浄影寺

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浄影寺(じょうようじ)、中国代の都、大興城内にあった仏教寺院であり、慧遠ゆかりの寺である。浄影寺は、浄景寺とも記される。

その故地は、長安城においては、右街第1街第2坊の通化坊に在った。通化坊は、朱雀街を間にして左街の開化坊と相い対しており、北は光禄(善和)坊、南は豊楽坊、西は含光街を間にして通義坊と接していた。

歴史

両京新記』によれば、通化坊の南街の北側に在ったとされている。隋の文帝が、開皇7年(587年)に、六大徳の一人として京師に招いた慧遠のために建立した寺である。慧遠は、その後、没する開皇12年(592年)まで、約6年間、この寺に住して、諸経論を講説した。700余名の学僧が集まったという。

慧遠は、北斉で光統律師として知られた慧光に始まり、法上に継承された地論宗の南道派の継承者であった。また、慧遠の許からは、涅槃宗の智徽が出ている。

『両京新記』によると、この寺の寺額を書したのは、殷仲容であったとされ、『歴代名画記』にも同様の記述が見られる。

その後、浄影寺には、涅槃宗が伝えられたが、師子国(スリランカ)から来朝した不空金剛のような密教僧も逗留した記録が見られる。また、『慈覚大師伝』によれば、円仁は、この寺で元簡阿闍梨に面会している。

参考文献