暴力

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暴力(ぼうりょく)とは他者の身体財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待モラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。

概説

全ての人間身体には現実の世界に具体的にはたらきかける能力があり、この能力が他者の意志に対して強制的にくわえられると暴力となる[1][2]。 暴力は殺人、傷害、虐待、破壊などをひきおこすことができる力であり、また、二次的な機能として強制抵抗抑止などがある。

人間の暴力性については心理学の立場から、抑圧の発露、おさえつけられたルサンチマン、生体にやどる破壊衝動(デストルドー)として説明がなされることもある。

動物行動学の立場から進化の産物であるとする説明が有力である。捕食者や外敵からの防御で身体能力を高める。群れの序列をめぐる争い、雌をめぐる雄の性淘汰の争い、などで暴力が起きる。チンパンジーには子殺しも認められる。

暴力は人間の尊厳や人権をおびやかすものであり、人道主義平和主義の立場ではあらゆる対立は非暴力的な手段によって、対話などによって、互いを理解し、互いの苦しみを理解し、理性的に解決されるべきだ、という社会的規範は示されている。 しかし、世界的には自己防衛のための合法的暴力や死刑制度など象徴としての暴力を法制度として許容している国家が存在し、家庭内暴力体罰を家庭の支配や教育の正当な方法として支持する社会が存在している[3]

形態など

暴力には様々な形態のものがある。

行使の当事者が、正当な権利の行使である、あるいは報復や正当な懲罰行為であると主張するが、他方からは正当性がみとめられないという事態がおこりうる。特に国家間の軍事力の行使ではこうした意見の対立がおおくみられる[注 1]

暴力があらわれる場面・暴力をふるうもの

歴史的に見て、暴力はいつの時代にも存在していたといえよう。

人類の歴史をみると(一部の例外的な地域・時期はあるにしても)、概して、戦争はたえたことがない。歴史的にみて、兵士が兵士に対して暴力をふるうだけでなく、一般の住民(非戦闘員)の財産・金品を略奪したり、必然性もなく殺したり(殺人)、婦女暴行強姦を行っていたりする事例は枚挙に暇がない(大量虐殺も参照)(→ 戦士武士兵士軍人などが行為主)。

国家の政治権力を掌握している側の者が国内の人々に対して暴力をふるうことがある。そのような暴力としては人権蹂躙抑圧などといったタイプのものから、殺人・大量殺戮(さつりく)といった過激なタイプのものまでさまざまなバリエーションがある。過激な方の例としては粛清があげられる。最大規模のものはスターリンによる大粛清である[注 2]恐怖政治(暗黒政治)ではしばしば権力者が国民に対して様々な暴力を振るっている。(→ 国家元首権力者役人官僚行政政府などが行為主)。

また、既成権力に属していない側の者、権力による暴力を受けてきたと受け止めている側(体制側からみた場合のいわゆる"反体制勢力")によっても報復的あるいは防御的に暴力がおこなわれることがあり、顕著な例では革命独立戦争テロリズム[注 3]などとなってあらわれる(→普通の人々、民衆、一般国民、一般市民、極右極左テロリストなど)。

他人の財産を奪おうとする者が暴力をふるうことがあるということは古今東西かわらない(→ 強盗など)。世界的にはマフィア、日本では暴力団のように、さまざまなかたちで暴力行為を常態的におこなっている組織も存在する(→ マフィア暴力団)。

現代の一般家庭の一部においても暴力がおこなわれていることがあり「家庭内暴力(ドメスティックバイオレンス、DV)」とよばれている。その中でも配偶者による暴力は「配偶者による暴力」と呼ばれることがある(→配偶者)。児童を虐待することは「児童虐待」とよばれている。児童虐待を行っているのは主として母親(実母)である[4]。母親が子を殺してしまうという事件も時々起きている。(→ など)。逆に年配の人を虐待することは「高齢者虐待」とよばれている(→ など)。

学校内で主として生徒によっておこなわれる暴力は「校内暴力」(スクールバイオレンス)とよばれている(→ 生徒)。学校内では、教師などが、生徒に体罰という名の暴力をふるうこともある(→教師上級生)。

また、家庭と同様に閉鎖的な共同体である宗教団体(既成、新興に限らず)の一部でも暴力がおこなわれている場合がある[注 4]。また、企業の内部でも、弱い立場の従業員に対して、陰に陽にさまざまな暴力がおこなわれていることがあり、それらの中には、最近では「パワーハラスメント」という用語でとらえられるものもある(→ 雇用主上司ブラック企業)。

