13]も頻繁に発生する[82]。
- 環流
- 琵琶湖の環流は1925年の神戸海洋気象台の観測により発見され[83][84]、1960年代から1995年ごろにかけて精力的な研究が行われた[85]。北湖には北から第1環流(反時計回り)、第2環流(時計回り)、第3環流(反時計回り)の3つの環流があり[86][注 14]、常に3つあるとは限らないが[87]、第1環流は水温成層期(春 - 秋)の長期間存在する準定常流である[83][注 15]。流速は第1環流では8月から9月ごろに最大30 - 40センチメートル毎秒に達する[88][89]。環流は南北に移動しており、このことは生態系や漁業にも影響を与えていると考えられる[88]。また、環流は水質の分布にも影響を与えており、沿岸帯と沖帯に区分されることになる[90]。琵琶湖の環流は地衡流としての性格が強く、発生機構については2018年現在、風成論と熱成論の2つの説がある[83][91][92]。
- 静振
- 湖水面に生じる表面静振には、周期の異なる3 - 7種類[注 16]がある[94]。水温水層の内部境界面に生じる内部静振は、表面静振に比してきわめて大きな振幅をもち、周期は一例においては63時間である。なお、内部静振が水位に与える影響はほとんどない[95]。
- 密度流
- 台風などの強風時には、内部静振による北湖底層から南湖への密度流が生起するが、大半は北湖に還流するため、南北湖間の交換流としての影響は少ない[82]。秋から冬にかけては、南湖の湖面冷却[注 17]により、南湖の水が北湖の底層部に潜り込む冬期密度流が発生する。冬期密度流は、発生後数日間持続し、北湖から南湖に還流することはない[96]。
- 全層循環
- 琵琶湖では例年1 - 2月に、湖水が鉛直方向に混合し、水温と溶存酸素量が表水層から深水層まで一様になる全層循環(全循環)という物理現象が起こる[97][98][注 18]。湖底に棲息する固有種に酵素を供給する働きをもち、「琵琶湖の深呼吸」とも呼ばれる[98]。地球温暖化にともなう暖冬により、2006年と2015年の全層循環は3月中旬まで遅れ、2019年と2020年には2年連続[注 19]で確認されなかった[97][98]。このような全層循環の弱体化により深水層の酵素が減少し、湖底動物の大量斃死につながることが懸念されている[99]。
関連する自然現象
- 津波
- 滋賀県によると、西岸湖底断層系[注 20]南部では最大でマグニチュード7.6の地震が発生し、その場合、4.9メートルの津波が沖島に到達する。また、同断層系北部では最大でマグニチュード7.2の地震が発生し、その場合、長浜市沿岸に3メートルの津波が到達すると予測される。ただし、「西岸湖底断層系南部は活断層だが、300年以内に地震が起こる確率はほぼ0%。他の4断層はいずれも活断層ではなく、津波を伴う地震が発生する恐れは極めて小さい」としている[101]。また、1185年7月9日に、実際に津波が発生した可能性がある。塩津港遺跡で発掘調査が行われた際、湖底で神社が発見され、その神社から津波と見られる痕跡が見つかった(柱が全て琵琶湖の岸に傾いていた)。また、『山槐記』には「琵琶湖の水は北に流れた」、鴨長明は「山は崩れて川を埋め、海(琵琶湖)は傾いて陸地を浸せり」と書いている[102][要文献特定詳細情報]。
- 蜃気楼
- 条件が合致すれば初夏には上位蜃気楼が、秋冬には下位蜃気楼が観測できることがある[103][104][105]。
- おろし
- 比良山地から琵琶湖に向かって吹く風は比良おろしと呼ばれ、琵琶湖の沈降と比良山地の隆起により生じた急峻な地形をその要因の一つとする[106]。また高島市勝野では、比良おろしにともなう局地風と考えられる勝野おろしが恐れられている[107]。これらのおろしは、後述するように事故の原因となることも多い。
- 湖陸風
- 琵琶湖畔では、陸面に比べ湖面の比熱が大きいことを要因とした風が発生する。昼間は日照により陸面の気温が上昇し気圧が低くなるため、琵琶湖から陸地に向かって「湖風」が吹く。逆に夜間は陸面のほうが先に冷え気圧が高まるため、陸地から琵琶湖に向かって「陸風」が吹く[108]。
生物相
琵琶湖は生物多様性に富み、1,000種類を超える動・植物が生息している。その中には琵琶湖(およびその水系)にのみ生息する固有種も数多く確認されている。魚類57種、貝類49種の生息が確認されており、長い期間自立したため琵琶湖固有種も多い(魚類はビワコオオナマズ、ニゴロブナ、ホンモロコ、ビワヒガイなど16種、貝類は29種)[109]。この内ビワマスやアユなどは川を、コイ・フナ・ドジョウなどは水田を産卵場所として利用することが多いなど、琵琶湖に生息する魚類は周辺の水域との間を移動し、環境の違いをうまく利用している[110]。
オオクチバスやブルーギルをはじめとする外来種の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖の消失、水田とのネットワークの分断等によって固有の生物相が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない。また、琵琶湖産の稚アユは日本各地へ放流され、その為に琵琶湖固有種だけでなく稚アユと共に混獲され放流されたハスなどの種が各地で繁殖するという、移入種を生み出す元ともなっている。
琵琶湖(内湖を含む)とその湖岸、流入河川の河口に生息する鳥類は、渡り鳥なども含めると140種類ほどになる。カモ科が31種と最も多く、シギ科・サギ科・カモメ科がそれに続く[111]。
- 節足動物
- ビワミジンコ、アナンデールヨコエビ、ナリタヨコエビ、ビワカマカ、カワムラナベブタムシ
- 軟体動物
- ビワコミズシタダミ(ミズシタダミ科)、セタシジミ(シジミ科)、ビワカワニナ類(カワニナ科ビワカワニナ属)、オウミガイ(モノアラガイ科)、カドヒラマキガイ(ヒラマキガイ科)、ヒロクチヒラマキガイ(ヒラマキガイ科)、オトコタテボシガイ、イケチョウガイ、マルドブガイ
- 固有亜種
- タテボシガイ(イシガイ科)
人間との関わり
呼称
古代
