フィリップ1世・ド・クルトネー
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フィリップ1世・ド・クルトネー Philippe I de Courtonay | |
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ラテン皇帝 | |
![]() フィリップ1世・ド・クルトネーの璽 | |
在位 | 1228年 - 1261年 |
別号 | ナミュール侯 |
全名 | フィリップ・ド・クルトネー |
出生 |
1243年 コンスタンティノープル |
死去 |
1283年 シチリア |
配偶者 | アトリス |
子女 | カトリーヌ |
家名 | クルトネー家 |
王朝 | クルトネー朝 |
父親 | ボードゥアン2世・ド・クルトネー |
母親 | マリー |
宗教 | カトリック |
フィリップ1世・ド・クルトネー (フィリップいっせい・ド・クルトネー、Philippe I de Courtonay、1243年 - 1283年) は、ラテン帝国最後の皇帝、ボードゥアン2世(コンスタンティノープルの正皇帝、1273-1283)の息子。終生、ラテン帝国の皇帝位の名目上の保持者であった [1]
生涯
亡命、イタリアでの生活
1248年、彼はコンスタンティノープルで出生した。父は、ラテン帝国の皇帝、ボードゥアン2世であった。母は、エルサレム王であったジャン・ド・ブリエンヌの娘マリーである。彼が出生した時点では、ラテン帝国は風前の灯であり、西欧諸国に援助を求めるという有様であったという。しかし、西欧諸国の援助は得られず、1261年、時のニカイアの共同皇帝ミカエル8世パレオロゴスの攻撃を受けて帝国の首都コンスタンティノポリスは陥落し、ボードゥアン2世とフィリップは、イタリアのシチリア王国に亡命した。
1273年にシャルル1世・ダンジューの娘ベアトリスと結婚し一女カトリーヌをもうけた。カトリーヌはヴァロワ伯シャルルと結婚した。 父、ボードゥアンは、死の直前の1273年、シャルルにラテン帝国の帝位継承権を与えて死去した。
名目上の「ラテン皇帝」
ボードゥアン2世が死去すると、彼は、名目上のラテン帝国の皇帝となった。シャルル・ダンジューの親族のフランス王は、フィリップに大きな年金を与えた。フィリップは、彼の階級に応じる生活を持つことができたが、それは、実際にはシャルル・ダンジューの「コンスタンティノポリスを征服して地中海帝国を築き、イェルサレムを奪回する」という地中海政策における道具に過ぎなかった。
1283年、フィリップは死去した。名目上の皇帝位は彼の息子に引き継がれていった。
子女

娘、カトリーヌ
脚注
- ^ Peter Lock, The Franks in the Aegean: 1204-1500, (Routledge, 2013), 66.
参考文献
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- Lock, Peter (1995). The Franks in the Aegean 1204–1500. New York
- Wolff, Robert L. (1954). “Mortgage and Redemption of an Emperor's Son: Castile and the Latin Empire of Constantinople”. Speculum 29. JSTOR 2853868.