本居宣長旧宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。アクメイーク (会話 | 投稿記録) による 2020年2月15日 (土) 00:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク: cat)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

本居宣長旧宅外観

本居宣長旧宅(もとおりのりながきゅうたく)は、三重県松阪市殿町にある史跡である。江戸時代国学本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまでこの家で暮らし、2階の書斎を鈴屋すずのやと名づけた。1909年(明治42年)に保存のために松坂城跡の現在地に移築され、現在は本居宣長記念館によって管理されている。移築前の跡地とともに1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。

歴史

本居宣長旧宅内部

本居宣長旧宅の建物は1691年(元禄4年)に本居宣長の祖父小津三四右衛門定治が隠居所として建てたものである。最初建物は松坂職人町に建てられ、後に松坂魚町に移築された。本居宣長の先祖は代々伊勢国北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。その子七右衛門の代から氏を小津と改めて松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。

宣長が11歳のとき、父の三四右衛門定利が病没した。商いは義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。翌年、母かつは宣長とその弟1人と妹2人を連れて、5人家族で魚町の隠居所に移り住んだ。宣長はこの後、若い頃京都で医学を学んだ7年間を除いて、72歳で亡くなるまでの間この家で暮らした。

義兄の死後宣長は小津家を継いだが、商いはやめ、氏を祖先の本居に戻した。そしてこの家で町医者を営むかたわら、『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組んだ。宣長が53歳のとき2階の物置を改造して新しい書斎を作った。を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色を楽しんでいたという。宣長はこの書斎を「鈴屋」(すずのや)と名づけた。

保存運動と史跡指定

この家には宣長の子孫が明治時代まで居住していたが、1905年(明治38年)に宣長に従三位が追贈されると保存の気運が高まり、1909年(明治42年)に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築され、宣長当時の姿に復元された。1953年(昭和28年)、本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地は国の特別史跡に指定された。

本居宣長記念館

本居宣長記念館

現在、本居宣長旧宅は財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する本居宣長記念館の敷地内にある。鈴屋遺蹟保存会は、本居宣長旧宅および旧宅跡、その他関係史跡、遺品等を保存し、業績を調査研究するとともに顕彰に努めるために設立された団体である。本居宣長記念館は宣長の実子本居春庭の子孫の家に伝わった資料や、宣長の養子本居大平の子孫の家に伝わった資料などを所蔵し、うち467種1,949点が国の重要文化財に、20種31点が三重県の有形文化財に指定されている。本居宣長旧宅では、宣長が医療活動を行った「店の間」や講釈や歌会に使用した「奥の間」など一部が公開されている。「鈴屋」は保存のため立ち入ることはできないが、石垣の上から内部を窺い見ることができる。

外部リンク

座標: 北緯34度34分30.9秒 東経136度31分33.0秒 / 北緯34.575250度 東経136.525833度 / 34.575250; 136.525833