松平忠吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Ultzsahari (会話 | 投稿記録) による 2020年11月22日 (日) 23:09個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎登場作品: 関ケ原(映画)を追加)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
松平忠吉
松平忠吉像(性高院蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正8年9月10日1580年10月18日
死没 慶長12年3月5日1607年4月1日
改名 福松丸(幼名)→忠康(初名)→忠吉
別名 尾張左中将(尊称)
戒名 広度院殿憲瑩玄伯大居士
性高院殿憲瑩玄白大居士
墓所 東京都港区増上寺
愛知県名古屋市千種区性高院
愛知県豊田市隣松寺
官位 従五位下、下野守、従三位、左近衛権中将・薩摩守
幕府 江戸幕府
武蔵忍藩主→尾張清洲藩
氏族 徳川氏東条松平家
父母 父:徳川家康、母:西郷局
養父:松平家忠
兄弟 信康亀姫秀康督姫秀忠忠吉振姫信吉忠輝松千代仙千代義直頼宣頼房
正室:政子(清泉院、井伊直政の娘)
梅貞大童子
テンプレートを表示

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将大名東条松平家第4代当主、尾張清洲藩主。

江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。

生涯

遠江浜松城下(現在の静岡県浜松市)に徳川家康の四男として生まれる。天正9年(1581年)、東条松平家第3代当主の松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領し、祖父・と父・家の一字をそれぞれ拝領して名を松平忠康と改める。天正10年(1582年)、駿河沼津城4万石に転封される。

家康が関東へ移封されると、文禄元年(1592年)に武蔵忍城主となり10万石を与えられ、元服して忠吉と改める。

関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

天正16年(1588年)から天正18年(1590年)正月18日、徳川家康が出した消息には忠吉から小袖を送られた感激を表す一方、怠りなく学問に励むように諭している。短いやりとりのなかに父子の情愛が表れているもので、当代の子育ての一端を語ったものとして意義深いものである[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。戦後、尾張および美濃に清洲52万石を与えられる。慶長9年(1604年)には、下間仲孝能楽の秘伝を学んでいる。

しかし病に侵され、同年5月に但馬へ湯治に向かう。慶長10年(1605年)4月には左近衛中将にも任官するも、10月には腫物を患い、12月には危篤状態に陥るが投薬により蘇生する。

慶長11年(1606年)に下野守から薩摩守に遷任する。4月16日、上洛中の家康に対して側近の村越直吉を介してを送っており、家康の機嫌を損ねることのないよう進上の際には入念な配慮を頼み、奥を仕切る阿茶局にまでその心持ちを伝えている(『武州文書』)。これは家康に対して畏怖の念を抱くと同時に大事に思っていたことの表れである[1]

病は治らず慶長12年(1607年)に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28。法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。小笠原吉光ら4人が殉死した。

忠吉には嗣子がなく[2]、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直)が継いだ。このため尾張徳川家の什宝を収蔵する徳川美術館には、忠吉の武具も収蔵されている。また、同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれている。

人物

正しい器量を備えた美男子で人望も厚く、天下の諸侯が忠吉のためには命も惜しくないとこぞってかしずいたという(『武野燭談』)。

登場作品

脚注

  1. ^ a b 宮本義己「家康が与えた子供たちへの手紙」『歴史読本』38巻19号、1993年。
  2. ^ 慶長2年(1597年)に生まれた唯一の実子・梅貞大童子は生後16日で早世した。このためか、自分の子を可愛いと思えないと言った家臣を追放したという逸話が伝わる。

外部リンク