琵琶湖は元々、近淡海[注 21]・淡海・淡海の海(あふみのうみ)・水海(すいかい)・近江の海・細波(さざなみ)・鳰の海(にほのうみ)などと呼ばれていた[113][114]。
『古事記』においては、その伊邪那岐の大神は、淡海の多賀に坐すなり
(上巻)や東の方追ひ廻りて近淡海国に到り
(中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している[115][注 22]。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の
淡海の海 瀬田の済に潜く鳥 目にし見えねば 憤りしも
という歌謡をはじめとし、淡海の海・淡海の表記が多数見られ、近淡海の用字はほとんど見られない[118]。同書における近江の表記は、天智天皇5年[注 24]に是の冬に宮都の鼠、近江に向きて移る
とあるなど、奈良時代の近江遷都以降に顕著に現れる[118]。その後の『続日本紀』の717年(養老元年)の条には行至近江国 観望淡海
とあり、近江を国名、淡海を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される[120]。
また同時期の藤原武智麻呂の伝記には、近江は宇宙の名地[……]水海清くして広し
との記述があり、これが琵琶湖を水海と表記したものの初出である[121]。さざなみの用字については、713年(和銅6年)の『近江風土記』逸文を引いた
近江の国の風土記引きて言わく、淡海の国は淡海を以ちて国の号と為す。故に一名を細波国と言ふ。目の前に湖上の漣なみを向ひ観るが所以なり。
との文がある[122]。鳰の海については、下って平安時代の『源氏物語』は「早蕨」の巻の
しなてる鳰の海に漕ぐ舟の 夏帆ならぬとも逢い見し物を
や『千載和歌集』の
我がそでの涙や鳰の海ならん かりにも人をみるめなければ
また『古今和歌集』の
鳰の海や月の光のうつろえば 波の花にも秋はみえけり—藤原家隆
などがある。琵琶湖を代表する鳥である鳰(カイツブリ)は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年(昭和40年)には滋賀県の県の鳥にも指定されている[124]。
中世から近世
琵琶湖という呼称のもっとも古い用例は、木村 (2001, pp. 157–158) によると、室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟の漢詩集『翰林葫盧集』の中の七言絶句「湖上八景」における
である。なお、琵琶湖を琵琶の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺の僧侶光宗が1311年から1347年(応長元年から貞和3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に
との記述がある[127]。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代の儒学者伊藤仁斎による1645年(正保2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない[128]。その後、同じく儒学者の貝原益軒が1689年(元禄2年)に若狭・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある[129]。
この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである[130]。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、
湖水を琵琶湖と名ずく[ママ]ハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖と名づく、因みて神を妙音天女と名く
とある[131]。元禄年間から享保年間にかけては他にも、松尾芭蕉による俳諧文や朝鮮通信使の申維翰による『海游録』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる[132]。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる[133]。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある[134]。
近現代
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滋賀県シンボルマーク「Mother Lake」 |
明治年間には、琵琶湖汽船や琵琶湖新聞・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・琵琶湖疏水など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える[135]。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから[注 26]、ひらがな書きにしたびわ湖やびわこなどの表記も見られる[136][注 27]。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。
- Mother Lake
- 滋賀県は、2000年にマザーレイク21計画を策定するなど、琵琶湖をMother Lake(母なる湖)と呼んでおり、
母なる湖・琵琶湖。預かっているのは、滋賀県です
の文言を県の封筒に記載している[78][137]。
- 近畿の水瓶
- 琵琶湖は上述のように滋賀・京都・大阪に水を供給していることから「近畿の水瓶」などと呼ばれることもある。しかし滋賀県側は、1995年は稲葉稔知事が「水瓶」との表現に抗議する答弁をおこなうなど、琵琶湖を「水瓶」と呼ぶ表現を避けている[138]。これは、滋賀県民にとって自県の象徴的存在である琵琶湖を、いわばたんなる貯水用ダムの一種として扱われては県民感情を大きく損なうとの理由によるものである[139]。
