信濃国

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信濃国

-信濃国
-東山道
別称 信州(しんしゅう)
所属 東山道
相当領域 長野県岐阜県中津川市の一部[1]
諸元
国力 上国
距離 中国
10郡67郷
国内主要施設
信濃国府 1.(推定)長野県上田市
2.(推定)長野県松本市
信濃国分寺 長野県上田市(信濃国分寺跡
信濃国分尼寺 長野県上田市(信濃国分尼寺跡
一宮 諏訪大社(長野県諏訪地域)
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信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。

万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる [注釈 1])」。

「信濃」の名称と由来

古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。

「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある[2]

7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである[3]。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた[4]。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179年)に仁科盛家覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。

神代に見える科野国

神代国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。

一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。

また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達[注釈 2]が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。

歴史

古代

史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。景行天皇の時代には、神代に諏訪へ来臨したと伝わる建御名方神の後裔である建大臣命が初代洲羽国造に任じられとされ、系図では科野国造家と洲羽国造家の間で複数回の通婚が見られる。また景行天皇の時代、その子の倭建命が科野国を訪れ、南信では八意思兼神の後裔赤津比古命が倭建命をもてなしたとされる。この一族は後に大御食神社社家になったと伝わり、支族の知知夫彦命が崇神天皇の時代に知々夫国造に任じられた。

考古遺物としては4世紀前期から6世紀初頭にかけて、北信で埴科古墳群川柳将軍塚古墳など、ヤマト王権の影響を受けた前方後円墳が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に代田山狐塚古墳が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、5世紀後半から6世紀末頃にかけて飯田古墳群が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には箕輪町松島王墓古墳が築造され、筑摩郡周辺にも弘法山古墳が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が円墳を中心に再び築造される。しかし諏訪地域への古墳文化の流入は遥かに遅く、5世紀代にフネ古墳片山古墳が築造されるものの、前方後円墳は下諏訪青塚古墳が唯一築造されるにとどまった。

6世紀後半には欽明天皇の時代に科野国造後裔の金刺舎人氏敏達天皇の時代に同じく科野国造後裔の他田舎人氏、時期不明であるが諏訪氏の前身となる洲羽国造後裔の神人部直氏の三氏族が成立し、後にそれぞれが諏訪大社下社大祝家、小県郡大領、諏訪大社上社大祝家となった。 7世紀大化元年(645年)の大化の改新の後の令制国発足により、科野国造の領域の佐久伊那高井埴科小県水内筑摩更級諏訪安曇の十を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域とした。

新政権は大化から白雉年間(645年~654年)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊那(伊奈)評・諏方(諏訪)評・束間(筑摩)評・安曇(阿曇)評・水内評・高井評・小懸(小県)評・佐久評・科野評(後に更級と埴科に分立)などが成立していたと考えられている[5]越国に大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸が派遣された。また、斉明天皇6年(660年)12月には、科野国が、の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告した[6]とあり、それに先立つ推古天皇35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから[7]、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。

その後の飛鳥時代には、本多善光の開基による善光寺長谷寺などが建立され、特に善光寺は諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。天武天皇元年(672年)の壬申の乱には、科野の兵が土師馬手らに従い、大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には高田新家らに「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。持統天皇5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり[8]、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している[9]。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 踏ましなむ はけ我が背」(万葉集 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。養老5年(721年6月26日に南部を諏方国として分置した。天平3年(731年3月7日に合併して元に復した。養老3年(719年)以後は美濃按察使の管轄下に置かれた。

奈良時代には左馬寮の管轄下で官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。信濃国造の末裔とされる金刺部氏他田部氏が信濃国内の複数の郡司を務める一方、安曇郡司は安曇部氏が務めた。神護景雲2年(768年)には各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人の内に信濃国は水内郡刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡建部大垣伊那郡他田部舎人千世売と4人までもを占めた。養老4年(720年)に成立した『日本書紀』は信濃国について「是の国、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず」と記している。

奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の高句麗人の改姓が続々と進んだ。延暦8年(789年)に筑摩郡人の外少初位下後部牛養が田河造を[10]、延暦16年(797年)には外從八位下前部綱麻呂が安坂姓を下賜され[11]、これに続くように延暦18年(799年)には、信濃国人の外從六位下卦婁眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小縣郡人无位上部豊人、下部文代、高麗家繼、高麗繼楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと天平勝宝9年(757年)4月4日の勅令[12]を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家繼等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された[13]弘仁8年(817年)には最澄東山道神坂峠の信濃側に広拯院を建立した。初期荘園の立荘と並行して、仁和元年(885年)には公営田の設置が見られた。同4年(888年)には前年に発生した仁和地震の影響により千曲川が「仁和大水」と言われる大洪水を起こした。また、信濃国は罪人の配所に定められ、中流の範囲とされた[14]。なお、元慶3年(879年)9月に鳥居峠をもって美濃・信濃の国境と定められた。

平安時代の中期には桓武平氏平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど(938年2月29日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また清和源氏経基王以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた(信濃源氏)。この頃には古今和歌集大和物語集、今昔物語集によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ月見名所としても姨捨の名を高める。古代の律令体制から中世の権門体制に移行する中で、院政の時代になると、院宮分国制の進展により白河法皇鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。11世紀後半以降には最高権力者である院や摂関家への寄進地系荘園の立荘が本格化し、国衙領は縮小する傾向にあった。

平安時代末期に入ると、源氏内紛による久寿2年(1155年)の大蔵合戦で敗れた河内源氏源義賢の遺児源義仲が木曾谷の中原兼遠の元に匿われた。保元元年(1156年)の保元の乱平治元年(1159年)の平治の乱に際して、滋野氏、諏訪氏片桐氏平賀氏など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の源義朝に従った。ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は、信濃に所領を持つ伊勢平氏平家弘らと共に上皇方についた。後白河法皇の第三皇子以仁王は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、源行家によって、新羅三郎源義光の子孫である平賀盛義義信父子(平賀冠者)、岡田親義(岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『平家物語』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、横田河原の戦いで平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児北陸宮を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男源頼朝北条時政をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、黄瀬川の戦いに出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが水島の戦いで敗れ、さらに上洛した頼朝の弟範頼義経らに近江国で討伐された(粟津の戦い)。平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、室町時代後期の木曽地方は公式にはまだ美濃国に属しており戦国時代にまで下る可能性があるとする説[15]もある。

中世

鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿興福寺東大寺等の有力寺院の手に移るが、在庁官人国人衆の幕府御家人化が進み、京都の遙任国司や知行国主、荘園領家らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『明月記』)。戦国時代まで存在した守護職には比企氏執権北条氏小笠原氏諏訪氏吉良氏上杉氏斯波氏武田氏らがいた。

幕府樹立後、初代の信濃守護には比企能員が就任し、信濃国目代を兼帯して国衙機構も掌握したが、建仁3年(1203年)の比企能員の変で北条時政に滅ぼされ、将軍源頼家の近習で、十三人の合議制に対抗する側近であった中野能成小笠原長経も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、元久2年(1205年)には平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権北条義時の打倒を図る陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府の仁科盛遠への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の武田信光小笠原長清に従い、後鳥羽上皇方の仁科氏らは北条朝時の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は新補地頭として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も関東御領の春近領[注釈 3]を中核として拡大すると、宝治元年(1247年)の宝治合戦で武功を挙げた諏訪盛重内管領を務めた諏訪盛経に代表されるように、北条氏の得宗被官御内人)として活躍する者も現れた。得宗専制が強化されてゆく中、弘安8年(1285年)の霜月騒動では幕府の有力御家人安達泰盛の姻戚であった伴野氏や、小笠原氏が巻き込まれ、逼塞を余儀なくされた。

この時代の仏教の信者で多いのが臨済宗曹洞宗などの禅宗一向宗浄土宗(禅林寺派)などである。特に塩田北条氏の塩田荘は「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。弘安年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの検注物や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、本所法である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。延慶2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、応安6年(1373年)には守護使に代わっている[16]。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことが伺える。

鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では、信濃の御家人は、信濃守護を兼帯する探題北方北条仲時に従い、後醍醐天皇の拠る笠置山や赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏新田義貞ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、小笠原貞宗もこれに従って鎌倉攻めに加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北条仲時は京都から逃る途中で自害に追い込まれた。東勝寺合戦では御内人の諏訪直性が得宗北条高時に殉じて自害するが、高時の遺児北条時行は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、諏訪神党諏訪頼重や滋野氏らは時行を奉じて挙兵し、鎌倉を奪還したが(中先代の乱)、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると北条時興が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『市河家文書』)、小笠原貞宗や村上信貞の軍勢と衝突したが破れた。その後は吉良満義が守護となり、北条残党一掃のため吉良時衡が派遣された。

後醍醐天皇の建武の新政では公家中心の政治に対して武士の不満が高まった。延元の乱で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、忠房親王率いる東山道軍が大井城を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏仁科氏香坂氏祢津氏望月氏海野氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏高梨氏との間で抗争が繰り広げられた。暦応3年/興国元年(1340年)には、北条時行が遠江国から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の観応の擾乱では南朝方足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、高師冬を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと薩埵山体制により守護は小笠原氏に復した。

南朝方は後醍醐天皇の皇子で、興国5年(1344年)から信濃に入国した征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて、香坂高宗の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。文和元年(1352年)には親王が信濃の南朝勢を糾合して武蔵野合戦に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の桔梗ヶ原の戦いでも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍足利義詮に従属するようになり、文中3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は暦応2年/延元4年(1339年)から康永3年/興国5年(1344年)までと、貞治4年/正平20年(1365年)から応安3年/建徳元年(1370年)まで、室町幕府から鎌倉府の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で上杉朝房が守護に任じられたが、将軍足利義満と公方足利氏満が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変での大幅な守護改替により斯波義種が守護に補任された。

明徳3年(1392年)の明徳の和約による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、明徳の乱応永の乱で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い(大塔合戦)、小笠原長秀は京都へ追放された。応永9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、政所の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として細川氏が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍足利義教により信濃守護に復し、上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦などで活躍した小笠原政康は、公方足利持氏派の村上氏 を抑えて信濃を一時平定したが、嘉吉の乱で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の畠山氏と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による享徳の乱への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、上杉房定に半国守護を抑えられた。

室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で守護代を務め、幼少期の古河公方足利成氏を庇護した大井氏越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領山内上杉氏を後ろ盾とした海野氏、逸早く土着し信濃源氏の祖となった井上氏、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く仁科氏などの旧来の名族も健在であった。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍(細川勝元)、府中小笠原氏が西軍(山名宗全)についた。長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍足利義尚足利義稙に従って出兵した。

戦国時代には隣国甲斐国越後国との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡んで、晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時村上義清らを追い、木曾義康真田幸隆を従属させ、佐久郡において関東管領上杉憲政を破ると(小田井原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、三河国山間部を攻略する過程で、同国加茂郡から現・根羽村の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。

武田晴信の死後、その後を継いだ武田勝頼上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582年)、織田信長に敗れて滅亡し、高遠城仁科盛信らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、森長可(北信)、滝川一益(東信)、毛利長秀(伊那)、河尻秀隆(諏訪)、木曾義昌(安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には本能寺の変が起き、信濃においても一向一揆が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には徳川氏後北条氏・上杉氏の勢力が進出した(天正壬午の乱)。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。

この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で真田昌幸が自立し第一次上田合戦を生じた。この対立はのちに徳川家康豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年(1590年)に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、譜代大名旗本となった者も多かった。信濃は豊臣方の武将の支配下に収まり、仙石秀久(佐久)、石川数正(安曇、筑摩)、毛利秀頼(伊那)、日根野高吉(諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに慶長3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には関一政田丸直昌が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の森忠政を入封させた。

