内乱の一世紀

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内乱の一世紀(ないらんの1せいき)とは、共和政ローマ後期における、紀元前133年ティベリウス・グラックスとローマ元老院(セナトゥス)の対立によるグラックスの死から、紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得て実質的に帝政がはじまるまでのおよそ100年をさす。

英語などでは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republic)と呼ばれる。

前史

紀元前218年、アルプス山脈を越えるハンニバルの軍(第二次ポエニ戦争
画面中央で指揮仗を翳しているのがハンニバル

ローマの起源は、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がテヴェレ川のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)。当初エトルリア人による王政下にあったローマは紀元前509年、この異民族の王を追放して貴族による共和政を始め、2名の執政官(コンスル)を指導者として、定員300名の元老院が大きな力を持っていた(共和政ローマ)。紀元前494年には護民官(トリブヌス・プレビス)の制度も整えられ、平民(プレブス)も政治に参加していった。

都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤として編成された重装歩兵部隊を中核とする市民軍の軍事力によってイタリア半島の諸都市国家を統一(紀元前272年)、さらに3回にわたるポエニ戦争によってカルタゴを滅ぼし地中海に覇権を伸ばし、広大な領域を支配するようになった。

ラテン語Senatus Populus que Romanus(「ローマの元老院と民衆」)の頭文字をとった略号
ローマ人が自らの国家を示すとき、この略号を用いた。元老院とその他民衆という明瞭な区別の存在を示す

しかし、共和政ローマの統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのにふさわしいものではなかった。征服地の拡大と共にローマは征服地の一部を公有地としつつも、貴族にその占有を許可した。貴族は、属州(プロウィンキア)からの安価な穀物果実の流入と奴隷労働力の流入によって没落してゆく農民の土地もあわせて大農場経営(ラティフンディウム)をおこなった。属州では、徴税請負人(プブリカーニ)が属州総督とむすんで国家に納める税以上の負担を属州民から搾り取った。一方で没落した農民は多数ローマに流入して、都市ローマの人口は膨れあがり、貧しい住民はしばしば饑餓に陥った。無産者となった彼らはしばしば「パンとサーカス」を要求した。

また、従来は土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制も危機に瀕していた。重装歩兵にかわって無産者や属州民の傭兵が軍の主力をなすに至ったのである。元老院は領土が拡大されるたびに制度改良をおこなって、このような諸問題に対処してきたが、元来が都市規模の国家を統治するためのシステムを踏襲してきたため、そうした改革にも限界があった。

展開

グラックス兄弟の改革

上述のように、ローマの拡大は反面ではさまざまな「ゆがみ」をもたらしたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で応えた。紀元前139年シチリア島でローマを揺るがす大反乱(第一次奴隷戦争)が起こる。また、紀元前133年から紀元前130年にかけてペルガモン王国の自称「王」アリストニコスがローマ支配に対し反乱を起こし、奴隷や貧農に呼びかけて拡大した。これらの騒乱自体は鎮圧されたもののローマ共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。

腐敗した共和政を改革すべく、民衆派(ポプラレス)のティベリウス・グラックスが護民官としてセンプロニウス農地法(リキニウス法)を実行に移して、大土地所有の制限や無産農民の土地分配を図るなど社会再建にむけた制度改革を推進したが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者たちと共に非業の死を遂げた。ここに、ローマ市で市民同士が血を流して争う事態となり、これよりほぼ100年間、ローマでは「内乱の一世紀」と呼ばれる内乱状態がつづくこととなる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウス・グラックスもまた元老院と対立するも失脚し自害、数千人といわれる支持者たちもまた処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫によって共和政ローマの混迷は決定的なものとなった。それは、法の無力、実力時代の到来を示すできごとであったのである。

マリウスの軍制改革と同盟市戦争

軍団兵

紀元前2世紀の終わり、軍人出身の執政官で民衆派のガイウス・マリウスは上述した歪みの1つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革をおこない、それまでの自作農からの徴兵制から志願兵制に切り替えることで軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功した。またマリウスは自らの改革によって精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアから南下して来ていたキンブリ、テウトニらゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争、前113年 - 前101年)、ヌミディアユグルタがローマ高官を買収し北アフリカでおこした反乱(ユグルタ戦争、前111年 - 前105年)にも勝利して、ローマの国防力再建に成果を挙げた。

