慶応

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慶応けいおう旧字体慶應)とは、日本の元号の1つである。

元治の後、明治の前。大化以降243番目の元号である。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇孝明天皇明治天皇江戸幕府将軍徳川家茂徳川慶喜

日本での一世一元の詔一世一元の制への移行)発布以前、かつ、江戸時代最後の元号である。

改元

経緯

3月17日、朝廷から京都所司代松平定敬に対して「乾永・文隆・大暦・万徳・慶応・明定・天政」の7案が伝えられ、定敬は幕府に報告したが、将軍・徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が奏上してきた改元制度が終焉したことを示すものとなった[1]

なお、この改元の勘申を命ぜられた高辻修長から出された案の中に、「平成」が含まれていた[2]が最終の7案には残らず、この時には採用されなかった。「平成」は124年後の1989年1月8日明仁(第125代天皇)の践祚に伴い、元号法に基づいて採用された。

出典

文選』の「(まさ)に輝くべし」より。勘申者は唐橋在光

慶応年間の出来事

誕生

死去

西暦との対照表

※は小の月を示す。

慶応元年(乙丑 四月 五月※ 閏五月 六月※ 七月 八月 九月※ 十月 十一月 十二月※
グレゴリオ暦 1865/5/1[3] 5/25 6/23 7/23 8/21 9/20 10/20 11/18 12/18 1866/1/17
慶応二年(丙寅 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月※ 七月 八月 九月※ 十月 十一月 十二月
グレゴリオ暦 1866/2/15 3/17 4/15 5/15 6/13 7/12 8/10 9/9 10/9 11/7 12/7 1867/1/6
慶応三年(丁卯 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月
グレゴリオ暦 1867/2/5 3/6 4/5 5/4 6/3 7/2 7/31 8/29 9/28 10/27 11/26 12/26
慶応四年(戊辰 一月※ 二月 三月 四月※ 閏四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※
グレゴリオ暦 1868/1/25 2/23 3/24 4/23 5/22 6/20 7/20 8/18 9/16 10/16–10/23[4]

関連項目

脚注

  1. ^ 久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院1998年ISBN 4-87294-115-2 P289-290
  2. ^ 森鴎外『元号考』「慶應」/『鴎外全集』第二十巻(岩波書店、1973年)P426.
  3. ^ 1865年5月1日(元治2年4月7日)慶応に改元。
  4. ^ 1868年10月23日(慶応4年9月8日明治に改元。