真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原の戦いにおいて西軍方についたため、徳川秀忠の軍勢は、小山評定から関ヶ原に向けて中山道を進軍する途上、真田昌幸信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(第二次上田合戦)。しかし石田三成ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は高野山に流罪となった。その後、東軍の真田信幸が上田から松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の陣で武名を挙げた。

近世

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、松本藩上田藩飯山藩小諸藩岩村田藩龍岡藩田野口藩)、高島藩高遠藩飯田藩須坂藩)。また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他善光寺戸隠神社諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野中之条御影飯島塩尻の5つの代官所伊那衆三家を含む旗本知行所(維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。

正保元年(1644年)、幕府は正保国絵図の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には貞享3年(1686年)の松本藩貞享騒動宝暦11年(1761年)の上田藩宝暦騒動など大規模な農民一揆が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸川柳狂言に多く詠まれることとなった[17]天明年間の浅間山大噴火天明の大飢饉も農民の都市への逃散の一因を成した。文化13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する無宿者の取締りに従事する事例が増加した。弘化4年(1847年)には善光寺地震が発生し、広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で五郎兵衛用水拾ヶ堰などの灌漑用水の開削によって、新田開発が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また寛文年間ころから農閑期の農民が担い手となり、中馬という新たな内陸交通手段が発達したが、宿場町伝馬制を圧迫し、軋轢を生じたため、明和元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。

幕末になると、東海地方から南信濃に平田国学が移入され、水戸学の影響も加わって、俄かに勤王攘夷思想が盛んになった。嘉永6年(1853年)に黒船が来航し、幕府から松代藩は品川台場の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負担を強いられた。文久元年(1861年)の和宮の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。元治元年(1864年)には天狗党の乱が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、開国派の松代藩士佐久間象山は京都で尊王攘夷派に暗殺された。慶応3年(1867年)には東海地方から「ええじゃないか」と御札降りの騒動が信濃国全体に波及し、庶民の間に世直しの機運が醸成された。

戊辰戦争では外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な佐幕論は見えない中、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)官軍より信濃諸藩に赤報隊の捕縛命令が下り、下諏訪宿相楽総三らが処刑された。4月下旬、越後から進出した衝鋒隊飯山城下を占領すると、信濃諸藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動上田騒動会田・麻績騒動松代騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。

近世以降の沿革

国内の施設

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国府

歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている[注釈 4]。現在の松本市域に比定される。

ただし諸説として、国分寺[注釈 5]及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが[18]、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。

また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。

平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。

鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

寺院

国分寺国分尼寺

定額寺

貞観9年(867年)に藤原良房によって定められた。
  • 寂光寺(伊那郡)
  • 錦織寺(筑摩郡)
  • 安養寺(更級郡)
  • 屋代寺(埴科郡)
  • 妙楽寺(佐久郡)

安国寺利生塔

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている(「信濃国の式内社一覧」参照)。大社5社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[19]

以上のほか、沙田神社(松本市島立三ノ宮)を三宮とする伝承がある[20]

守護所

守護所は守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

勅旨牧

  • 大室牧(水内郡)
  • 笠原牧(高井郡)
  • 高井牧(高井郡)
  • 新張牧(小県郡)
  • 塩原牧(小県郡)
  • 望月牧(佐久郡)
  • 長倉牧(佐久郡)
  • 塩野牧(佐久郡)
  • 猪鹿牧(安曇郡)
  • 埴原牧(筑摩郡)
  • 大野牧(筑摩郡)
  • 岡屋牧(諏訪郡)
  • 山鹿牧(諏訪郡)
  • 萩倉牧(諏訪郡)
  • 平井手牧(伊那郡)
  • 宮処牧(伊那郡)

埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。

御厨

いずれも伊勢神宮領。
  • 芳美御厨(高井郡)
  • 保科御厨(高井郡)
  • 長田御厨(高井郡)
  • 布施御厨(更級郡)
  • 富部御厨(更級郡)
  • 村上御厨(更級郡)
  • 藤長御厨(更級郡)
  • 仁科御厨(安曇郡)
  • 矢原御厨(安曇郡)
  • 麻績御厨(筑摩郡)
  • 会田御厨(筑摩郡)