しかし軍内部でイタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため(徴兵制時代のローマ市民兵は義務として軍の中核となり危険な任務を担ったが、軍制改革で志願兵制に移行して以降はこれが無くなった)、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことでイタリア半島内の諸同盟市の大反乱を引き起こすこととなる(同盟市戦争、前91年 - 前88年)。同盟市戦争は、マリウスの副官であった閥族派(オプティマテス)のルキウス・コルネリウス・スッラが元老院の了解のもと、イタリア半島内の諸都市住民の市民権付与を約束して鎮定されたが、軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人に代わったことで、次第に元老院やローマ市よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の要因のひとつともなっていった。

マリウスとスッラによる内乱

スルピキウス法

マリウス

政治的駆け引きからマリウスは民衆派議員で、非道な人物との評判であった護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスと手を結んでいた。スルピキウスは敵対者から「スルピキウスを上回る悪党は、明日のスルピキウスに他ならない」とまで言われるほど、様々な悪徳を行ったという。

マリウスの子飼いであったスルピキウスは兵士と資金を集め、スッラが再び前線へ視察へ向かった隙に3000名の兵士を率いて反乱を起こした[1]。マリウスは元老院を占拠すると、ポントスミトリダテス6世討伐(ミトリダテス戦争)への指揮権を自らに譲渡するスルピキウス法を制定させた[2]。マリウスに従えられた元老院はスッラに使者を送ったが、スッラは兵士達を説得して使者を殺害させた[3]

マリウスはローマで閥族派議員に対する粛清を行い、腹心スルピキウスを使って元老院を支配下に収めていた。追い詰められつつあったスッラはローマ進軍という暴挙に及ぶ決断を下した。スッラの元には再三に亘って禁じられているローマへの行軍と止めるよう、元老院からの勧告が出された。しかしスッラはこれに従わず、説得を行ったブルートゥスとセルウィリウスという名の法務官からファスケスを奪って叩き壊し、元老院議員用のトガを剥ぎ取ってローマに送り返している[4]。元老院政治の一つの象徴でもあるファスケスへの侮蔑は元老院を大いに失望させた。

ローマ進軍

スッラ

スッラの使者への侮蔑はローマ進軍という行為への決断の証であったが、当のスッラも前日まで大罪を犯すかどうか悩んだ[5]。だが枕元に自らの行為を賞賛する女神が訪れる夢に励まされ、攻撃を命令したという[6]。対するマリウスは浮き足立つ民衆派の議員をまとめて、ローマ防衛の準備を大急ぎで進めていた。

未明にローマへたどり着いたスッラ軍に元老院は城門を空けてスッラ達を招き入れた。彼らはスッラの全ての権限が復権される事を約束し、その代わりに陣営を設営するのみに留め、即時攻撃を取りやめる事を要請した。スッラはこれを受け入れる素振りを見せたが、交渉役がエスクイリヌス城壁を通ろうとした所で猛然と攻撃を開始して、一挙に城門を突破した[7]

スッラの騙し討ちにローマ市民は激怒して自ら武装してスッラ軍に襲い掛かり、また武器を持たぬ者は屋根瓦を兵士達へ投げつけた。予想以上の抵抗に軍団兵は市民兵に苦戦を強いられ、スッラは火矢を当たりかまわず家屋へ打ち込む様に命令を出した。火は瞬く間に家屋へ燃え移り、市街地は大火災に見舞われて大勢のローマ市民が犠牲となった。その過程で民衆派と閥族派を区別する考慮はスッラには全く無かった[8]。攻撃時、奴隷達に防衛軍への参加を促していたマリウスはテルス神殿に逃れ、そこからローマ国外へと亡命した[9]

マリウスと一族が逃げ去った後、スルピキウスは使用人によって暗殺された[10]。スッラはマリウスに懸賞金を賭けてローマ全土で行方を捜させた[11]。スッラは元老院への主導権を取り戻したが、暴挙の影響から元老院内には少なからぬ反スッラ派が形成されていた[12]。確実な政権樹立にはまず対外戦争に決着をつけるべきと考えたスッラは、同じコルネリウス一門出身で閥族派のルキウス・コルネリウス・キンナに後事を任せてミトリダテス戦争へ復帰した。

スッラの帰還と終身独裁官就任

ミトリダテス6世を表した硬貨

紀元前86年、マリウスは7度目の執政官となったものの直後に死去し、新たに民衆派の指導者となったキンナは事実上の独裁制をしいた。キンナはミトリダテス6世の討伐のため「正規軍」を同僚のフラックスに託して派遣。スッラはポントス勢力と「正規軍」の両方に挟撃されて窮地に陥ったが、ミトリダテス6世軍に対して2度にわたり大勝した。ミトリダテス6世はスッラの恫喝により講和に応じ、キンナが派遣した「正規軍」はスッラの策謀によって戦わずしてスッラの軍勢に吸収された。これに危機感を覚えたキンナはスッラ討伐のための軍団を集めたが、その過程で事故死した。こうしてスッラは妨害されることなくイタリアへ上陸した。しかし、スッラによる報復を恐れた民衆派が必死になって抵抗したため、ローマへの帰還はさらに2年の歳月を要した。

