太刀川平治

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太刀川 平治(たちかわ へいじ、1877年明治10年)4月7日 - 1966年昭和41年)2月15日)は、日本逓信官僚電気技術者、電気工学者、工学博士。元東京電燈研究所長・技師長・常務取締役工務部長、元東京電力顧問、電気学会名誉員。

略歴

新潟県古志郡長岡表五ノ町(現 長岡市表町4丁目)の薬種商・太刀川善蔵の四男として出生[1][注 1]

新潟県尋常中学校を経て、1899年明治32年)7月に第一高等学校を卒業、1902年(明治35年)7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された[2]

1902年(明治35年)7月に逓信省通信局の通信技手に就任、電気試験所に入所、1904年(明治37年)に日露戦争応召[3]

1906年(明治39年)2月にアメリカに渡航、西部の電力事業を視察、同年4月から1908年(明治41年)4月までアメリカ合衆国ニューヨーク州スケネクタディゼネラル・エレクトリック社の電機工場で研鑽を積んだ[2][3]

日本への帰途、アメリカおよびヨーロッパの電力事業を視察、1908年(明治41年)10月に帰国後、三菱合資会社神戸三菱造船所に引き抜かれ、逓信省を退官、1910年(明治43年)に神戸三菱造船所の電機工場主任に就任[2][3]

1911年(明治44年)11月に猪苗代水力電気の設立にあたって電気課課長に就任、1914年大正3年)の福島県猪苗代第一発電所から東京府田端変電所までの長距離特別高圧送電工事で、技師長として発電所鉄塔送電線を設計[4][5][6][注 2]

1920年(大正9年)7月から1921年(大正10年)1月までアメリカおよびカナダ水力発電の調査に派遣された[3]

1921年(大正10年)9月に農商務省[注 3]工業品規格統一調査会委員に就任、東京帝国大学工学部電気工学科講師に就任、1923年(大正12年)4月に猪苗代水力電気が東京電燈に合併されると東京電燈理事・研究所所長に就任[2][3]

1924年(大正13年)に、海軍中将山内万寿治男爵が大分県速見郡朝日村(現 別府市)の坊主地獄付近で行っていた地熱利用のための事業を引き継ぎ、1925年(大正14年)11月13日に日本で最初の地熱発電に成功[7][8][9][10][11][12][13][注 4]

1926年(大正15年)12月に東京電燈技師長に就任、1927年昭和2年)2月に工務部部長に就任、12月に取締役工務部部長に就任、1928年(昭和3年)1月に第15代電気学会会長に就任[14][注 5]

1930年(昭和5年)6月に東京電燈常務取締役に就任、1933年(昭和8年)11月に常務取締役を退任して平取締役となり、1936年(昭和11年)12月に東京電燈を退職、1939年(昭和14年)5月に電気庁参与に就任[2][3]

東京電燈取締役の時から東京湾電気取締役、関東水力電気取締役、吾妻川電力取締役、大井川電力取締役、東信電気監査役、東光電気監査役などを兼任[15]1948年(昭和23年)5月に関東電気工事監査役に就任、東京電力顧問に就任[16]

1955年(昭和30年)12月に藍綬褒章を受章[2][17]1964年(昭和39年)11月に勲四等瑞宝章を受章[2]1966年(昭和41年)2月15日老衰のため死去[4]、同日付で従五位を受位[2]

安川第五郎[注 6]によると、太刀川平治は非常に優れた技術者で、安川第五郎と親しかった東京帝国大学の同期の安蔵弥輔[注 7]は、猪苗代水力電気で技師長の太刀川平治のもとで働いていて、太刀川平治とともに東京電燈へ移ったという[18]

高井亮太郎[注 8]によると、太刀川平治は日本で最初に懸垂がいしを使用した送電線を建設運用して特別高圧送電技術の基盤を築き、後進の技術者の育成にも努め、寡黙勤勉で剛情な中にも温か味があり、部下たちから懐かれていたという[4]

太刀川平治によると、「猪苗代のときがいちばんおもしろかった」という[2]

家族・親戚

著書

遺稿

  • 『落葉集 太刀川平治遺稿』堀貞治[編]、太刀川眞治・私家版、1967年。

論文

脚注

注釈

  1. ^ 太刀川平治の次兄の太刀川平蔵は薬種商の家業を継ぎ、1899年明治32年)に太刀川善蔵を襲名
  2. ^ 1919年大正8年)6月に勅令第344号学位令第2条により工学博士号を取得。
  3. ^ 1925年(大正14年)4月から商工省
  4. ^ 大分県速見郡亀川村(現 別府市)出身の地熱発電研究者の高橋廉一から話を聞いている。
  5. ^ 1929年昭和4年)1月に退任[14]
  6. ^ 安川電機社長・会長、日本原子力発電初代社長、九州電力会長、東京オリンピック組織委員会会長などを歴任。板東英二夫人の大叔父にあたる。
  7. ^ 東京電力初代社長・会長・顧問。
  8. ^ 第2代東京電力社長。太刀川平治が著書『特別高壓送電線路ノ硏究』を執筆していた時(1921年(大正10年))、高井亮太郎は太刀川平治の助手・校正係を務めた[4]

出典

  1. ^ 長岡歴史事典』187頁。『越佐と名士』424頁。『越佐名士錄』423頁。『越佐人物誌 中巻』564頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 電氣學會雜誌』第86巻第930号、340頁。
  3. ^ a b c d e f 經濟學硏究』第79巻第2・3合併号、74頁。
  4. ^ a b c d 電氣學會雜誌』第86巻第930号、339頁。
  5. ^ 中京大学教養論叢』第11巻第1号、112頁。
  6. ^ 東北地方電氣事業史』197頁。
  7. ^ #100 次世代エネルギーを担う国内最大の地熱発電所!九州電力 八丁原地熱発電所 (13/02/28) - 地球★アステク伊藤洋一蒼あんな・れいなDJ.ナイク)、BSジャパン、2013年。
  8. ^ 地熱開発の歴史|地熱発電の開発資源エネルギー庁
  9. ^ これまでの歴史│JOGMEC地熱資源情報石油天然ガス・金属鉱物資源機構
  10. ^ 地熱発電の歴史|日本地熱学会
  11. ^ 地熱情報研究所│日本と世界の地熱開発の現状
  12. ^ 電氣學會雜誌』第70巻第738号、144頁。『一橋経済学』第7巻第2号、152-154頁。
  13. ^ 別府史談』第28号、101-102頁。『別府史談』第28号、16-17頁。
  14. ^ a b 歴代会長 | 一般社団法人 電気学会
  15. ^ 長岡歴史事典』187頁。『越佐と名士』424頁。『越佐名士錄』423頁。
  16. ^ 新潟県大百科事典 下巻』93頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1182頁。『越佐人物誌 中巻』564頁。
  17. ^ 新潟県大百科事典 下巻』94頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1182頁。
  18. ^ わが回想録』137頁。

参考文献

関連文献

学職
先代
中村幸之助
電気学会会長
第15代:1928年 - 1929年
次代
山本忠興