壱岐島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。2001:268:c14c:4fb6:10d7:4344:9e2d:1cfd (会話) による 2021年2月23日 (火) 18:34個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

壱岐島
地形図
所在地 日本の旗 日本 長崎県壱岐市
所在海域 日本海玄界灘壱岐水道対馬海峡
座標 北緯33度47分0秒 東経129度43分0秒 / 北緯33.78333度 東経129.71667度 / 33.78333; 129.71667座標: 北緯33度47分0秒 東経129度43分0秒 / 北緯33.78333度 東経129.71667度 / 33.78333; 129.71667
面積 133.8 km²
海岸線長 167.5 km
最高標高 213 m
壱岐島の位置(長崎県内)
壱岐島
壱岐島
壱岐島 (長崎県)
壱岐島の位置(日本内)
壱岐島
壱岐島
壱岐島 (日本)
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

壱岐島(いきのしま)は、長崎県離島九州対馬の間に位置する。南北17km・東西14kmの壱岐島は『古事記』では「伊伎島(いきのしま)」とされ[1]、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)という[2]

玄界灘にあるこの壱岐島周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。

現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。

地理

壱岐島の空中写真。2017年5月11日撮影の148枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
壱岐島の地図

佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置しており、対馬海峡を隔てた北西海上に対馬がある。航路の距離は福岡市博多港から島の南西部の郷ノ浦港までが約74km、東松浦半島の呼子港(唐津市)から島の南東部の印通寺(いんどうじ)港までが約26kmである。

属島は原島長島大島若宮島の4つの有人島と、19の無人島がある[3][4]

集落の形成

島内は、農業集落と漁業集落に大きく分けられる。農業集落は「」(ざい)と呼ばれ、散村の形態をとるのに対し、漁業集落は「」(うら)と呼ばれ、集村の形態をとる[5]。そして、それぞれ農村集落には「」(ふれ)、漁業集落には「浦」が地名の末尾に付く。「触」の語源には、江戸時代の村方三役のうち扨頭(さすがしら)が藩命を触れ回った範囲の呼称に由来するとする説と、朝鮮語のプル(村の意)に由来するとする説がある[6]

「触」「浦」は、現在も壱岐市の行政区画である字の単位として用いられている。

気候・自然

岳ノ辻
壱岐島の猿岩

島の大部分は玄武岩に覆われた溶岩台地で、高低差が小さい。最高峰「岳ノ辻」は標高212.8mで、島の8割は標高100m以下である。岳ノ辻は約170万-140万年前(第4期)、100万-60万年前(第5期)に火山活動をしていた。溶岩台地以外では、北部に古第三紀始新世の堆積岩である「勝本層」、中部と南部に新第三紀中新世の「壱岐層群」が見られる。また、約1万年前までは九州と陸続きだったと考えられている。川は中部の幡鉾川と北部の谷江川があり、両方とも東向きへ流れるが、他は小河川である。

暖流対馬海流が対馬海峡を流れる影響もあり、気候は比較的温暖である。天気予報では「壱岐対馬」と一括して表示されることが多いが、自然環境の特殊性は対馬ほど強くなく、九州北部に近い。また、平坦な地形は田畑として利用されやすく、古来より自然環境への人的な影響が強かった。照葉樹林は島の各地に残るが、大規模な原始林は無い。

渡良のアコウが自生北限地であることと、陸続きだった九州北部と共通した淡水魚相が残ることが特徴である。ただし、淡水魚は相次ぐ河川改修を経てオオクチバスブルーギルが放流された現在では、数種が絶滅したと考えられている。

なお、春先に吹く強い南風のことで、今では気象用語となっている「春一番」の発祥の地は壱岐である。江戸時代幕末期の1859年安政6年)に「春一番」と呼ばれていた季節性の強い南風により地元の漁師が大勢遭難した海難事故をきっかけに広まったもので、1987年昭和62年)には、郷ノ浦港入口の元居公園に船の帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。

