漆器

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八橋蒔絵螺鈿硯箱尾形光琳作、江戸時代、18世紀、国宝東京国立博物館
漆器の乾燥作業中の様子

漆器(しっき)は、木や紙などに(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。狭義には「漆を塗った食器」の意味であるが、広義では漆が塗られた漆工品全般が含まれる。歴史的にアジアを中心とした国で、食器、箱、箪笥、台、棚、車体などの様々な用途で作られ、日用品から高度に装飾された美術工芸品まで多様な工芸品が作られた[1]。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。

ウルシから採れる加工した樹液をと言い、これを加工された素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)に下地工程、塗り工程と、細かく挙げると30から40になる手順を経て漆器に仕上げていく。この工程は漆工と言われそれぞれに名前があり、生産地別で考え出された漆工も合わせると多岐にわたる。利用される素地には、よく乾燥された木材、竹、紙、金属などがあり、現代では合成樹脂も使われている。更に、漆にセルロースナノファイバー(CNF)を混ぜて光沢や強度を高める技術が開発される[2] など、時代とともに変化している。

アジアの漆器

漆器の板屏風に蒔絵の技法で描かれた菊。蒔絵は日本で発展した代表的な漆工である。
壽字吉祥文蒔絵印籠、江戸時代、18世紀後半、メトロポリタン美術館

漆器は日本を含む東アジア東南アジア南アジア地域に広く見られる。

日本では北海道垣ノ島遺跡から約9000年前の副葬品が出土しており、この発見により、日本が縄文時代早期前半から漆工芸技術を持っていたことが判明した。平安時代以降、漆器の装飾技法の蒔絵の様々な技法が開発され、その後の日本の漆器の製法とデザインを決定づけ、高級品では螺鈿象嵌沈金、平文などの装飾技法と併用されている。安土桃山時代には南蛮貿易で多くの日本の漆器が輸出され、欧州の権力者や宗教家たちを魅了した。そして江戸時代にかけて技法と美術的価値が大きく発展し、琳派の屏風のデザインが漆器に応用されたり、漆で極めて高度に装飾された印籠刀剣の鞘・甲冑などが製作され、武家や町人の間で流行した。また漆工の伝播により日本各地に次々と名産地が生まれた。幕末から明治にかけては技法と美術的価値がますます発展した。特に明治新政府が殖産興業の一環として高度な工芸品を輸出産業の柱にして漆工家たちに国際博覧会に出品するよう奨励すると、国の威信をかけて製作された漆器の品質は最高度に達し、大量の漆器が外国に輸出された。その後、日本の工業化と日本人のライフスタイルの西洋化もあって、幕末から明治にかけての最高度の漆器はほぼ全量が海外に流出し、技術もほぼ失われたが、1980年代以降、村田理如が海外から買い戻して清水三年坂美術館を開設したり、雲龍庵が当時の印籠や貝桶を再現したりするなど、様々な試みが続けられている。またライフスタイルの西洋化により漆器の需要も大きく減退したが、現在も各地の名産地で漆器の製作が続けられている。

中国では自然木のウルシが、特に河北省湖北省四川省雲南省などに生えている[3]。古代の遺品として浙江省河姆渡遺跡で発見された約7400年前の木製の弓[4]が、最古のものとされる。日本と同様に多くの美術的価値の高い漆芸品が残っている。現在でも日常品として多く生産され使用されている。

朝鮮半島では紀元前代の漆が塗られた耳杯や案(机、台)などが出土している[5]。また、高麗時代、李氏朝鮮時代と優れた芸術品が知られている。水鳥や柳の写景的な表現、独特な菊唐草文様の現存漆芸品[注釈 1] があり、李氏朝鮮時代の品には螺鈿も使用され、民芸的作風を持っている[6]

ベトナムでは漆塗技術はソン・マイ(en:Lacquer painting#sơn mài)として知られている。ハノイに1920年に設立されたベトナム美術大学から著名な漆芸家が輩出され、彼らは既存の職人を巻き込んで漆芸品に革新をもたらした。 その後衰退が見られたが、1980年代に政府が漆器の文化的、経済的需要を見込み、漆器を含む工芸品に投資する会社を奨励した。結果、今日ではベトナム産の漆器を見かけることになった[7]

