ダウンタウン (お笑いコンビ)

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ダウンタウン
DOWNTOWN
メンバー 浜田雅功
松本人志
結成年 1982年
事務所 吉本興業
活動時期 1982年4月4日 -
出身 NSC大阪校1期
出会い 尼崎市立潮小学校
芸種 漫才コント
ネタ作成者 松本人志
現在の代表番組 レギュラー番組
ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!
水曜日のダウンタウン
ダウンタウンDX
ダウンタウンなう
スペシャル番組
キングオブコント
リンカーン
過去の代表番組 4時ですよーだ
ダウンタウンのごっつええ感じ
HEY!HEY!HEY!
リンカーン
同期 トミーズ
ハイヒール
内場勝則
公式サイト 公式HPプロフィール
受賞歴
1982年 第3回今宮こどもえびす新人漫才コンクール 福笑い大賞
1982年 笑ってる場合ですよ! お笑い君こそスターだ! 第32代チャンピオン
1984年 第5回ABC漫才・落語新人コンクール 漫才の部 最優秀新人賞
1987年 第15回日本放送演芸大賞 最優秀ホープ賞
1989年 第24回上方漫才大賞 大賞
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ダウンタウンは、浜田雅功松本人志からなる日本お笑いコンビ漫才師司会者吉本興業所属。大阪NSC1期生。

両者ともに兵庫県尼崎市出身。

メンバー

  • 浜田 雅功(はまだ まさとし、1963年(昭和38年) 5月11日[1] - )(60歳)
ツッコミ担当、立ち位置は向かって右。身長165 cm、血液型A型、兵庫県尼崎市出身[1]
  • 松本 人志(まつもと ひとし、1963年(昭和38年)9月8日[1] - )(60歳)
ボケ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。身長172 cm、血液型B型、兵庫県尼崎市出身[1]左利き[注 1]

概要

尼崎市立潮小学校時代に2人は出会う。構成作家の高須光聖も同級生であり、高校卒業後にコンビ結成。1988年、『夢で逢えたら』で東京進出。1991年、『ダウンタウンのごっつええ感じ』で全国的な人気を得る。関西・関東の多くの芸人が、芸人となるきっかけを作ったコンビであり漫才・コント両面で影響を与えたお笑いコンビ。また日本一DVDが売れるお笑い芸人としても有名である。

経歴

吉本入り

1982年3月、浜田が吉本興業が開校した新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)の1期生募集ポスターを見つけ、同級生の松本を誘い、同年4月4日にNSC1期生として入学。旧来の演芸の世界の徒弟制度からは外れた存在であり、師匠も弟子も居ない。入学2ヶ月目でテレビ番組初出演となる毎日放送素人名人会』にて名人賞を獲得。その1ヵ月後には「第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」で福笑い大賞を受賞。これらの功績が認められNSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の公演に5日間であるが特別出演する。

8月、フジテレビ笑ってる場合ですよ』の素人・アマチュア芸人の勝ち抜けコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「まさし・ひとし」として出場し、5週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった(番組内ではNSC在学生ということは伏せられ、完全な素人と偽って出演していた。芸能事務所スカウトで吉本興業が獲得の意思を表明するなど完全な出来レースであった)。劇場で舞台を踏みながら「第13回NHK上方漫才コンテスト」や「第4回ABC漫才・落語新人コンクール」に出場する。

1983年4月21日阪急ファイブ8Fオレンジルームハイヒール銀次・政二と共にコントライブ「ごんたくれ」(全3回)の第1回公演を開催。後の心斎橋筋2丁目劇場の笑いの原型を開拓させたイベントであった。

「松本・浜田」「まさし・ひとし」「青空てるお・はるお」「ライト兄弟」「まさと&ひとし」などコンビ名を定着させずに活動していたが、同年5月に喫茶店で浜田雅功がたまたま開いた雑誌記事の文字からコンビ名を「ダウンタウン」に改名[2]。同年6月6日になんば花月上席初出演を果たす。

1984年、「第14回NHK上方漫才コンテスト」で優秀賞を受賞。「第5回ABC漫才・落語新人コンクール」で最優秀新人賞を受賞した。

「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」誕生

当時の吉本興業は、漫才ブームの終焉によって花月三館(なんば花月・うめだ花月京都花月)の観客も若年層より年配層が多くを占めていた。養成所時代から2人のマネージャー的存在であった大崎洋(現・吉本興業ホールディングス代表取締役会長)は、才能はあるが注目度が低かったダウンタウンに対して、「彼らの場を作ってやらんといかん」[3] と、大崎が発起人となり、当時大阪心斎橋南海電気鉄道が賃貸契約していた劇場「南海ホール」での定期開催を計画。笑いのターゲットを若年層に絞り、若手芸人と共に、1984年7月12日「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」(通称「心劇」)を毎週末に開催した。