地域

信濃国に存在した郡と、現在の長野県に存在する郡の対応。

人物

国司

括弧内は任官年。延喜式では上国となっており、国司構成は四等官が各1名ずつの他、3名の史生からなる。

飛鳥・奈良時代

信濃守(飛鳥・奈良)
信濃介(飛鳥・奈良)

平安時代

信濃守(平安)
信濃介(平安)

鎌倉時代

信濃守(鎌倉)
信濃介(鎌倉)

室町時代

信濃守(南北朝)
信濃介(南北朝)

守護

鎌倉幕府

室町幕府

武家官位としての信濃守

脚注

注釈

  1. ^ 『長野県史 通史編』は、「賀茂真淵らの誤読により『みすずかる』が広がったが、今もって通用しているのは地元長野県内だけである。通常『みこもかる』と読んでいることは、われわれ長野県人が充分承知しなくてはならない問題点である」と指摘している。(第1巻 p.849)
  2. ^ 御子神の数は22柱、19柱、13柱と資料によって異なる。
  3. ^ 平安時代後半、国衙領が私領化するにつれ、有力在庁が請負人と成り設立した在庁名の一つが春近で、収入の安定した国衙領を朝廷の役所に配分してその役所を領家とした。その費用を負担する郷邑を春近領という
  4. ^ 10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府があったことが知られる
  5. ^ 1963年昭和38年)からの発掘調査によって国分僧寺・国分尼寺跡が上田市国分の地で確認され、国府と国分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小県郡に国府を推定する説。
  6. ^ 文献上に現れる初代信濃国司。
  7. ^ 橘奈良麻呂の乱で処罰され任国配流。
  8. ^ a b 員外国司
  9. ^ 国衙が倒壊し圧死。
  10. ^ 紅葉狩』の登場人物で知られる。
  11. ^ 今昔物語集』の受領のエピソードで知られる。
  12. ^ 藤原尹文の子か。
  13. ^ 源明国に殺害された
  14. ^ 藤原伊通の孫か。
  15. ^ 信西(藤原通憲)の子。平治の乱で免職され佐渡島に流罪。後に出家し、円照 (遊蓮房)となり法然の弟子となる[21]
  16. ^ 藤原家長の子か。
  17. ^ 平氏追討の勲功。
  18. ^ 藤原隆房の子か。
  19. ^ 堀川中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。
  20. ^ a b c 白川伯王家
  21. ^ 1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。中先代の乱で戦死。
  22. ^ 解任後、1338年の南都合戦で戦死。
  23. ^ 守護斯波義種の守護代も務めた。
  24. ^ 代官に細川慈忠細川持有
  25. ^ a b 細川勝元の推挙
  26. ^ 畠山持国の推挙

出典

  1. ^ 神坂村・旧山口村岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある
  2. ^ 古川貞雄「風土と人間」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 2ページ
  3. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・20頁。
  4. ^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
  5. ^ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ
  6. ^ 『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十二月庚寅廿四
  7. ^ 『日本書紀』巻二二推古天皇三五年(六二七)五月
  8. ^ 『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)十二月壬寅十
  9. ^ 『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)七月戊辰七
  10. ^ 『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九
  11. ^ 『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸卯十七
  12. ^ 『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)四月辛巳戊寅朔四
  13. ^ 『日本後紀』巻八延暦十八年(七九九)十二月甲戌五
  14. ^ 『延喜式』卷第廿九 刑部省 延長五年(九二七)十二月廿六日
  15. ^ 山本英二, 2008年
  16. ^ 市河家文書
  17. ^ 『江戸語辞典』東京堂出版 2014年 412ページ
  18. ^ 参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編I「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。
  19. ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 264-270。
  20. ^ 沙田神社由緒書。
  21. ^ 『法然上人絵伝(下)』(岩波文庫)211頁
  22. ^ a b 1477年の興福寺の記録

参考文献

関連項目