佐藤義則

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佐藤 義則
関メディベースボール学院 統括投手コーチ
東京ドームにて(2018年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道奥尻郡奥尻町
生年月日 (1954-09-11) 1954年9月11日(69歳)
身長
体重
181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年5月11日
最終出場 1998年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
佐藤義則
YouTube
チャンネル
活動期間 2016年12月20日 -
ジャンル 野球
登録者数 約1130人
総再生回数 約69000回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2016年12月20日時点。
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佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町出身の元プロ野球選手投手)。コーチ野球解説者野球評論家ジャイロスコープ所属)。

経歴

アマチュア時代

北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻中学校卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし1976年秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学野球リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した。また1974年、1976年の日米大学野球選手権大会日本代表、1975年の第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所-日本大学監督)らがいる。同年秋のドラフト会議阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した。

プロ時代

1977年に7勝を挙げて新人王に選出された。この年の日本シリーズにも登板する。

1978年には初めてオールスターゲームに出場した。シーズンでも13勝を記録したが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなかった。山口高志の故障離脱もあって山田久志今井雄太郎の負担を増すこととなった。

1981年には腰痛のため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなった。

1982年リリーフ投手として復活。

1984年から先発投手に復帰した。

1985年は21勝で最多勝利のタイトルを獲得。この年の防御率はパ・リーグ10位の4.29であり、これは最多勝利を受賞した投手としては1リーグ時代及びセ・リーグ側の受賞者全員を含めた中でも歴代で最も悪い数字である(2018年時点)。 また、彼の後にパ・リーグで20勝以上を挙げる投手は、2003年斉藤和巳まで現れなかった。

1986年最優秀防御率のタイトルを獲得した。

1987年はそれまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。しかし、このシーズンはわずか7勝に終わっている。1988年オフに阪急がオリックスとなった後も、山沖之彦星野伸之らとともに投手陣の中心として先発の一角を担った。

1989年、開幕戦の対近鉄戦に登板し完封勝利を挙げると好調を維持し6連勝を飾り6月終了の時点で8勝2敗と首位のチームを引っ張る。しかし、7月以降全く勝てなくなってしまい背信の投球から途中リリーフに回るなどもしたが改善せず、8月13日の対西武戦では9回1点差で一死、一塁、二塁の場面でリリーフ登板するものの2四球で押し出し同点。更に次のバッターオレステス・デストラーデに逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれて敗戦投手になる。10月13日対ロッテこの試合に負けると優勝の可能性完全に無くなる試合でも先発として登板し4回までノーヒットピッチングだったが5回に突如崩れ敗戦し優勝を逃す。シーズンでは9勝13敗で7月以降では1勝11敗の成績であった。

1993年オールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦に登板し2回4奪三振を記録した。たが、7月12日には出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災津波によって壊滅的被害を受けていた。また、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。

1994年オールスターゲームに選出され、7月20日の第2戦(ナゴヤ球場)で先発し、3回1失点の好投を見せた。なお、オリックスの投手がオールスターゲームに先発登板したのはこの年の佐藤以降では2019年の第2戦山岡泰輔が先発するまで25年も経っていた。この年以降オリックスの本拠地球場(大阪近鉄バファローズとの合併後京セラドーム大阪も含める)で開催されたオールスターゲームは2000年の第2戦(グリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)、2008年の第1戦(京セラドーム大阪)、2012年の第1戦(京セラドーム大阪)、2018年の第1戦(京セラドーム大阪)でそれぞれ開催されたが、パ・リーグはいずれもオリックス以外の投手が先発している[1]

1995年には、自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は8月26日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で当時NPB史上最年長[2]、NPB史上初となる40歳以上でのノーヒットノーランを達成。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的には1984年以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦に登板したが、敗戦投手となった。

1996年頃から衰えが顕著になり、同年チームはパ・リーグ連覇を果たしたものの、日本シリーズでも登板機会が与えられなかった。

1998年シーズンを最後に、44歳で現役引退した。

落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。

また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。現役時代、戎信行を指導した[3]

現役引退後

1999年から2000年まで、オリックスで二軍投手コーチを務めた。また、出身地の奥尻島町は、現役時代の背番号にちなんで、1999年11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した。