島々

画像 名前 範囲
km²
人口 最高点
メーター
ピーク 座標
壱岐島 133.8 13,178 213 岳ノ辻 北緯33度47分 東経129度43分 / 北緯33.783度 東経129.717度 / 33.783; 129.717 (Iki-no-shima)
原島 0.53 140 北緯33度43分23秒 東経129度38分56秒 / 北緯33.72306度 東経129.64889度 / 33.72306; 129.64889 (Harushima)
長島 0.51 170 北緯33度43分38秒 東経129度37分53秒 / 北緯33.72722度 東経129.63139度 / 33.72722; 129.63139 (Nagashima)
大島 1.16 200 北緯33度44分17秒 東経129度38分5秒 / 北緯33.73806度 東経129.63472度 / 33.73806; 129.63472 (Oshima)
若宮島 0.35 無人 99.7 北緯33度51分56秒 東経129度41分11秒 / 北緯33.86556度 東経129.68639度 / 33.86556; 129.68639 (Wakamiyajima)
"Iki Island"の全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

歴史

対馬とともに、古くから朝鮮半島九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』(ヘドンチェグッキ)[7]にも、壱岐島や対馬島についての記事がみられる。

原始・古代

縄文時代

縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[8]

弥生時代

中国史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」とあり、1家5人と仮定しても当時すでに15,000人もの人口が存在していたこととなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日時点での壱岐市の推計人口は、28,290人である)。

古墳時代

河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳をはじめとして数基が存在する。後期(6世紀)になると、島の中央部に鬼の窟古墳笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。鬼の窟古墳の近くには島分寺があり、壱岐直の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を、壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれており、これは回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられる[8]

律令制

令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉や雪連は一族であると考えられる[8]

平安時代1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司藤原理忠は賊徒と戦い、討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後は北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された(刀伊の入寇)。

なお、長田忠致源義朝を討った恩賞に壱岐守として赴任、湯岳に覩城を築く。

中世

中世には大宰府権能の消滅に伴い松浦党倭寇の勢力下に置かれる。鎌倉時代中期、モンゴル帝国大元ウルス)とその属国・高麗により二度にわたり侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、島民が虐殺を受けるなど大きな被害を受けた。

続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。

1472年文明4年)、岸岳城波多泰が壱岐に進攻、倭寇勢力を排除し勢力下に置く(なお波多氏松浦党一派の出自)。波多興(おき)の代、周辺豪族の有馬氏松浦氏ほかと姻戚の誼を結ぶ。後代の16世紀半ば(年代諸説あり)、波多盛(さこう)の死後、本家岸岳城でお家騒動が勃発。家老日高資と盛の後室・真芳(一説に有馬義貞娘)との抗争である。真芳方は盛の娘の嫁ぎ先である有馬義貞との子、藤堂丸を推し、壱岐島の代官らと通じて盛の弟ら(当時島に居た波多隆、重)を次々と誅戮、藤堂丸(波多親)を16代当主に据える(1556年弘治2年)。

真芳方がさらに資をも毒殺すると、資の子、日高喜に攻められ岸岳城を奪われる。真芳らは大村草野氏を頼り落ち延びる。喜は島を支配していた代官らを攻め滅ぼし、城主に盛の弟波多政を据えた(1565年永禄8年)。その後真芳らは龍造寺氏有馬氏を支援を得て反攻に出る。喜は松浦隆信に支援を求めるが破れ、壱岐島に逃れたのちを誅戮し自ら城代となる(1569年永禄12年)。岸岳城を奪還した波多親は島を攻めるが、喜が領地と引替に支援を求めた隆信との連合軍に敗退した。結果、島は喜の娘を嫁がせた隆信の子信実が城代として治める事となった。[9]

近世

江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。

近現代

1871年(明治4年)廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。島内にあった2つの郡は1896年郡区町村編制法で統合され、壱岐郡1郡となった。自治体としては、1889年(明治22年)の町村制度施行当初は壱岐郡に7村、石田郡に5村の計12村が発足したが、町制施行や合併を繰り返し、昭和の大合併を経て1970年(昭和45年)までに郷ノ浦町勝本町芦辺町石田町の4町に再編された。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併して市制が施行され、壱岐市が誕生した。

行政区域の変遷については、壱岐市#歴史を参照のこと。

産業

農業・漁業といった第一次産業が中心である。戦後に葉タバコの栽培と肉用の生産が盛んになった。

特産品としては焼酎が有名である。麦焼酎発祥の地で、世界貿易機関から壱岐焼酎として保護産地指定を受けている。肉用牛も壱岐牛として特産品化している。また、海産物の特産品も多い。

レオタードを着ての漁

壱岐島の東部・八幡(やはた)地区では、今も海女が古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいるが、ウェットスーツではなく、レオタードを着て海に潜っている。これは、八幡では昔から乱獲を防ぐため、ウェットスーツの着用を禁止しているからである。

