三途川
三途川(さんずのかわ、さんずがわ)は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教[1]からギリシア神話[2]にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
伝承の起源
三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄・餓鬼・畜生を三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰(閻魔大王は十王のうちの1人)による。
この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。
一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
伝承
渡し舟
平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する。
三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いている。現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いようである。
懸衣翁・奪衣婆
三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。
賽の河原
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら) と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。
賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった[3]。
この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山(青森県)のほか、新潟県の佐渡北部 (願地区)[4][5]、島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。
女性の渡河
10世紀中頃(平安中期)の日本の俗信として、「女性は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった[6]。また、『蜻蛉日記』の作者は、三途の川を女が渡る時には、初の男が背負うて渡るといった意味の歌を詠んでいる[7]。こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる。
実在の三途川
群馬
群馬県甘楽郡甘楽町を流れる利根川水系白倉川支流の「三途川」(さんずがわ[8], 北緯36度15分31秒 東経138度57分09秒 / 北緯36.258613度 東経138.952444度)。上信越自動車道甘楽パーキングエリアの南側付近に源を発し、北へ流れ白倉川に合流する。水源地から白倉川との合流地点までは約2.5kmである。上信越自動車道のほか、国道254号(中仙道の脇街道)や上信電鉄などの橋がかかっている。国道254号の橋は「三途橋」という。この三途橋のたもとには、奪衣婆を祭った姥子堂(近くにある宝勝寺の末寺・西光院の本地堂で、伝・行基作の奪衣婆像を安置)がある[9]。
『群馬県北甘楽郡史』記載の伝承によれば、この河川名は行基が名づけたもので、行基は自身の作になる老婆像を残していったといい、地元の人々がその老婆像を尊び、堂を建て祀ったという。ただし行基作の像と堂は焼失し、のちに再興されたとする。1820年(文政3年)頃には、既に「三途川」と記録が残る。また現在の「三途橋」は「憂婆ヶ橋」と記載される(『甘楽町史』所収「宝勝寺起立之書」)。これらの地名は、人々に対する布教の表れとされている(『甘楽町の文化財』)。
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甘楽郡甘楽町を流れる「三途川」(群馬県)
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甘楽町の新屋小学校付近
千葉
千葉県長生郡長南町を流れる河川で、一宮川水系一宮川の支流。読みは「さんずがわ」。千葉県長生郡長南町千田字鍛冶屋谷に源を発し、途中で長生郡長南町蔵持から流れる裏川を合わせ、長生郡長南町と茂原市が接する付近で一宮川に合流する。水源地から一宮川との合流地点までは約4.5キロで、その間で国道409号線と3回交差する。
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長生郡長南町を流れる「三途川」(千葉県)
宮城
宮城県刈田郡蔵王町を流れる阿武隈川水系濁川支流の小河川。読みは「さんずのかわ」。宮城県刈田郡蔵王町賽ノ磧付近に源を発し、北東へ流れ柴田郡川崎町との境界付近で濁川に合流する。流路延長は約1.8キロである。
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刈田郡蔵王町を流れる「三途川」(宮城県)
青森
青森県むつ市を流れる正津川の上流部における別名。青森県むつ市の霊場恐山は、宇曽利山湖を取り囲む一帯のことであるが、この宇曽利山湖から流出する正津川を別名で「三途川」と呼ぶ。河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の呼称のひとつである。宇曽利山湖の周辺には「賽の河原」と呼ばれる場所もあり、積み石がされている。
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恐山を流れる「三途川」(青森県)
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恐山へ向かう道にある「三途川」と太鼓橋
高知
『大言海』や『古今集』に出る小野篁の歌によると、高知県にある四万十川の異名「渡川」(わたりがわ) は、「三途川」の同義語である。古代に土佐では人を罰する際に、この川より西の具同や中筋の方面に流刑する「渡川限り」という罪名があり、明治初頭まで続けられたと言われる[10]。
脚注
注釈
出典
- ^ 古代メソポタミアにおける死生観と死者儀礼. 月本昭男. 西アジア考古学 第8号 2007年。
- ^ アケロン - 朝日新聞コトバンク。
- ^ 真野俊和 著「賽の河原」、桜井徳太郎 編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年。
- ^ “賽の河原”. さど観光ナビ. 2017年9月2日閲覧。
- ^ “賽の河原 (さいのかわら)”. 上級者用佐渡観光. 2021年1月24日閲覧。
- ^ 服藤早苗 『平安朝の女と男 貴族と庶民の性と愛』 中公新書 初版1995年 pp.1 - 2.
- ^ 『平安朝の女と男』
- ^ 姥子堂(甘楽町役場)
- ^ 山崎輝史 (2019年7月16日). “三途の川、群馬に流れていた 知らずに行き交う1万人超”. 朝日新聞社. 2019年7月16日閲覧。
- ^ “川と人との歴史のものがたり 四国地方の古地理に関する調査報告書”. 四国地方整備局 - 国土交通省. p. 91. 2019年9月7日閲覧。
関連項目
- 西の河原 - 船の難所であるため『地獄の賽の河原』と呼ばれる。
- ステュクス - ギリシア神話における、三途川に類似した役割の川。
- Sai no Kawara