2001年には、関西地方を拠点に、J SPORTS野球解説者デイリースポーツの野球評論家を務めた。

2002年から2004年まで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。井川慶をエースに育てた[3]ほか、オーバースローからサイドスローへ転向したばかりの吉野誠を「勝利の方程式に組み込む[4]など、投手陣の底上げに尽力した。2003年には、この年に入団したジェフ・ウィリアムスをシーズンの途中からクローザーに起用するなど、チーム18年振りのセントラル・リーグ優勝に貢献している。

2005年に、地元球団の北海道日本ハムファイターズへ移籍。同年は、二軍の投手コーチとして、武田久[3]ダルビッシュ有を育てた[5]。翌2006年に一軍投手コーチへ異動すると、チーム25年振りのリーグ優勝と、44年振りの日本シリーズ制覇に貢献。2007年には球団史上初の連覇に導いた[6]が、日本シリーズ終了後の11月3日に、球団からコーチ契約を更新しないことを通告された。佐藤は、この通告に対して、一軍監督のトレイ・ヒルマンと球団フロントの姿勢を公然と批判。「いまさら言われても。ヒルマンだけ喜んでそれでいいのか、球団は謝っていたけど。1年契約だからずっと(日本ハムへ残るとは)は考えていないけど、時期が悪い。就職活動ができないよ。誠意がないよな。前もって決まっているなら言ってほしかったな。(球団が他球団への就職先を)探すのはできないと言っていた」との表現で怒りを露わにした[7]。その一方で、退団後にはプロ野球マスターズリーグ札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとの間でマネジメント契約を結んだ。

2008年には、北海道を主な拠点に、札幌テレビSTVラジオサンテレビ・J SPORTSの解説者として活動。2009年に、東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチとして現場復帰を果たした。その一方で、2010年12月7日には、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載された[8]

楽天の投手コーチ時代には、田中将大をエースに育て上げる[3]など、投手陣の整備に尽力。2011年からは、阪神時代(2002・2003年)に続いて監督の星野仙一を支えていた。星野の方針からヘッドコーチ格の立場で迎えた2013年[9]には、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。

2014年には、5月26日に対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)の指揮を急遽任された(試合は1 - 4のスコアで敗戦)。監督の星野が持病の腰痛で休養したことによる緊急措置だった[10]が、星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが後に判明したため、楽天球団では翌27日に星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した[11]。監督代行としては5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で初勝利[12]を挙げたものの、通算成績が23試合で9勝14敗(勝率 .391)にとどまったことから、球団では7月2日に二軍監督の大久保博元を一軍監督代行に据えることを発表。佐藤は一軍投手コーチに再び専念した[13]。結局、チームが序盤から低迷したままレギュラーシーズンを終えたため、シーズン終了後の10月14日にコーチ契約を更新しないことを球団から通告された[14]。11月8日に、福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチに就任することが発表されている[15]

ソフトバンクでは、「ヨシボール」を教えることで武田翔太の一本立ちを後押し[16][17]。コーチ就任1年目の2015年には、チームのレギュラーシーズン防御率をリーグ1位に導き [18]、同年のリーグ優勝、日本一に貢献した。2017年にはチームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇にも貢献したが、2017年の日本シリーズ終了後の11月5日に退団した[19]

2018年に、楽天の一軍投手コーチへ4年振りに復帰。レギュラーシーズンの当初はベンチコーチの役割を担っていたが、チーム成績の不振によって6月16日に梨田昌孝が一軍監督を辞任したことに伴って、ブルペン担当に回った。2019年には「テクニカルコーチ」という肩書で二軍の投手陣を指導していたが、シーズン終了後に退団した[20]

2020年からは、デイリースポーツ[21]の野球評論家に12年振りに復帰。ミヤギテレビ東日本放送東北放送仙台放送)との間で、野球解説者としてのスポット契約を新たに結んだ。9月14日からは、クラブチームとして社会人野球へ参加している関メディベースボール学院の統括投手コーチを務めている[22]