マリウスとキンナ亡き後の民衆派はその後もスッラに抵抗したものの既にスッラの敵ではなく、紀元前81年、ローマを奪還したスッラは終身の独裁官(ディクタトール・ペルペトゥア)に就任。元老院の定員を600名に増員したほか、その権限を強化し、軍制の改革を断行するいっぽうで民衆派を大規模に粛清した。この6年にわたる内戦でローマの犠牲者は数万人におよんだ。

第一回三頭政治とカエサル

第三次奴隷戦争

動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から有力な個人による統治へと性質を変化させていった。

スッラの死後、ローマは紀元前73年から紀元前71年にかけて剣奴スパルタクスの反乱が起こったが(第三次奴隷戦争)、それを鎮圧したローマ一の大富豪でエクィテス(騎士)出身のマルクス・リキニウス・クラッスス、ローマ軍の重鎮でポントス王国の反ローマ戦争(第三次ミトリダテス戦争、前74年 - 前63年)を破ってミトリダテス6世を自殺に追いこみ、紀元前63年セレウコス朝シリアを滅ぼしてシリアとパレスチナを平定したグナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの義理の甥として民衆派を指導していたガイウス・ユリウス・カエサルが台頭していた。

元老院議場でカティリナを弾劾するキケロ(19世紀マッカリによるフレスコ画)

紀元前63年にはルキウス・セルギウス・カティリナによる国家転覆計画が発覚したが、執政官マルクス・トゥッリウス・キケロ小カトの助力を得て首謀者を死刑とする判断を下して元老院より「祖国の父」(pater patriae)の称号を得ている。一方元老院は有力者であるポンペイウス、カエサル、クラッススの活動を抑えようとしたため、紀元前60年、3人は互いに密約を結んで国政を分担する第一回三頭政治が実現した。

紀元前60年にはポンペイウスとクラッススが、紀元前59年にはカエサルが執政官となり、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリア、カエサルは未平定のガリアの特別軍令権を得て、それぞれを勢力圏とした。ポンペイウスは東方で戦った自分の兵士への土地分配をおこなった。クラッススはパルティアとの戦争を受けもったが、紀元前53年カルラエの戦いに破れてカルラエで戦死し、その首級はオロデス2世のもとに送られた。紀元前58年から紀元前51年にかけてのガリア戦争の成功によって名声を挙げたカエサルには、ガリア統治権がゆだねられた。

カエサルの暗殺

クラッススの死後、カエサルの台頭を危険視したポンペイウスは、それまで対立していた元老院と妥協し、ポンペイウスとカエサルは完全に対立するようになった。元老院はポンペイウスと結んでカエサルを「公敵」であると宣言、それに対しカエサルは紀元前49年ルビコン川をわたってローマを占領、内戦が始まった。ファルサルスの戦いを経た後、エジプトに逃れたポンペイウスはプトレマイオス13世の側近により殺害された。

ポンペイウスを追ってエジプトに着いたカエサルはクレオパトラ7世プトレマイオス朝の王位につけて、圧倒的な民衆の支持を背景にローマの権力を一手に収めると紀元前46年に終身独裁官となり、属州の徴税請負人の廃止、無産市民の新植民地市の建設、ユリウス暦の制定など急進的な政治改革を推進した。大がかりなモニュメントがつくられ、イベントも開催された。

しかし、こうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年、反対派の元老院議員達によって暗殺された。

第二回三頭政治と帝政のはじまり

カエサルの大甥にあたり、事後を託されたガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスは、カエサルの腹心であったマルクス・アントニウス、カエサルの副官最高神祇官マルクス・アエミリウス・レピドゥスの助けを借りて反カエサル派の元老院議員を一掃した。3人は「国家再建三人委員会」を市民集会によって認定させて正式な公職として発足させた(第二回三頭政治)。

「アウグストゥス」の称号を得たオクタウィアヌス(大理石製)

