徳川宗武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。イチジク艦長 (会話 | 投稿記録) による 2021年1月24日 (日) 03:55個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
徳川宗武
田安宗武像(所有者不詳)
時代 江戸時代中期
生誕 正徳5年12月27日1716年1月21日
死没 明和8年6月4日1771年7月15日
改名 小次郎(幼名)→宗武
戒名 悠然院殿寛山圓休大居士
官位 従三位権中納言、贈権大納言
主君 徳川家重徳川家治
氏族 徳川氏田安家
父母 父:徳川吉宗、母:本徳院(竹本家)
兄弟 家重宗武宗尹源三芳姫
正室:近衛通子
側室:香詮院殿(山村氏)、毛利氏、林氏
小次郎英菊友菊乙菊治察定国定信種姫誠姫脩姫定姫淑姫仲姫節姫
テンプレートを表示

徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸時代の歌人、国学者。江戸幕府第8代将軍吉宗の次男。官位従三位権中納言松平定信の実父に当たる。江戸時代御三卿田安家の初代当主であり、田安 宗武とも呼ばれる。

生涯

徳川吉宗が紀州藩主時代の時に生まれた次男で、兄に第9代将軍の家重がいる。幼少より聡明で、荷田在満賀茂真淵国学歌学万葉を学ぶ[1]

兄・家重に代わり宗武を将軍後継者に推す者もあり[2]、父・吉宗も一時は後継者にと考えたが、第3代将軍家光・駿河大納言忠長以来の長幼の序を重視し、家重を後継者とした。また、家重の嫡男家治が聡明であったので、家治の将来に期待して家重を後継者にしたとも言われている。

将軍後継者問題はその後も尾を曳き、家重が将軍となった後、3年間登城停止処分を受ける。弟の宗尹も同罪とみなされ不興を被った。次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免された。その後、第7代将軍家継の生母・月光院の斡旋により登城を赦され、表向きは和解したものの、以後、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかった。

また、宗武自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められ、延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた[1]。また吉宗は、自分に反抗した徳川宗春に代えて尾張藩を継がせる所存であったが、尾張藩の抵抗により断念したと伝えられる。

飛鳥山の故事に見られるよつに、吉宗は冷泉家歌壇との結び付きを重視し、初期は宗武も後世風だったが古風に誠実さを認め、萬葉調歌人の一人として名前を残した。寛保2年(1742年)、宗武よりの求めに応じて荷田在満より『国歌八論』が献進されたると『国歌八論余言(余言)』を著し論争となり、更に賀茂真淵に意見を求め、真淵は『臆説』を著して論争に参加した。土岐善麿の宗武研究が名高い。

明和8年(1771年)6月4日に死去。享年57。田安徳川家は五男の治察が継いだ[3]

年表

※日付=旧暦

家系

三女:淑姫(円諦院)高伝寺所蔵

宗武は15人の子女に恵まれたが、長男から四男までの男子は全て夭折したため、五男の徳川治察が嫡男となる[1]

著作

  • 『天降言』歌集
  • 『歌体約言』歌論
  • 『伊勢物語註』古典注釈書
  • 『古事記詳説』古典注釈書
  • 『小倉百書童蒙訓』古典注釈書

脚注

  1. ^ a b c 高澤 2012, p. 2.
  2. ^ 高澤 2012, p. 1.
  3. ^ 高澤 2012, p. 4.

参考文献