大津淳一郎

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大津淳一郎
大津淳一郎

大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日安政3年12月23日[1] - 1932年昭和7年)1月29日[2])は、日本の衆議院議員立憲改進党進歩党憲政党憲政本党立憲同志会憲政会立憲民政党)、貴族院勅選議員大東文化学院総長(第6代)などを歴任した。族籍は茨城県平民[1]

経歴

常陸国多賀郡折笠村(のちの茨城県多賀郡豊浦町、現在の日立市)出身。茨城県士族・大津正則の二男[1]1874年(明治7年)、分かれて一家を創立する[1]

水戸で漢学を修めた後、江戸に遊学した。1877年明治10年)、小学校の教員となるが、まもなく退職した。その後、板垣退助の民権論にふれ、1879年(明治12年)から水戸で政談演説会を開いて、自由民権運動を推し進めた。このころ片岡健吉河野広中らと親交を結び、興民公会という政社をおこした。翌年、大阪で開かれた国会期成同盟大会に参加し、ついで東京で開かれた自由党準備会に参加したが、意見が合わずに茨城に帰郷した。

帰郷後は茨城日日新聞を創刊し、主筆となった。その後、茨城県庁に出仕し、さらに1882年(明治15年)には県会議員に選出された。やがて県会議員を辞し、1885年(明治18年)に再び茨城県庁に入って兵事課長を務めた。1890年(明治23年)、県庁を退職し、東北物産会社の社長となった[3]

同年の第1回衆議院議員総選挙に立憲改進党から出馬し、当選。以後、13回当選を重ねた。その間、大蔵副参政官、文部参政官を務めた。1927年(昭和2年)4月18日、貴族院議員に勅選され[4]、立憲民政党相談役[5]、顧問を務めた。また1928年(昭和3年)には大東文化学院総長に就任した。1932年(昭和7年)、議員・総長在職中に死去。

人物

住所は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町[1]

栄典

家族・親族

大津家
  • 妻・もよ1854年 - ?、茨城士族、國友尚克の七女)[1]
  • 長男・鎌武1884年 - ?)[1]
  • 長女・1876年 - ?、千葉、大貫精三郎の長男秀太郎の妻)[1]
  • 二女・1881年 - ?、栃木士族、小島甚七郎の長男甚太郎の妻)[1]
  • 三女・1886年 - ?、東京士族、岡野敬次郎の弟昇の妻)[1]
  • 四女・1894年 - ?、島根士族、大庭榮三郎の長男満平の妻)[1]

著書

  • 日本官吏任用論(金港堂、1880年)
  • 志士の心血(磊磊堂、1894年)
  • 帝国憲政と道義(同文館、1912年)
  • 肇国の本義(柾木書院、1915年)
  • 世界変局と帝国の外交(進文館、1919年)
  • 大日本憲政史(宝文館、1928年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第5版』を89頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月21日閲覧。
  2. ^ 『官報』第1527号、昭和7年2月4日。
  3. ^ 『日本帝国国会議員正伝』p.435
  4. ^ 『官報』第89号、昭和2年4月19日。
  5. ^ 『大阪朝日新聞』1927年6月3日付[1] 神戸大学デジタルアーカイブ
  6. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。 
  • 『衆議院要覧下巻 大正13年12月』衆議院事務局、1924年。 
  • 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。 
  • 山崎謙『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。 
  • 木戸照陽『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。