ミャンマーではビルマウルシGluta usitata; シノニム: Melanorrhoea usitata)から採れる樹液が原料である。絞り出された樹液は淡い黄色をしているが空気に触れると黒に変化する。漆塗され磨かれると耐水や耐熱に優れる漆面となる。16世紀にバインナウンマニプルチェンマイ、中国の雲南省などを征服した際、連れ帰った大勢の職人が製作したのが始まりとされる。バガンが主要生産地であり、何世紀にもわたって伝統的な漆工が現在も成されているが、旅行者の減少、樹脂含む材料費の高騰が原因で2009年までに200を超える製作所のうち3分の2以上が閉鎖されてしまっている[8]

欧州の『漆器』

ジャパニングされた扉、1750年代、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ作、シカゴ美術館

ウルシの生息域は東アジアから南アジアに限られており、漆器は当地域の特産品と言える。東洋で製作された漆器は16世紀末から西欧に輸入され、ヨーロッパの人々は最初は単に模倣品を作って楽しんだが、東洋から来る美しさと耐久性を兼ね備えた漆器を自分達で生産しようと、漆の代わりに、ワニスシェラックなどを使った新しい技法を編み出した。それらの溶剤および模倣作品は「ジャパン」、技法が「ジャパニング」と呼ばれた[9][10]。その技法はシノワズリの流行とともに主にフランス、イギリス、ドイツへと広まっていった。18世紀に入ると開発が進み、さらなる耐久性と、当時東洋の「漆」が持っていなかった白色の表面を手に入れた。これは欧州で生まれた独自技術である[11]。20世紀には、建築家アイリーン・グレイジャン・デュナンといった漆芸家が活動した。

「japan」の呼称

中国の陶磁器だけでなく磁器全般を「china」と表記することがあるように、日本では、日本の漆器に限らず漆器全般を「japan」と表記することがある。しかし、上記の欧州の漆器でも述べたように日本の漆器の模倣品「ジャパニング」の意味もあるため、日本製を「japan」と表記するのは誤りであると指摘されている[注釈 2]。(ラッカー#ジャパニングデコパージュも参照)英米の英語辞典にはjapan欄に「漆」、「漆器」の意味は載っていない[9]

最古の漆器

河姆渡文化時期の赤い漆の塗られたお椀。(浙江省博物館)

長江河口にある河姆渡遺跡で発掘された木弓は、放射性炭素年代測定で約7500~7400年前と確認されたことから、漆器は中国が発祥地で技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道函館市南茅部地区から出土した漆の装飾品6点が、米国での放射性炭素年代測定により中国の漆器を大幅に遡る約9000年前の縄文時代早期前半の装飾品であると確認された[注釈 3]。縄文時代の集落と生活様式の変遷が確認できる垣ノ島遺跡からは、赤漆を染み込ませた糸で加工された装飾品の他に、黒漆の上に赤漆を塗った漆塗りの注口土器なども発見されている。さらに、福井県(鳥浜貝塚)で出土したの枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認された[12]。更なる調査で技術的に高度な漆工芸品である「赤色漆の櫛」も出土、 この他に、木製品、丸木船、縄、編物、その加工に用いられた工具なども相次いで出土しており、漆工芸品も含めた木材加工の関連品が発見されている[注釈 4]。こういった遺構、遺品から、日本では縄文時代早期末以降にはウルシが生育していたとされる[13]

上記の垣ノ島遺跡から出土した漆器は2002年12月28日の深夜、8万点に及ぶ出土文化財や写真、図面とともに火災にあった。幸い形の認識と繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分は焼失を免れ、2004年の4月には12ページの調査報告『垣ノ島B遺跡出土漆製品の分析と保存処理』が出された[14]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 和歌山県海南市黒江、紀州漆器伝統産業会館蔵
  2. ^ セルロースナノファイバー(CNF)と日本の伝統工芸「漆」の融合 日本製紙ニュースリリース(2017年11月29日)
  3. ^ 鈴木、ほか 2014, p. 70.
  4. ^ 鈴木、ほか 2012, p. 67.
  5. ^ 内田 2014, pp. 71, 72, 74, 76–80.
  6. ^ 谷田 1972, p. 307.
  7. ^ 英語版一部訳
  8. ^ Kyi Wai 2009.
  9. ^ a b 鈴木 2002, p. 2.
  10. ^ 原田 2002, p. 1.
  11. ^ 鈴木 2002, p. 3.
  12. ^ 鈴木、ほか 2012, pp. 67, 68.
  13. ^ 鈴木、ほか 2014, p. 71.
  14. ^ 漆に見る朱色と黒色

参考文献

関連項目

外部リンク