暴力に対する評価や対処

歴史的にみれば、他人を暴力によって支配しようという傾向は正常な状態ではないとされるようになってきている傾向があるといえよう。たとえば、現在の日本では、身体的・心理的暴力は、傷害罪などの罪にとわれる場合がある(詳細は、後述の日本の関連法規を参照のこと)

また、近年の研究によって、暴力の行使は、行使された側(被害者)にPTSDなどの心理的ダメージを後々までのこすことがおおいことは世界的に知られるようになってきた。

前述のように、暴力を用いないということが規範として示されるようになってきているのだが、それでもその規範が守られず、心理的暴力や身体的暴力がふるわれることがある。

暴力にいかに対処するかが問題になってくる。『現代哲学辞典』によると、暴力への対抗は、「暴力と非暴力」や「善悪」の対立ではありえない、と言う。暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけだ、と同辞典では説明されている[5]。「暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力が社会の中で準備されなければならない。」と言う。社会学者マックス・ウェーバーは「国家の成立にあたっては軍隊警察といった暴力を行使できる組織を正統的に独占することが必須である」とした(暴力の独占)。

マハトマ・ガンジーは、暴力に暴力で対抗するのではなく、非暴力で対応することを説いた。

異民族間の紛争では、暴力に暴力で応酬している限り、次第に暴力が過激化するばかりで収拾がつかなくなる、ということも多い。そうなると、双方にとって深刻な被害や悲劇的な結果をもたらす。そのような場合、見かねた第三国・国際機関・宗教者などが調停に乗り出すことがあり、相方の代表の対話を促すように働きかけを行い、第三者として対話の場に同席することもある。対話が成功し、紛争が沈静化することもあるが、なかなか対話が進まないこともある。

昇華

暴力をいくらか生産的な面に転じるはたらきを昇華という。攻撃衝動は昇華としてスポーツにむけられるし、芸術の分野ではハードボイルド小説ミステリーロマン主義の一部などがあげられる。

ただ、わいせつなど性描写とならんで表現の自由にからみがちな面はあり、規制には賛否をひきおこしやすい。過度の規制はつつしむべきだというのが良識的な意見だが、どこまで規制できるかはしばしば裁判であらそわれる。

日本の関連法規

暴力の行使は刑法では、傷害罪暴行罪強要罪強盗罪恐喝罪器物損壊罪などとして処罰される可能性がある。刑法以外では、暴力行為等処罰ニ関スル法律航空機の強取等の処罰に関する法律迷惑防止条例などがある。

暴力の無い状態:平和

暴力的な政治的活動が行使されない状態、争いがなく穏やかな状態などを一般に平和と呼ぶ。

脚注

  1. ^ 近年の国家間によるものではないテロリズムなどに関して、そのような意見対立がおおくみられる。また、パレスチナ問題でも同様の問題がみられる。
  2. ^ その当時は実態や規模が把握されておらず、現在も正確な数は不明であるが、後の諸研究によると、実は数百万人単位の人間が殺されていたとされている(把握しやすい数字、すなわち短期間に限定した統計的な記録で、直接的に殺したと判明している人数だけでも約130万人とされており、更に期間をひろげ、かつ社会的抑圧や飢饉(「構造的暴力」も参照)で死亡した人数までふくめれば、その数は数倍にふくれあがるともされているため)。
  3. ^ テロリズムには、特定の権力者に直接にむけられるもの、体制全体に心理的圧迫をあたえて何らかの政策をやめさせるために無差別に人を狙うものなどのタイプがある(テロリズムテロ事件の一覧を参照)。近年になると、国家といったような明確な対象をもたない暴力もめだってきており、いわゆる"環境テロ"といったものもあげられる。
  4. ^ マインドコントロールのためにおこなわれている場合もある。
出典
  1. ^ 中山元『思考の用語辞典…生きた哲学のために』筑摩書房ちくま学芸文庫〉(原著2007年2月)、450,454頁。 
  2. ^ アーレントは、人間は個人として力をもっており、権力は他者の同意にもとづいてくわえられる力だが、暴力は他者の意志に反して加えられる力だと位置づけている。
  3. ^ R・E・ニスベット、D・コーエン『名誉と暴力:アメリカ南部の文化と心理』石井敬子、結城雅樹(編訳) 北大路書房 2009年 ISBN 9784762826733 pp.91-114.
  4. ^ 例えば、東京都の平成24年度の統計(総件数3705件)で、虐待者の66.2%が実母である。実父は21.9%にすぎない。
  5. ^ 山崎正一市川浩 『現代哲学辞典』 講談社、1970年、559頁。

関連項目

外部リンク