伝統漁の「海女」と「レオタード」を組み合わせて「レオタード漁」と呼ばれることがある。

八幡の海女の仕事は5月1日から9月末までとなっている。

観光

島は、温泉、ホテル、ビーチ、ゴルフ場、キャンプ場がある観光地として宣伝されている。 島の北海岸にはイルカ水族館がある。

文化

祭事

催事

  • 壱岐の島新春マラソン大会(1月)
  • 壱岐綱引大会(2月)
  • 一支国ウォーク(3月)
  • 壱岐オープンテニス大会(5月)
  • 壱岐サイクルフェスティバル(6月)
  • 辰の島フェスティバル(7月)
  • 壱岐の島 夜空の祭典(8月)
  • 一支国幼児相撲大会(9月)
  • 壱岐ウルトラマラソン(10月)
  • 湯本温泉港まつり(10月)

交通

壱岐空港(1977年)

国道382号が島の北西部から南西部へそして南西部から南東部へ"L"字型に貫き、主要県道が国道と各地域をつなぐ。鉄道はなく、壱岐交通路線バスを運行している。

島外との連絡

南西部に郷ノ浦港、南東部に印通寺港、東部に芦辺漁港、北部に勝本港が設置されている。町の南東端には壱岐空港がある。

郷ノ浦港
九州郵船により、博多港福岡市)および対馬との間を結ぶフェリージェットフォイルが運航されている。車両航送を伴わない旅客は、高速のジェットフォイルを主に利用する。また、壱岐島の属島である原島長島大島への航路も、壱岐市により運航されている。
印通寺港
九州郵船により、唐津東港佐賀県唐津市)との間を結ぶフェリーが運航されている。かつてこのフェリーは長崎市と唐津東港を結ぶ高速バス「レインボー壱岐号」と連絡し、長崎市と壱岐を結んでいた。なお、レインボー壱岐号は2012年3月31日をもって廃止された。
芦辺港
九州郵船、壱岐・対馬フェリーにより、博多港および対馬との間を結ぶフェリーと、九州郵船によるジェットフォイルが運航されている(法的には港湾ではなく漁港である)。
勝本港
勝本町漁協と辰の島観光の2社が、夏場のみ定期航路として壱岐北部の辰の島を結んでいる。オフシーズンは予約制の不定期航路となっている。
壱岐空港
オリエンタルエアブリッジにより、長崎空港への航空便が運航されている。

宿泊施設

脚注

  1. ^ 伊東ひとみ『地名の謎を解く』新潮社、2017年、10頁
  2. ^ 次生伊伎嶋。亦名謂天比登都柱(『古事記』)。
  3. ^ 8 島しょ”. 長崎県統計年鑑 平成22年. 長崎県. 2013年7月14日閲覧。
  4. ^ 壱岐市の統計 市勢要覧統計資料編 平成22年版”. 壱岐市. p. 1 (2011年5月). 2013年7月14日閲覧。
  5. ^ 『日本地名大百科 ランドジャポニカ』 小学館、1996年、p.77。ISBN 4-09-523101-7
  6. ^ 『日本地名大百科 ランドジャポニカ』 小学館、1996年、p.77。ISBN 4-09-523101-7
  7. ^ 申 叔舟『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』田中健夫訳注 , 岩波文庫、1991年、ISBN 4-00-334581-9
  8. ^ a b c 岡崎敬『魏志倭人伝の考古学』第一書房 2003年
  9. ^ なお、壱岐の代官らの一人に松本左近なる人物が居り、いっぽうトカラ列島(七島)口之島住人に松本壱岐重次なる人物が居り、琉球侵攻前の16世紀後半、重次の子が琉球王国に鄭明恵・照喜名親雲上重時として出仕、また、七島中之島住人に日高六右衛門なる人物が居り、侵攻後の17世紀前半、六右衛門の子が同じく密日栄・志良堂親雲上清房として出仕している記録がそれぞれ見られる。

参考文献

  • 財団法人日本離島センター編『日本の島ガイド SHIMADAS』ISBN 4931230229
  • 長崎県環境部自然環境課編『ながさきの希少な野生動植物』(該当部執筆者 : 鎌田泰彦・邑上益朗・松尾公則・鴨川誠・東幹夫・池崎善博)2001年発行

関連項目

外部リンク