指導した主な選手

  • 愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤義則)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った。より速い球を投げられるようダルビッシュ有のフォームを改良、上半身に負担のかかる田中将大のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある[23][24]
  • 星野仙一からは「日本一の投手コーチ」と言わしめた。投手コーチを務めたオリックスの1球団を除いた阪神と日本ハムと楽天とソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている[25][17]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1977 阪急
オリックス
20 13 5 1 0 7 3 1 -- .700 474 109.2 104 11 50 2 5 75 4 0 48 47 3.86 1.40
1978 33 26 12 3 1 13 8 1 -- .619 814 194.0 176 22 73 1 6 114 3 0 88 78 3.62 1.28
1979 26 17 11 1 0 10 6 2 -- .625 696 155.1 177 22 65 1 4 92 1 0 85 74 4.29 1.56
1980 30 18 4 0 0 4 13 0 -- .235 615 135.2 135 30 81 0 4 93 2 1 98 88 5.84 1.59
1982 39 0 0 0 0 4 2 13 -- .667 351 82.2 68 7 47 2 1 64 6 0 24 23 2.50 1.39
1983 33 1 0 0 0 1 8 16 -- .111 240 54.2 48 8 28 2 2 52 0 0 29 25 4.12 1.39
1984 33 28 17 4 0 17 6 1 -- .739 886 210.1 177 19 106 2 6 136 2 0 85 82 3.51 1.35
1985 35 34 23 2 3 21 11 0 -- .656 1146 260.1 279 29 105 3 7 188 7 0 136 124 4.29 1.48
1986 21 20 13 4 4 14 6 0 -- .700 648 162.0 144 19 34 3 4 105 6 0 53 51 2.83 1.10
1987 27 20 9 1 0 7 8 3 -- .467 634 147.1 164 19 47 3 5 90 7 1 79 77 4.70 1.43
1988 25 25 14 5 1 13 10 0 -- .565 820 195.2 176 22 70 4 10 112 4 0 76 70 3.22 1.26
1989 28 25 7 1 0 9 13 0 -- .409 749 165.2 195 21 71 4 2 105 1 0 106 92 5.00 1.61
1990 17 17 7 0 0 7 7 0 -- .500 473 108.2 111 18 41 1 2 83 7 1 63 58 4.80 1.40
1991 28 7 1 0 0 3 8 8 -- .273 326 70.1 83 4 32 1 3 62 5 0 33 33 4.22 1.64
1992 21 13 5 1 1 9 5 3 -- .643 472 115.0 100 17 35 0 4 86 3 0 44 41 3.21 1.17
1993 21 21 6 2 0 9 8 0 -- .529 597 142.0 123 10 55 0 2 99 3 0 62 56 3.55 1.25
1994 20 19 5 1 0 8 8 0 -- .500 552 130.1 126 14 42 2 2 93 5 0 54 51 3.52 1.29
1995 16 15 2 1 0 4 2 0 -- .667 365 86.1 82 7 29 0 4 57 2 0 39 37 3.86 1.29
1996 10 6 0 0 0 1 2 0 -- .333 151 30.2 39 3 21 0 2 21 4 0 21 19 5.58 1.96
1997 10 9 0 0 0 4 3 0 -- .571 197 43.1 50 5 22 1 0 22 1 0 23 21 4.36 1.66
1998 8 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 38 8.2 11 1 1 0 0 6 0 0 5 5 5.19 1.38
通算:21年 501 335 141 27 10 165 137 48 -- .546 11244 2608.2 2568 308 1055 32 75 1755 73 3 1251 1152 3.97 1.39
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

通算監督成績

  • 23試合 9勝14敗0分 勝率 .391 (2014年、楽天・星野監督欠場に伴い監督代行)

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1985年5月15日、対近鉄バファローズ6回戦(阪急西宮球場)、5回表3死目に達成
  • 1500投球回:1987年8月27日 対近鉄バファローズ19回戦(阪急西宮球場)、7回表2死目に達成
  • 1000奪三振:同上、8回表にベン・オグリビーから ※史上74人目
  • 100勝:1988年4月30日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)、9回4失点(自責点2)完投勝利 ※史上95人目
  • 2000投球回:1991年4月28日、対近鉄バファローズ4回戦(藤井寺球場)、2回表2死目に達成 ※史上69人目
  • 1500奪三振:1993年7月9日、対福岡ダイエーホークス14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に浜名千広から ※史上35人目
  • 150勝:1994年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回完封勝利 ※史上39人目
  • 2500投球回:1995年8月15日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表1死目に達成 ※史上39人目
  • 500試合登板:1998年9月26日、対福岡ダイエーホークス26回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表2死に2番手として救援登板・完了 ※史上69人目
その他の記録
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1984年、1985年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
  • ノーヒットノーラン:1995年8月26日、対近鉄バファローズ19回戦(藤井寺球場) ※史上61人目
  • オールスターゲーム出場:7回 (1978年、1984年、1985年、1988年、1989年、1993年、1994年)