交通
近世以前
琵琶湖周辺では、縄文後期の丸木舟(鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル)が発見されており[注 28]、先史時代から湖上交通がおこなわれていたことがわかる[61][140]。弥生中期後半には丸木舟は準構造船に発展し[注 29]、古代には湖北と都を結ぶ航路が築かれていた。大中の湖南遺跡(安土町下富浦)からは飛鳥時代から奈良時代の港湾施設の遺構が発見されている[141]。また、奈良時代の東大寺の建立のための木材の輸送などにも湖上交通が利用されていた[142][61]。その後、平安時代に都が長岡京から平安京に遷都されると、北国・東国と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる[143]。『延喜式』巻二六主税には北陸六箇国の税は塩津や勝野(高島市大溝)から湖上路を大津に運ぶとの規定があり、東海よりの物資も中山道を経て朝妻(米原市)から同様に大津に運ばれた[144][145]。
湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述の風や波による遭難のリスクもあった[146]。このことから、
武士(もののふ)の矢橋の船は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋
という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」が諺として広まった[146][注 31]。次の歌からは舟旅への恐れが窺える[148]。
わが船は比良の湊に漕ぎ泊(は)てむ 沖へな離(さか)りさ夜更けにけり
平安時代の湖上交通は南北ルートが中心であったが、中世以降は堅田などを拠点とする東西ルートも発展していった[149][注 32]。また前述のように、港(津)の発展には内湖が関わっており、内湖を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している[67]。中世には荘園領主により港が管理されるようになり、年貢などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる[150][61]。1336年(建武3年)には足利尊氏を追った義良親王・北畠顕家が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、軍事的にも利用されるようになっていく[151][61]。
とくに織田信長は港を重視し、1573年(天正元年)に船長約54メートルの船で坂本から京都に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した[152]。豊臣秀吉は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された[要出典]。近世には、物資輸送・地場産業が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。このころには、日本海などの弁財船よりも幅が狭い丸子船(丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船が使われていた[153]。江戸時代には松原・米原・長浜が「彦根三湊」として井伊氏の保護を受けた[要出典]。江戸時代中期の享保年間には、5,740艘もの船が琵琶湖を行き来していたという[154]。
近現代
江戸時代半ば以降は、西廻海運の発展に伴い琵琶湖の湖上交通は一旦衰退していったが、近代に入り1869年(明治2年)の蒸気船一番丸(木造外輪船)の就航から1889年(明治22年)の東海道線全線開通および1931年(大正15年)の若桜鉄道の今津までの開通にかけては、ふたたび湖上交通が大量輸送を担った[61][155]。以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた[61]。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船・田船など少なくとも1万1,100艘[注 33]の船が存在していた[156]。
高度経済成長期には琵琶湖から運河を掘削して日本海と太平洋・瀬戸内海を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ「阪敦運河」構想を福井県知事の北栄造が調整し始めた。特に三重県四日市市長の平田佐矩が熱心だったこともあり、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県および名古屋市・敦賀市・四日市市の間で、総工費2500億円-3500億円をかけ若狭湾-琵琶湖-伊勢湾を結ぶ中部横断運河の建設期成同盟が結成され、自民党副総裁の大野伴睦が会長に就任した。しかし、大野や平田が相次いで死去したことや、北および敦賀市長の畑守が相次いで落選するなど推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した[157][要ページ番号]。
主な港
- 現代
-
- 長浜市
- 大津市
- その他
水害と治水
琵琶湖の湖岸域では、河川の氾濫のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた[161][162]。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年(大宝元年)以降多く残されている[163]。
琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、奈良時代の僧侶行基による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の掘削の試みにまで遡ることができる[162]。その後江戸時代には、幕府の普請が2回と自普請が3回、計5回の浚渫工事がおこなわれており、とくに1699年(元禄12年)の「河村瑞賢の大普請」と、高島郡深溝村の庄屋藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年(天保2年)の普請が大規模なものであった[164][165]。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、あさり取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている[164]。
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明治二十九年大洪水浸水区域之図 |
近代に入ってからは1890年(明治23年)以降、滋賀県内の有志が結成による琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事大越亨が、繰り返し淀川の浚渫を陳情している[166]。1885年(明治18年)の淀川洪水で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した[73][167]。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また南郷洗堰が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった[73][168]。これらの工事以前には、1896年(明治29年)に琵琶湖のプラス3.76メートルにまで上昇したことにより、琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水する[注 35]など、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた[170]。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に瀬田川洗堰が築造されている[169][24]。
水利用
滋賀での利用
滋賀県の農村地域においては、江戸時代以降「ホリ」と呼ばれる水路と「蛇車(じゃぐるま)」と呼ばれる足踏み式の水車などの揚水機を用いて沿岸部の水田に水を引くようになった[171]。しかし、田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、昭和中頃まで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や井戸の水を利用してきた。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく、甲良町などでは農業用水の確保に問題を抱える地域も多かった[172]。その後昭和30年代ごろに上水道の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる[173]。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている[174][175]。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、パイプラインで農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した[174]。牧野厚史 (2001, pp. 205–206) は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と水循環の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、八幡堀の保存活動などは、たんなる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。
淀川下流域での利用
京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた1912年(明治45年)のことである[176]。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している[8]。琵琶湖疏水の建設は東京遷都によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で京都府知事の北垣国道が先導した[177][178]。当時、京都では鴨川に源流を持つ京都盆地の水系を賀茂別雷神社(上賀茂神社)が支配し、御所の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた[179]。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった[180]。琵琶湖疏水を介して毎秒24立方メートル(2017年時点)[181]を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ)[182]を琵琶湖に頼る京都市は、1914年(大正3年)以来京都市民の感謝の意をとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている[183][184]。契約は10年ごとに更新され、2015年(平成27年)の更新では三日月知事と水田雅博京都市公営企業管理者上下水道局長とで年間2億3千万円の契約を締結した(1千万円増額)[184][185]。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている[185][186]。
