六角川
六角川 | |
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水系 | 一級水系 六角川 |
種別 | 一級河川 |
延長 | 47 km |
平均流量 |
2.94 m³/s (妙見橋観測所 2000年) |
流域面積 | 341 km² |
水源 | 神六山(佐賀県) |
水源の標高 | 447 m |
河口・合流先 | 有明海(佐賀県) |
流域 | 日本 佐賀県 |
六角川(ろっかくがわ)は、佐賀県中部を流れる六角川水系の本流で一級河川。
地理
武雄市西部の山地に発し、概ね東流。白石平野を流れる中流域では蛇行が甚だしい。下流域で牛津川を合わせ、有明海に注ぐ[1]。
流れが緩やかで、また有明海最深部に流入しているため、河口から29km地点まで海水の遡上が見られる。河口部では江戸時代から干拓が行われ、また海苔養殖も盛ん[2]。
牛津川合流点より下流には河口干潟があり、有明海の干潟と連続している。また海水が遡上する感潮域には、遡上に伴い厚く堆積する浮泥(ガタ土)がみられる[3]。
潮の満ち引きに伴う水流や水位の変化を利用した水運が近代まで行われていた。国内石炭産業の最盛期(昭和20年代後半)は、大町町の土場口から下流は杵島炭鉱から産出した石炭を河口近くの住ノ江港まで運ぶ運炭船で賑わっていた[4]。
小城市芦刈町には干潟体験場・生き物観察場があり[5]、この付近を含めた河口堰から河口までの約4kmの区間が、県によりムツゴロウ・シオマネキの採捕を禁じる保護区に指定されている[6]。
名称の由来
古くは沿岸の地名から「六角江」「高橋江」「大町の入江」などと呼ばれた。「六角川」という名前は江戸時代に長崎街道がこの川の沿岸にあり、水運も盛況であったことより、街道筋には多くの宿場町が栄え、中心地区であった六角地区(現在の白石町六角神社一帯)の地名に由来すると言われる[7][8]。
水害・治水
六角川本川の両岸に限って(牛津川を除いて)も、1953年(昭和28年)6月、1967年(昭和42年)7月、1980年(昭和55年)8月、1990年(平成2年)7月などに洪水被害が発生している。1980年と1990年のいずれも、武雄市橘町や北方町で破堤・越水が起こり、武雄市東部から北方町、大町町、江北町、白石町、福富町、芦刈町、牛津町の広い範囲が浸水した[9]。
下流域は干拓された低地が広がり、かつ湾奥に位置し波の吹き寄せが大きいこともあって、1956年(昭和31年)8月、1959年(昭和34年)9月、1985年(昭和60年)8月に台風による高潮被害も発生している[10]。
江戸初期、現在の武雄市橘町では佐賀藩の成富兵庫茂安の手により大日堰の建設と三法潟の開発が行われた。この地域は低地が広がっているものの感潮域であるため六角川からの取水ができなかったが、塩分を含む水の遡上を堰により受け止め真水を確保するとともに、両岸に水路と樋門を設け利水・治水を行った[11][12]。
また流路はかつて幾重にも蛇行していたが、少なくとも江戸時代からこれを短絡する捷水路の工事が各所で行われた[11]。旧河道の多くは水田化されて視認できないが、江北町の八丁(八町)では旧河道がいまも排水路として利用されている。
昭和初期から県の事業として築堤や川底の浚渫が行われた。1966年(昭和41年)に一級河川に指定されるが、その8年前から国庫補助のある直轄事業として堤防改良や拡幅、排水ポンプ場の整備が進められた。その後、1980年(昭和55年)の洪水被害を受け計画高水位までの無堤箇所を解消したが、1990年(平成2年)再びの洪水被害を受け、拡幅や排水ポンプ場増強、牛津川中流に牟田辺遊水地建設が行われた。また1959年(昭和34年)の高潮被害を受けて、河口から河口堰までの最下流区間では海岸と同等のT.P.+7.5mの堤防が整備されてきた[13]。
水利用
六角川の中下流域は水田地帯だが、塩水が混じる感潮区間が長いため河川からの取水が難しく、ため池や堀(クリーク)、「高畝うち[注 1]」、地下水などを水源としてきた[15]。その後、ポンプによる揚水技術が急速に普及、水量を求めて深井戸を掘り、くみ上げて農業用水を補うことが一般的となった。その弊害として地下水位の低下を招き、軟弱な粘土層が分布する白石平野の広範囲で昭和40年代から地盤沈下が問題となった[14]。
中流の北方町大渡にある永池堤(永池の堤)は江戸初期に築造された上・中・下と三段のため池で、白石平野(白石町)北部の農業用水として使用されている。当時、堤体には水を通さない粘土を突き固めた「ハガネ」を芯として堤体を強化する工夫が施されていた。現代になって容量増と補強が行われたが、同じ場所で稼働している[15][16][14]。