背番号

  • 11 (1977年 - 1998年)
  • 75 (1999年 - 2000年、2002年 - 2004年)
  • 81 (2005年 - 2007年)
  • 71 (2009年 - 2014年、2018年 - 2019年)
  • 70 (2015年 - 2017年)

関連情報

書籍

解説者としての出演番組

その他の出演番組

  • プロフェッショナル 仕事の流儀「まっすぐ戦う、勇気を持て プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ・佐藤義則」』(2012年4月23日、NHK総合
  • 『プロフェッショナル 仕事の流儀、人を育てる極意スペシャル』(2013年9月9日、NHK総合)

脚注

  1. ^ パ・リーグの先発投手は2000年第2戦は当時西武松坂大輔、2008年の第1戦は当時北海道日本ハムファイターズダルビッシュ有、2012年の第1戦は日本ハムの斎藤佑樹、2018年の第1戦は当時西武の菊池雄星である。
  2. ^ 2006年に中日の山本昌が更新
  3. ^ a b c d “プロフェッショナル 仕事の流儀 「まっすぐ戦う勇気を持て 投手コーチ・佐藤義則」”. goo. (2012年3月27日). http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/10934/559773/ 2012年4月23日閲覧。 
  4. ^ “ソフトバンク、ポスト森福絞られた 飯田か嘉弥真”. 日刊スポーツ. (2017年3月14日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1792012.html 2017年7月3日閲覧。 
  5. ^ ダルビッシュ、マー君を育てた佐藤義則投手コーチが語る「肩を下げて投げる」理由とは
  6. ^ 楽天、投手コーチに佐藤義則氏招聘 今月中にも交渉 サンケイスポーツ2008年9月19日
  7. ^ 日刊スポーツ2007年11月3日、日本ハム佐藤コーチが突然クビ連発に激怒
  8. ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
  9. ^ 星野監督 来季は「ヘッド格は佐藤で仁村は野手のチーフ」 - スポーツニッポン
  10. ^ “星野監督 腰痛で休養、歩行困難 佐藤投手コーチが代行”. スポーツニッポン. (2014年5月26日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/26/kiji/K20140526008240070.html 2014年5月26日閲覧。 
  11. ^ “星野仙一監督 休養のお知らせ”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. (2014年5月27日). http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4216.html 2014年5月27日閲覧。 
  12. ^ 佐藤監督代行が初白星 観戦三木谷オーナー「監督も安心すると思う」スポーツニッポン2014年5月28日配信
  13. ^ “監督代行・コーチ人事に関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. (2014年7月2日). http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/4324.html 2014年7月2日閲覧。 
  14. ^ 来季のコーチ契約に関して楽天球団公式サイト2014年10月14日配信
  15. ^ ソフトB来季コーチングスタッフを発表”. 日刊スポーツ (2014年11月8日). 2014年11月8日閲覧。
  16. ^ ソフトバンク・武田2度目完封 新球「ヨシボール」冴え10K
  17. ^ a b 【優勝請負人コーチ独占手記】 サンケイスポーツ
  18. ^ 2015年度 パシフィック・リーグ チーム投手成績
  19. ^ コーチングスタッフの退団について
  20. ^ コーチ契約に関して 楽天公式サイト、2019年10月9日
  21. ^ ダル&マー育てた名伯楽…佐藤義則氏望む プロは「一軍で10年」活躍 - デイリースポーツ2020.01.15
  22. ^ 元オリックス佐藤義則氏がクラブチームのコーチ就任 - 日刊スポーツ 2020年9月15日
  23. ^ [1] 永谷脩『渡り鳥、佐藤義則を酔わせる投手とは?』 Sports Graphic Number 718号
  24. ^ ソフトB佐藤コーチ 一流育成で投手王国日刊スポーツ
  25. ^ 週刊現代2015年2月21日,P168

関連項目

外部リンク