村田良平
村田 良平(むらた りょうへい、1929年(昭和4年)11月2日 - 2010年(平成22年)3月18日)は、日本の外交官。外務事務次官、駐アメリカ合衆国大使、駐ドイツ連邦共和国大使などを歴任した。退官後、日米核持ち込み問題について、日米核密約の存在を実名で証言した。
略歴
京都府出身。桃山中学、第三高等学校、京都大学法学部卒業後、1952年(昭和27年)に外務省入省。
ドイツ語研修、在ドイツ連邦大使館、経済局欧州課、在オーストリア大使館などを経て、経済局国際機関第二課長、在アメリカ合衆国日本大使館参事官、条約局参事官、中近東アフリカ局長、駐アラブ首長国連邦大使、駐オーストリア大使、経済局長、政治担当外務審議官、外務事務次官を歴任。その後、駐アメリカ合衆国大使、駐ドイツ連邦大使に就任した。
退官後は、日本財団特別顧問、青山学院大学教授、三和銀行特別顧問、民間外交推進協会常任副会長、外務省顧問などを歴任した。
2009年(平成21年)、朝日新聞などに、日米核密約の存在を暴露し注目を集めた。晩年は京都市に在住。マスコミを相手にした証言やドキュメンタリーなどを中心にしたテレビ出演、自身の体験を語る講演活動(竹村健一・竹村真一の未来研[1]、関西城内会など)、また執筆活動も精力的にこなしていたが、肺癌を患って京都大学医学部附属病院で治療を受けていた。2010年(平成22年)3月18日、肺癌のため死去した。享年80。
駐ドイツ連邦大使時代、外務省の若手官僚だった城内実が儀典担当官、秘書官として在ドイツ連邦大使館に在籍。城内は村田のかばん持ちをしていた[2]。村田は、城内が2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙(郵政選挙)で自民党に造反し、片山さつきに敗れて浪人となった際にも、城内の地元である静岡県浜松市を訪れて城内を激励した。
村田は、北朝鮮が核実験を行ったことにより日本の核武装をアメリカが拒否できない日が来ると予測しており、それでもアメリカが日本の核武装を拒否するなら、在日米軍基地の全廃を実行し、かつSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を日本は持つことになる、と主張している[3]。また、村田は、外務省があまりにも対米従属的であると述べている[4]。
著書
- 『中東という世界』(世界の動き社、1981年)
- 『中東』(世界の動き社、1982年)
- 『EU――二一世紀の政治課題』(勁草書房、1999年)。編著
- 『OECD(経済協力開発機構) 世界最大のシンクタンク』(中央公論新社〈中公新書〉、2000年)
- 『海洋をめぐる世界と日本』(成山堂書店、2001年)
- 『なぜ外務省はダメになったか―甦れ、日本外交』(扶桑社、2002年)。聞き手田久保忠衛・古森義久
- 『回顧する日本外交 一九五二-二〇〇二』(都市出版、2004年)
- 『海が日本の将来を決める』(成山堂書店、2006年)
- 『村田良平回想録 上巻 戦いに敗れし国に仕えて』
- 『村田良平回想録 下巻 祖国の再生を次世代に託して』(ミネルヴァ書房、2008年)
- 『何処へ行くのか、この国は 元駐米大使、若人への遺言』(ミネルヴァ書房、2010年)