武雄市では上水道・工業用水道の水源として利用されている[17]。
六角川河口堰
六角川河口堰(ろっかくがわかこうぜき)は、白石町福富の河口から4.6km地点にある可動堰。1983年(昭和58年)3月完成。当初は高潮防止と不特定用水の補給(堰き止めにより淡水を確保、灌漑用水等に充てる)を主目的としていたが、漁業影響を懸念する有明海の漁業者の反対が大きく、また農業を取り巻く環境の変化もあって、用水利用は断念される。現在、高潮防止を唯一の目的として潮位が上がる際に一時的に閉門するだけの運用が行われている[14][17][18]。
不足する農業用水については、1973年(昭和48年)着工の嘉瀬川ダムからの灌漑を利用することとなった。しかしこのダムも移転交渉等が長引き2012年(平成24年)にようやく完成となる[14][17][18]。これに先立って2001年(平成13年)から嘉瀬川を水源とする上水道(佐賀西部広域水道企業団の運営)が通水開始、(旧)白石町などで水源が地下水から切り替わったことで地盤沈下が鈍化する効果があった[19]。なお、嘉瀬川ダムに湛水した用水は川上頭首工で取水、佐賀西部導水路を通じ白石平野まで送られる[20]。嘉瀬川には流況調整河川である佐賀東部導水路を通じて筑後川から融通があるため、主に渇水時には間接的に筑後川から取水する形となる。
流域の自治体
主な支流
並行する交通
鉄道
道路
主な橋梁(河口から順に)
- 有明六角川大橋(建設中、佐賀福富道路=有明海沿岸道路)
- 住の江橋(国道444号)
- 新渡大橋
- 六角橋(国道207号)
- 六角川橋梁(JR長崎本線) - 直下の堤防は幅が狭く、改修が求められる部分とされている[21]。
- 大町橋(佐賀県道214号)
脚注
注釈
出典
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.1
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.2,p.14
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.3,p.7
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.17
- ^ 「海遊ふれあいパーク」小城市役所 商工観光課、2019年4月9日、2019年8月12日閲覧
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.11
- ^ “【六角川】の概要/国土交通省九州地方整備局河川部”. www.qsr.mlit.go.jp. 2019年9月7日閲覧。
- ^ “1.六角川の概要”. 国土交通省九州地方整備局河川部. p. 17. 2019年9月8日閲覧。
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.22,pp.25-27.
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、p.31.
- ^ a b 「六角川水系河川整備計画」、p.32.
- ^ 島谷幸宏、「佐賀の歴史的水辺を検証する 成富兵庫茂安の足跡」、ミツカン水の文化センター、『水の文化』、32号、2009年7月
- ^ 「六角川水系河川整備計画」、pp.35-38.
- ^ a b c d e 荒牧軍治「成富兵庫茂安から現代へ」九州地方計画協会、『九州技報』、第50号、2012年1月
- ^ a b 「六角川水系河川整備計画」、p.39.
- ^ 「河川伝統技術データベース:分類別リスト【堤防】 整理番号591」、国土交通省、2019年8月12日閲覧
- ^ a b c 「六角川水系河川整備計画」、pp.38-39.
- ^ a b 「六角川」『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク収録)、小学館、2019年8月12日閲覧
- ^ 「全国地盤環境情報ディレクトリ 筑後・佐賀平野(佐賀県))」、環境省、2019年8月12日閲覧
- ^ 「事業概要」、九州農政局 筑後川下流白石平野農業水利事業所、2019年8月12日閲覧
- ^ 「治水対策」武雄河川事務所、2019年8月12日閲覧
参考文献
- 六角川水系河川整備計画 国土交通省九州地方整備局、2012年8月