大阪では1895年(明治28年)に淀川を水源とする本格給水が始まった[176]。戦後の高度経済成長期に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった[187][76]。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。琵琶湖総合開発事業を策定した[76]。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し内閣総理大臣がこれを決定する形がとられた[188]。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した[189]。規則では、洪水時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち渇水に備えることを基本とし[189]、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている[187]。また、増大する水の需要に1991年(平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる水利権)で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた[190][191]。水利権の拡大によって、例えば1994年(平成6年)夏の全国的な渇水によって阪神地区が大きな影響を受けることはなかった[190]。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある[187]。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった[192]。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった[188][191][193]。
琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「琵琶湖の水止めたろか」というジョークがしばしば用いられる[194][169]。野田 (2001, p. 232) は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。
漁業と食文化
前述のとおり、琵琶湖には多様な魚介類が生息しており、漁場の環境も岩場・砂浜・内湖・沖合と多様であり、また淡水であるため魚が湖と河川を行き来することも要因とし、漁法もまた多様かつ独特のものとなっている[195][196][197]。その中でもとくに「待ち(型)の漁法」の発達と新規漁具の制限が特徴として挙げられる[198][195]。これは、積極的・新進的な漁法を用いることによる資源の枯渇を避けるための、閉鎖水域である琵琶湖ならではの知恵である[196][198]。
琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる[199]。前述したように、縄文時代の遺跡からは、貝殻や魚の骨などが発見されており、タンパク源に占める琵琶湖産の魚介類の比率は哺乳類よりも高かったと考えられている[59][200]。稲作が開始された弥生時代には、魚類が水田を産卵場所として利用するようになったこともあり、魞(エリ)や筌といった小型陥穽漁具による待ちの漁法が発達し、タンパク源に占める魚介類の比率はさらに高まった[201][202]。
その後中世ごろには網漁が発達しており、従来河川や内湖で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の13世紀ごろであると考えられる[203]。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった[73]。このころまでに漁撈をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある[202]。一方13世紀は、仏教思想が庶民の間にも広まり殺生を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている[204]。
近世の17世紀ごろには、淡水魚である鯉から海水魚である鯛に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀から19世紀にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる[205]。このことから橋本 (2001, p. 250) は、現代の20世紀末にキャッチ・アンド・リリースを原則とした食慾には基づかない「漁撈」が主流となるまでは、漁撈の基本的な枠組みは17世紀ごろから変化しなかったのではないかと推察している。なお2001年ごろの琵琶湖の漁獲量は、1967年の3分の1程度にまで減少しており、魚種の構成も大きく変化している[206] 。
固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている。淡水魚の生食を忌避する日本においては珍しく、ビワマス・イワトコナマズ・ニゴロブナやゲンゴロウブナ・ハスなどは造りとしても食される[207]。このほか「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼き・寄せ鍋や焼き物、佃煮などとしても食される[208]。また、滋賀県では発酵食品が発展しており、鮒寿司をはじめとするなれずしも作られる[209][210]。滋賀県には、海産物を扱う鮮魚店とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮やなれずしといった加工品や鴨なども扱われている[211]。
景勝・観光地として
飛鳥時代の近江遷都以降、後述のように近江を舞台とした歌が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる[212]。近江八景[注 36]は、当初は文学的モチーフであったが、江戸時代中頃には街道を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『名所図会』といった挿絵入りの旅行案内書や浮世絵などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった[213][214]。
