民会 (ローマ)

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民会(みんかい、ラテン語: Comitia コミティア)は、古代ローマ政府組織の一つである立法機関のことである。古代ローマにおける民衆の政治参加は、現代のような個人による直接参加とは異なる独自の方法を取っており、票決に際して、市民各人は全体の票決において1票を持つ集団であるクリア民会ケントゥリア民会トリブス民会に組み込まれる形で意思を表明した[1]。ローマ王政下の社会組織形態は氏族制であり、上位よりゲンス、クリア、トリブスの3層構造であった[2]。古伝によれば、都市ローマはティティエス、ラムネス、ルケレスの3部族から興され、それぞれが1つのトリブスを形成していた。各トリブスは10のクリアに、各クリアは10のゲンスに区分されていたという[3]。この各単位より構成されたのがクリア民会とトリブス民会である。プレブス民会とトリブス民会は、少数の貴族(パトリキ)参加の有無の違いだけであった。後にはプレブス民会に貴族が出席することも普通となった[4]

共和政ローマ後期の弁論家であり政治家でもあったキケロは、標準的な権力分立の3政体モデルの原型を、統治機関である『元老院』、元首である『執政官』と議会である『民会』の3つと見なしていた[1]

紀元前753年のローマ建国後、まず元老院と民会(クリア民会)が設立された。クリア民会は立法権限と共に新しい王を歓呼することで承認するという権限[1]を有していた。 紀元前509年、ローマが共和政に移行した後、主な立法権限はトリブス民会ケントゥリア民会に移った。開会でのめんどうな宗教的手続を必要としたケントゥリア民会[4]より、後にはトリブス民会が主に用いられるようになった。さらに、その権限はプレブス民会に移ることとなった。共和政末期には元老院プレブス民会執政官の間の政治的駆け引きにより国家の安定性が損なわれ、最終的に国家体制は帝政に移行することとなる。

民会には次のようなものがあった。

参考文献