朴斉家
ぼくせいか 朴斉家 | |
---|---|
生誕 | 1750年 |
死没 | 1816年 |
職業 |
学者 詩人 画家 |
配偶者 | 密陽朴氏 |
朴斉家 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 박제가 |
漢字: | 朴齊家 |
発音: | パク・ジェガ |
日本語読み: | ぼく せいか |
ローマ字: | Pak Je-ga |
朴斉家(ぼく せいか・パク・ジェガ、ハングル: 박제가、1750年 - 1815年)は、李氏朝鮮時代の実学者、詩人、画家。本貫は密陽朴氏。字は次修。号は楚亭または貞蕤[1]。李徳懋や白東脩と共に、武芸図譜通志の編纂に参加した[2]。
概要
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1778年に朝鮮燕行使に随行して中国へ行き、その際に農業・牧畜・城郭・宮殿・舟・瓦の製法に至るまで詳細に観取して、中国から学ぶことによる福利厚生を説いた『北学議』を著す[1]。
朝鮮語廃止論者
脚注
- ^ a b 『世界大百科事典』【朴斉家】
- ^ 「《武藝圖譜通志》成。 武藝諸譜所載, 棍棒、籐牌、狼筅、長槍、鎲鈀、雙手刀, 六技出於戚繼光《紀効新書》, 而宣廟朝命訓局郞韓嶠, 遍質東征將士, 撰譜刊行者也。 英宗己巳, 莊獻世子代理庶政, 歲己卯, 命增入竹長鎗、旗鎗、銳刀、倭劍、交戰月挾刀、雙劍、提督劍、本國劍、拳法、鞭棍十二技, 纂修圖解, 作爲新譜。 上卽阼初, 命增騎槍、馬上月刀、馬上雙劍、馬上鞭棍四技, 又以擊毬、馬上才附之, 凡二十四技, 命檢書官李德懋、朴齊家, 開局於壯勇營, 看詳編摩, 爲之疏解, 凡厥得失, 亦著論斷。 仍命壯勇營哨官白東脩, 察試技藝, 董飭開雕。」『正祖 30巻14年4月29日 5回目 《무예도보통지》가 완성되다』(朝鮮王朝実録 影印本46冊132面)
- ^ 文純実『十八世紀朝鮮における対外意識の変化について』駿台史學、2013年3月 。p101
- ^ 李翼成訳注『朴斉家 北学議』乙酉出版社
- ^ 伊藤英人「朝鮮半島における言語接触」東京外国語大学語学研究所論集、第18号、p84