本格的な湖上遊覧は、1903年(明治36年)の「近江八景めぐり遊覧船」の就航に始まる。以降季節ごとの観光客誘致が展開され、昭和に入ると琵琶湖ホテルの建設や湖水浴場の整備も進められた[215]。第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)には、翌年の琵琶湖国定公園の指定に先駆け、滋賀県民からの公募によって「琵琶湖八景」が選ばれている[215][75]。1968年(昭和43年)のびわこ大博覧会以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、びわこ国体で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる。1982年(昭和57年)には外輪船ミシガンが就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、バブル経済の崩壊により計画は進まなかった。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた新しい観光スタイルが模索されている[215]。
作品の題材として
和歌
前述のとおり、記紀にはいくつか琵琶湖を題材とした歌謡が含まれている。その後の『万葉集』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、近江国を舞台とする歌は近江遷都以降のものが多い[216]。同歌集には柿本人麿の
淡海の海 夕浪千鳥汝が鳴けば 情(こころ)もしのに[注 37]いにしへ思ほゆ
など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた歌が14首ある[218][114][注 38]。また、湖や志賀にかかる枕詞「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による
さざなみの志賀の大曲[注 39]淀むとも 昔の人にまた逢わめやも
さざなみの志賀の唐崎幸くあれど 大宮人の舟待ちかねつ
という歌がとくに著名である[219]。飛鳥時代の湖上の賑わいを示す歌としては、
近江の海は港は八十[注 40]ちいづくにか 君が舟泊(は)て草結びけむ
が挙げられる。一方、都落ち間近に平忠度が詠んだ
さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながら[注 41]の山ざくらかな
は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには渺々とした琵琶湖の風景
が表れている[122][222]。平安時代の人の往来を示す歌としては、996年(長徳2年)に父藤原為時の越前武生への赴任に同行した紫式部が高島町三尾崎で詠んだ
三尾の海に網引く民の手間[注 42]もなく立ち居につけて都こひしも—紫式部集
が挙げられる[223]。
その他文学
菅原孝標女による『更級日記』や鎌倉時代の阿仏尼による『十六夜日記』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては竹生島信仰が、『平家物語』や謡曲『竹生島』などの作品で取り上げられている[225][226]。戦乱の世になると、謡曲『自然居士』や室町時代の小唄を集めた『閑吟集』において琵琶湖の人買舟や密猟といった荒々しい様相
が描写されるようになるが、一方軍記物においては『義経記』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない[227][222]。江戸時代については、松尾芭蕉による
四方より花吹き入れて鳰の海
などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの俳句と『幻住庵記』、そして上田秋成による夢物語「夢応の鯉魚」(『雨月物語』)が傑作として挙げられる[228][229]。
近現代に琵琶湖に関連する小説としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地)[230]。
室町時代を描いた谷崎潤一郎の『盲目物語』は、湖上の描写は少ないものの、作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており
[231]、秦恒平『みごもりの湖』では藤原仲麻呂の乱の、成澤邦正の『琵琶湖の浮城』では室町末期水茎の岡の湖上の戦が描かれている[227]。琵琶湖の汚染や自然破壊を扱った作品としては、早くは1919年(大正8年)の近松秋江『湖光島影』があり、第二次世界大戦後の高度経済成長期には西口克己『びわ湖』が発表されている[232]。また、中上健次『日輪の翼』や平成の小林恭二『カブキの日』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は堅田)を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、松村 (2001, p. 268) は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。
美術・音楽・映画
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源氏物語絵巻: 関屋(現状模写) | |
近江名所図(室町時代、狩野派) | |
近江名所図(17世紀前半) | |
堅田図旧襖絵[注 43] |
- 美術
