倭玉篇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Pekanpe (会話 | 投稿記録) による 2018年9月7日 (金) 21:43個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎構成・内容)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

倭玉篇』(わごくへん)は、『和玉篇』とも書き、室町時代に成立した部首引きの漢和辞典である。著者および正確な成立年は明らかでない。

『倭玉篇』に先行する字典として『字鏡集』があり、その影響が認められるが、主に『大広益会玉篇』によって内容を整備した[1]

室町時代には『玉篇』を「ごくへん」と呼んでおり、「わごくへん」という読みは『運歩色葉集』に見えている[2]

構成・内容

『倭玉篇』は部首引きの漢和辞典である。室町時代の写本では部首は300ほどに分かれ、部首の数や順序は本によって大きく異なる。慶長15年(1610年)刊本では『大広益会玉篇』の部首の順序を採用し(ただし65部首少ない477部首)、江戸時代の本は多くこれにならった[3]

単漢字を主とするが、熟語も載せられている。原則としてを漢字の右に、を下にカタカナで記す。慶長15年本は5496の訓が付され、濁点を省略せずに詳しくつける傾向があるため、清濁を知るための資料として重要である[3]

成立年は明らかでないが、古い写本として長享3年(1489年)や延徳3年(1491年)の書写年を持った本がある。うち長享3年本は関東大震災で焼失したが、副本が残る[4]慶長以前の古い抄本は30種ほど、刊本は9種を数える[5]。江戸時代の刊本としては慶長中古活字版をはじめ40種以上のものがある[1]

室町時代から江戸時代にかけてもっとも普通の部首引き漢和辞典として流行し、寛文4-5年ごろには部首画数引きのものも出現した。ほかに真草二行本や絵入り本など、さまざまな工夫を施した本が作られた。明治時代に至るまで「倭玉篇」の名前は漢和辞典の別称として用いられた[1]

脚注

  1. ^ a b c 山田 (1961) pp.982-983
  2. ^ 川瀬(1986) p.683
  3. ^ a b 中田・北(1966)の中田祝夫による解説
  4. ^ 岡井(1934) p.224
  5. ^ 中田・北(1966)の中田祝夫による序文

参考文献

  • 岡井慎吾『日本漢字学史明治書院、1934年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225345 
  • 川瀬一馬『古辞書の研究』(再版)雄松堂出版、1986年(原著1955年)。ISBN 4841900209 
  • 中田祝夫、北恭昭『倭玉篇 研究並びに索引』風間書房、1966年。 
  • 山田忠雄「和玉篇」『国語学辞典』(訂正7版)東京堂、1961年(原著1955年)、982-983頁。