しかし、紀元前42年フィリッピの戦いなどにより、長年の政敵キケロや、カエサル暗殺の首謀者ブルトゥスカッシウスなどの共和派の巨頭が一掃されると、アントニウスとオクタウィアヌスのあいだで主導権をめぐって対立が深まった。紀元前40年にはブリンディシ協定が結ばれ、ローマの勢力範囲を三分することになり、この時アントニウスはヘレニズム世界、オクタウィアヌスは西方全域、レピドゥスはエジプトを除くアフリカ全域の統治を任されている。紀元前36年、シチリアで最後の反カエサル派でポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスとの戦い(ナウロクス沖の海戦)があった後、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗、同年失脚した。

アントニウスとオクタウィアヌスの対立は、再び内戦へと発展した。オクタウィアヌスは、エジプトの女王クレオパトラ7世と組んだアントニウスを紀元前31年アクティウムの海戦で撃ち破り、翌紀元前30年にはアントニウスが自殺して「内乱の一世紀」とよばれた長年にわたるローマの混乱を収拾した。一方、300年つづいたプトレマイオス朝エジプトが滅亡、ローマに併合されて地中海世界の統一をも果たした。

オクタウィアヌスは戦争後の処理がすむと、非常時のためにゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、紀元前27年、救国の英雄となったオクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」という神聖な称号を受けた。自らは「プリンケプス」(第一市民)を名のったものの、事実上は最初の「皇帝」となり、カエサルの諸改革を引き継いでいくこととなった。帝政ローマのはじまりである。

結果

慎重なオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとり、「インペラトル・カエサル・アウグストゥス(Imperator Caesar Augustus)」の称号を許された。オクタウィアヌスは共和政の伝統のもとに合法的な個人支配を確立したのである。ここではじまった帝政ローマ前期の政治体制は元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。オクタウィアヌスは、内乱後の秩序の回復に努め、ローマ市を整備して属州統治に尽力したほか、「市民は戦士である」という原則を復活させた。これにより「ローマの平和」という繁栄と安定の時代がもたらされるのである。

ポプラレスとオプティマテス

「内乱の一世紀」はポプラレス(民衆派)とオプティマテス(閥族派)という対立の図式を基本として展開されてきた。

ポプラレス(populares)は、民会を自らの政治基盤とし、古代ローマ社会唯一の権力集合組織であった元老院の政治力に立ち向かおうとした勢力である。グラックス兄弟、マリウス、クラッスス、ポンペイウス、カエサル、そしてカエサル配下のオクタウィアヌス、レピドゥス、アントニウスがいる。ポプラレスたちの支持基盤は民会および市民集会にあり、プレブス達の歓心を買うため、自由ではあるが貧しい市民の社会保障や雇用に力を入れ、とくに無料でパンを配布するなど救貧活動を展開することが多かった。このほか、既存勢力に敵対したポプラレスはローマ市民権の拡大や軍団の私兵化によって自らの勢力の増強を図った。市民権の拡大は増加した新市民を自らの勢力とすることが期待でき、また私兵化した軍団は自身の政治目的実現のための実力となりえた。ローマ市民権を持つ自由民には人気が高かったが、既存勢力である元老院とは対立し、しばしば対抗権力として護民官の制度を活用した。カエサル暗殺後はポプラレス同士であるオクタウィアヌスとアントニウスの権力闘争となった。

オプティマテス(optimates)とは、こうしたポプラレスに対抗した人々をさした。元老院は「父祖の遺風」と呼ばれる伝統的保守的傾向の強いローマの政治風土のもと強い影響力を保持していた。既得権を有したノビレスを中心にポプラレスへの反対者は多く、これらの人びとは従来のローマの伝統の維持を求めた。したがって、軍の私兵化や元老院を凌駕する政治力を身につけようとする個人の台頭を警戒した。スッラやキケロが代表者である。

「内乱の一世紀」は、グラックス兄弟の改革の挫折より始まってオクタウィアヌスによる帝政開始で終わりを告げた。見方を変えれば、これは、ポプラレスによる元老院およびオプティマテスに対する挑戦と最終的な勝利への過程ととらえることも可能である。ただし、オクタウィアヌスの慧眼と周到さはこの内乱の性質と経緯をよく見定めていた。みずからへの権力集中が、決して君主政への逆行ではないことを行動であらわし、オプティマテスに属する人びとの不安と懸念をやわらげる配慮を示したのである。

引用

  1. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p351
  2. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p351
  3. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p353
  4. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p353
  5. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p355
  6. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p355
  7. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p355
  8. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p355
  9. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p355
  10. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p357
  11. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p357
  12. ^ 「The Parallel Lives」The Life of Sulla p357

関連項目