- 琵琶湖が描かれた現存最古の絵画は、おそらく『源氏物語絵巻』の「関屋」の段である[233]。高梨 (2001, pp. 269–270) は、これ以前の『一遍聖絵』や鶏足寺の十二神将像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。室町時代後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の狩野派による屏風絵[注 44]、同じく室町時代の大徳寺瑞峯院の『堅田図旧襖絵』[注 45]、17世紀前半(江戸時代)の屏風絵[注 46]などが挙げられる[235][234][237]。17世紀後半以降には、近江八景をモチーフとした絵画(歌川広重によるものが有名)や着物の蒔絵・陶磁器の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている。近代以降は、多くの洋画家・日本画家が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、今村紫紅や下保昭などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている[238]。
- 音楽
- 1917年(大正6年)に作られた「琵琶湖周航の歌」は、滋賀県民に広く愛唱されている[239]。そのほか、後述の琵琶湖遭難事故を歌った「琵琶湖哀歌」がある[107]。
- 映画
- 琵琶湖を舞台とした映画としては、幻の湖[注 47]、偉大なる、しゅららぼん[注 48]、マザーレイクなどが挙げられる。
環境保全
昭和40年代、高度経済成長に伴って湖水の水質汚濁や富栄養化が進んだ[240]。原因の1つに合成洗剤、リン酸塩が挙げられ[241]、主婦層や女性団体が「石鹸運動」を起こして対策・改善を求めた[242]。このため滋賀県は独自に工業排水と家庭用排水を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った[243][244][245]。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、「滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」や「滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例」、景観を守るための「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例」などがある。
1990年から1991年にかけ琵琶湖総合開発事業の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市唐崎沖1.5km)と北湖湖心局(大津市南比良沖4km及び高島市今津沖3.5km)の3基が設置され、pH値、溶存酸素量、水温、流速などのデータが自動送信されていた[246]。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった[246]。
また、琵琶湖の北方に位置する福井県若狭湾岸には、敦賀原発・美浜原発など多数の原発が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、原発事故で放射能汚染されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている[247]。
事件や事故
滋賀県内の水難事故の3分の1が大津市消防局管内で発生している。大津市消防局が平成27年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9%であり全国平均の4.4%の2倍以上となっている[248]。前述したおろしなどの風は、漁船やウィンドサーフィンの事故の原因となることも多く、1941年には琵琶湖遭難事故が発生している[106][注 49]。
このほか、太平洋戦争の終戦間際に零式艦上戦闘機(零戦)六二型が琵琶湖に不時着している[250]。昭和53年、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ京都嵐山美術館が修復、その後は和歌山県「ゼロパーク」、広島県「大和ミュージアム」と引き渡され、展示された[251]。
その他
- 日本遺産
- 2015年には、「水とくらしの文化」「水と祈りの文化」「水と食文化」の3つのストーリーで構成された「琵琶湖とその水辺景観 ― 祈りと暮らしの水遺産」が文化庁により日本遺産として認定されている[252][253]。
- スポーツやレジャー
- 瀬田川を中心とし複数の艇庫があり、毎年5月には琵琶湖漕艇場で日本最大級のボート大会である朝日レガッタが開催される[254]。1952年にはびわこボートレース場が日本で3番目のボートレース場として開場している[255]。カヌーやドラゴンボート、ソーラーボートの競技もおこなわれる他、ヨット、スタンドアップパドル・サーフィンなどを楽しむこともできる[254]。また、2003年には「琵琶湖レジャー利用適正化基本計画」が策定されている[77]。
- 年中行事・イベント
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- びわ湖開き
- 伊崎の棹飛び
- 鳥人間コンテスト選手権大会(ytv読売テレビの主催で彦根市にて開催)
- 水上歩行コンテスト(NWWA日本ウォーターウォーク協会の主催で大津市にて開催)
- びわ湖大花火大会
- 教育・研究における利用
脚注
注釈
- ^ 第2位の支笏湖は、面積は78.7平方キロメートルと小さいが、最大水深が大きいため209億トンの貯水量をもつ[4]。
- ^ 生物群系の境界など、異なる環境が接し連続的に入り交じる場所を指す生態学の用語。生物学の多様性が高い[17][18]。エコトーン、移行帯とも[17][19]。
- ^ 2018年ごろの人口湖岸の割合は37パーセント(南湖では73パーセント)である[22]。
- ^ 木村 (2001, p. 133) は、これに沖の白石を加え4島としている。
- ^ 例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:「行政代執行の実施結果について」
- ^ 古代湖は世界に20ほどあり[44]、Kiprop (2017) によると、琵琶湖はそのうち5番目に古い湖である。
