後漢 (五代)

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後漢
後晋 947年 - 950年 後周
後漢の位置
  後漢
公用語 漢語(中国語
首都 開封
皇帝
947年 - 948年 高祖
948年 - 950年隠帝
変遷
建国 947年
後周によって滅亡950年

後漢(こうかん[* 1])は、中国五代十国時代の王朝(947年[2] - 950年[3])で、五代のうちの一つの王朝である[4][* 2]。建国者はテュルク系突厥沙陀族劉知遠で、劉姓であることから国号をとした[6]。都は開封にあった[7]

建国前(後晋末)

942年5月に後晋の高祖石敬瑭が病死し、その遺志と異なる2代皇帝少帝石重貴が宰相馮道と天平節度使景延広によって擁立された[8]。対強硬派の景延広が宰相と侍衛親軍馬歩軍都指揮使(中央禁軍総司令官)を兼ねて国政の実権を握り、歳幣の停止と屈辱的外交からの脱却を図ったが、これが944年に二度の遼の南侵を招き、さらには946年11月に遼の太宗耶律堯骨による親征が開始された[9]。同年12月に開封は落城し、少帝は遼に拉致され後晋は滅亡した[10][* 3]。遼の太宗によるこの侵攻は反遼姿勢をとる後晋の少帝政権に対する懲罰と燕雲十六州以南の華北の支配をもくろんだものであった[10]。けれども遼本国の農耕社会の直接支配に対し批判的な遊牧勢力(述律太后の一派)の策動と合わせ、略奪専門の「打草穀騎」と称する部隊による華北地方での激しい略奪に対する漢民族の抵抗により947年4月には撤退を余儀なくされた[10]

建国

後晋の建国に際してその高祖の即位に功があり、侍衛親軍馬歩軍都指揮使で要所の節度使を兼ねていた劉知遠が、遼の南侵の激化に伴い河東節度使として晋陽に駐屯することとなった[6]。遼に対する防衛拠点の晋陽で劉知遠は後に後漢の親衛部隊の中核となる兵力を自らの力で増強した[2]。後晋が遼に滅ぼされ劉知遠は947年2月皇帝に即位して後晋に代わる後漢朝を開いた[6]。当時、強大な遼軍が開封を中心に華北を占領していて、これに対し華北各地で遼軍に対する反抗が激化していた[2]。これとあわせ遼の本国での太宗に対する不穏な動きがあったために遼軍が撤退し、開封への入城はその遼軍が引き上げた後の947年6月となった[3]

後漢高祖の開封入城にあたって、後晋及び遼の太宗の南侵時に任命された節度使以下の将吏に対しその地位が安堵された[7]。このため後漢朝は成立当初から各地の有力藩鎮の反乱に悩まされることとなった[7]。この反乱鎮圧に功を挙げたのが後の後周太祖郭威(当時宰相で枢密使でもあった)であった[7]

2代皇帝と後漢の滅亡

即位後すぐの翌948年1月に後漢高祖劉知遠は死去し、18歳の隠帝劉承祐が後を継いだ[7]。950年4月に遼軍の南下に備えるため郭威は枢密使で天雄軍節度使となって鄴都へ赴任した[7]。この機に乗じ、隠帝側近により有力な武臣の粛清が行なわれた[7]。これに対し、郭威は直ちに行動を起こし開封へ入城して隠帝側近を殺した[7]。この際に隠帝が殺された[7]

郭威は一旦は劉知遠の甥(後漢高祖の弟劉崇の子劉贇(りゅういん、贇は文武の下に貝)、当時徐州武寧軍節度使)を擁立したが、遼軍の南下に備えるために開封から東へ移動途次の澶州で部下から皇帝に推戴され、帝位に就き後周を開いた[7]

後周の建国により不要となった劉贇は徐州から開封へ向かう途中で殺害され[11]、その父である劉崇は自身が河東節度使として駐屯する晋陽で後漢を継承したとして自立し、十国の一つ北漢を建てた[12]。北漢は後周に代わった北宋に滅ぼされる979年5月まで続いた[13]

後漢の皇帝

代数 廟号(諡号) 名前 在位
高祖 劉知遠 947年 - 948年
隠帝 劉承祐 948年 - 950年
  • 隠帝没後に郭威によって一時擁立された劉贇は、開封へ向かう途中の宋州で湘陰公に格下げされ、郭威の即位後間もなく殺害されたため後漢の正式な皇帝とされない[11]

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉知遠1
 
 
 
 
 
劉崇(1)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉承祐2
 
劉贇
 
劉鈞(2)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉継恩(3)
 
劉継元(4)
 
  • 1,2:後漢皇帝
  • (1)-(4):北漢皇帝

後漢の元号

元号 年数 備考
天福 946年 - 947年 後晋の石敬瑭が使ったものを復活させた[* 4]
乾祐 948年 - 950年

脚注

注釈

  1. ^ 日本では1世紀光武帝が建てた漢も後漢というが(中国では「東漢」という)、光武帝の後漢は「ごかん」、五代の後漢は「こうかん」と音読することでこれを区別している[1]
  2. ^ 後唐李克用から続く山西軍閥の王朝である[5]
  3. ^ この侵攻に際し、後晋高祖の信頼が厚く後事を託されていた劉知遠は、彼を排除した形で成立した少帝政権に対し不満を持っていたため、防衛に動くことがなかった[2]
  4. ^ 後漢高祖は即位年(947年)を天福12年とし、後晋少帝[14]が改元した開運(947年は開運4年となる)を否定しその政権を認めないとする意志を明らかにした[11]

出典

  1. ^ 愛宕他 (1997)、p.69
  2. ^ a b c d 愛宕他 (1997)、p.23
  3. ^ a b 愛宕他 (1997)、pp.23-24.
  4. ^ 愛宕他 (1997)、p.3
  5. ^ 愛宕他 (1997)、p.41
  6. ^ a b c 愛宕他 (1997)、pp.22-23.
  7. ^ a b c d e f g h i j 愛宕他 (1997)、p.24
  8. ^ 愛宕他 (1997)、p.18
  9. ^ 愛宕他 (1997)、pp.18-19.
  10. ^ a b c 愛宕他 (1997)、pp.19,22
  11. ^ a b c 愛宕他 (1997)、p.70
  12. ^ 愛宕他 (1997)、pp.24-25.
  13. ^ 愛宕他 (1997)、p.25
  14. ^ 愛宕元「第1章五代 1.五代王朝の興亡」『中国史3:五代 - 元』松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、山川出版社 <世界歴史体系>、1997年、p.17、ISBN 4-634-46170-6

参考文献

  • 愛宕元斯波義信森田憲司 著「第1章 五代」、松丸道雄池田温斯波義信神田信夫濱下武志編 編『中国史 3:五代 – 元』山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年、3-71頁。ISBN 4-634-46170-6 
先代
後晋
後漢
946年 - 950年
次代
後周