- ^ この年代は、古琵琶湖層群の火山灰層の研究により明らかになったもので、以前は500万年前や600万年前とされることもあったが、この研究をおこなった里口保文へのインタビューによると、今後約400万年前との推定が覆される可能性はきわめて低いという[45][46]。
- ^ 琵琶湖が現在でもすこしずつ北上・沈降していると紹介されることもあるが、地震によって地盤が上下することはあるものの、「年間3センチメートルで動いている」といった説明は誤りである[52][53]。
- ^ これらの湖底遺跡のうち遺構を含むものについては、水位の変動、あるいは地滑りや地震などによる地盤変動により湖底に沈んだものと断定できるが、遺物のみの遺跡の場合は、儀式や遺棄により湖底に沈められた可能性も考慮する必要がある[57]。
- ^ 内湖を含まない本湖のみの面積。
- ^ 大戸川なども琵琶湖の水とともに滋賀県から流出しており、これらの集水域を合わせると滋賀県の98%を占めることになる[79]
- ^ 2007年3月15日に海津大崎付近の水深80メートルの地点で16.8メートルの透明度が観測された。なおこの観測は定期観測ではない[81]。
- ^ この北向きの逆流により、汚染された南湖の湖水が北湖に流入することが懸念されている[82]。
- ^ 湖沼技術研究会 (2007, p. 222) によると、南湖でも反時計回りの環流が確認されたことがある。
- ^ 2005年には冬の環流も観測されている[83]。
- ^ 5種類とする場合の周期はそれぞれ、240.9分、71.9分、65.0分、39.8分、32.3分[93]。
- ^ 南湖は北湖に比して水深が浅いため、冷却が早い[96]。
- ^ 「湖沼#湖沼の温度」および「湖水層」も参照。
- ^ 翌2021年については、2月2日に観測が発表された[98]
- ^ 琵琶湖西岸断層帯は東北-南西方向に延び[11][要ページ番号]、断層帯北部の最新活動時期は約2800年前から約2400年前頃とされ、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に2mから5m程度隆起した可能性がある。断層帯南部の最新活動時期は1185年(元暦2年)の文治地震であった可能性があり、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に6mから8m程度隆起した可能性があるとされている[100]。
- ^ これに対し、浜名湖のことを遠淡海と呼んだ[112]。
- ^ 以下「呼称」節の引用文中の強調はすべて引用者による。
- ^ あぎ。私の主君の意[116]。
- ^ これは、近江の表記が公的に国名と定められたと考えられている704年(大宝4年)の、約40年前である[119]。
- ^ ゆうせいが。中国文人は絵画を「無声詩」、詩文を「有声画」と呼んだ[125][126]。
- ^ 「琵」「琶」は当用漢字・常用漢字外の漢字である[要出典]。
- ^ 「タイトルに「"びわ湖"」を含むページの一覧」および「タイトルに「"びわこ"」を含むページの一覧」も参照。かつては「びわ町」という自治体も存在した。
- ^ 琵琶湖の丸木舟は、鳥浜遺跡(福井県三方郡)や加茂遺跡(千葉県旧丸山町)の縄文早期のものに次いで古く、2001年現在において縄文後期 - 晩期の丸木舟が4箇所から計21艘出土しており、これは日本最多である[62]。
- ^ 日本における船舶の発展については「和船」も参照。
- ^ 作者は平安時代の源俊頼とする説と室町時代の宗長とする説がある[147]。
- ^ コトバンク (急がば回れ)は、歌に諺が由来するのではなく、すでに広まっていた諺を歌に詠み込んだものと推測している。
- ^ 琵琶湖の最狭部である堅田の堅田渡については、平安時代の記録も残されている[149]。
- ^ この内12パーセントは内陸部の船である。
- ^ a b 2001年以降に合併した市町は、滋賀県 (2018a)に基づいて2018年現在の市に分類した。
- ^ 県の記録によれば床上・床下浸水は5万8千棟を超えた[169][24]。
- ^ 近江八景の成立には諸説あり、室町時代ごろに漢詩に読まれる中で定着したものとも、江戸時代初期に近衛信尹が瀟湘八景に倣って選定した(近衛政家・近衛尚通が選定したとの説は、高梨 (2001, p. 273) によると、2001年現在では否定されている)ともされる[213][214]。
- ^ しおれての意[114][217]。
- ^ 近江国を舞台とした歌は116首と大和国・摂津国に次いで多く、そのうち近江・淡海の用字を含む歌は36首である[218]。
- ^ おおわだ。大きな湾・入り江の意[219][220]。
- ^ やそ。字義通り80という意味ではなく、沢山の意である[221]。
- ^ 昔ながらと長等山の掛詞[222]。
- ^ 動作の手を休める合間の意[223][224]。
- ^ リンク先の「みどころ4」節に一部が掲載。
- ^ 2021年現在、滋賀県立近代美術館所蔵[234]。
- ^ 後に屏風に改装され、静嘉堂文庫に伝えられた[235]。
- ^ 2021年現在、サントリー美術館所蔵[236]。
- ^ 琵琶湖周辺で1年2月に及ぶ長期ロケが行なわれた日本映画。琵琶湖大橋でクライマックスを迎える。
- ^ 万城目学の小説及び2014年春公開の映画。琵琶湖の神から力を授けられた湖の民の話。
- ^ 湖上以外でも、JR湖西線では貨物列車の転覆が2001年までに2回起こっており、列車の普通や徐行運転の原因にもなっている[249]。
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関連項目
- 湖沼に関する記事
-
- 湖沼の一覧 - 地域順
- 湖沼の一覧 (面積順)
- 日本の湖沼一覧
- 世界湖沼会議
外部リンク
- 琵琶湖 - 滋賀県公式サイト
- 琵琶湖河川事務所 - 国土交通省 近畿地方整備局
- 独立行政法人水資源機構
- 琵琶湖開発総合管理所 - 独立行政法人 水資源機構
- 国立環境研究所琵琶湖分室
- 滋賀県琵琶湖環境科学研究センター
- 滋賀県立琵琶湖博物館
- 琵琶湖の保全及び再生に関する法律 - 環境省