紳助・竜介の解散

1985年5月、うめだ花月上席に出演中のダウンタウンの漫才を、舞台袖で出番待ちをしていた紳助・竜介島田紳助がたまたま目にし、自分達の限界を感じ、当日に吉本興業本社に出向きコンビ解散を告げる。同年5月20日に行われた記者会見で紳助は、解散理由について「阪神・巨人サブロー・シロー、ダウンタウンには勝てない」と当時まだ無名であった「ダウンタウン」の名前を挙げた。

同年秋、関西テレビ今夜はねむれナイト』内の3分程度のコントコーナー「ダウンタウン劇場(シアター)」でテレビレギュラー番組を獲得。またラジオ大阪おっと!モモンガ』金曜日の司会者に起用される。南海ホールでの定期ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」も徐々に反響を呼ぶようになり多くの若者から支持を受ける。

「心斎橋筋2丁目劇場」オープン

1986年、南海ホールでの定期ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」は非常階段130R今田耕司東野幸治らとの公演で人気を博し、入場出来ない程のファンが詰めかけていた。同時期、南海ホールの経営が南海電鉄から吉本興業に移り、「大阪にもスタジオアルタのようなホールを創ろう!」という企画が持ち上がったことから、総工費約2,000万円をかけて改装され、同年5月16日、正式に「心斎橋筋2丁目劇場」の名称で、吉本の常設劇場としてリニューアルオープン。8月6日には大阪城野外音楽堂で当時の2丁目劇場主要メンバー「おさわがせ2丁目探険隊 来てもた大阪城」を開催した。

『4時ですよーだ』

1987年4月6日、ダウンタウンがメインの平日夕方の帯番組『4時ですよーだ』(毎日放送)が放送開始。この番組を機にダウンタウンの人気が爆発、同年9月27日には大阪厚生年金会館でコンサート「DOWNTOWN SCANDALS」を開催し、会場は若年層の女性ファンで超満員となった。その人気に肖って、当時の吉本若手タレントでは珍しく写真集の発売や歌手としてデビューアルバムも発売させる。このダウンタウン人気で、NSC7期生(1988年度)の生徒数がNSC卒業生の総数を上回る現象も起こった。

関西で爆発的な人気を獲得したダウンタウンは、その勢いで東京へも活躍の場を広げる。1988年10月13日に、ウッチャンナンチャン・野沢直子清水ミチコとのコント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)が関東ローカル(後に全国ネット)でスタート。また、2丁目劇場の東京公演「おでかけでっせ、ラフォーレまっせ」をラフォーレ原宿で不定期に開催していた。

東京進出

1989年、吉本興業から本格的な東京進出命令が下る。以前から『ひょうきん予備校』、『欽ドン!ハッケヨーイ笑った!』、そして前年からスタートしていた『夢で逢えたら』などの東京に出向いて番組に出演していたが、『4時ですよーだ』の司会を同年4月より7月まで一時交代し、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の月曜レギュラーとなる。

9月29日に『4時ですよーだ』が最終回を迎え、10月3日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)が関東ローカルで放送開始。1991年4月からは『世界の常識・非常識!』(フジテレビ)にレギュラー出演。司会の逸見政孝との丁々発止のやりとりがお茶の間に受けるなど、全国ネットのレギュラー番組も増加していく。

1991年12月8日、3度の特番放送を経て、『世界の常識・非常識!』の後番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』が放送開始される。ダウンタウンが得意とするシュールなコントで全国的に不動の人気を獲得し、全盛期には視聴率20%を越える人気番組へと成長。1993年10月21日には読売テレビ制作の全国ネット番組『ダウンタウンDX』が、1994年10月17日にはフジテレビで音楽番組HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が放送開始された。

個人としての活動〜『ごっつええ感じ』終了

浜田は東京進出後に数々のドラマに出演するなど俳優業にも分野を広げ、1995年3月15日には浜田は小室哲哉と音楽ユニット「H Jungle with t」を結成し、第1弾シングル「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を発売するとオリコンチャートで7週連続1位を獲得し、CDセールスは200万枚の大ヒットとなった。同年の大晦日放送『第46回NHK紅白歌合戦』にも初出場し、同番組では松本が浜田に内緒でゲスト出演している。

一方で松本はお笑いの活動にこだわり、1994年には入場料1万円のライブ「寸止め海峡(仮題)」、1995年には日本武道館で初のお笑い芸人の1人単独ライブ「松風'95」が行われ独自の笑いを生み出し続けていった。1993年から1995年にかけて、松本が『週刊朝日』に連載していたエッセイ(「オフオフダウンタウン」)が単行本化される。題名は『遺書』『松本』で、それぞれ250万部、200万部を売り上げた。1995年には芸能人長者番付で松本人志が1位、浜田雅功が2位となった。

1997年11月、番組改編期でもない11月に『ダウンタウンのごっつええ感じ』が突如打ち切りとなり、それを受けダウンタウンのバラエティ番組の傾向が変化していく(詳細はダウンタウンのごっつええ感じ#突然の放送終了参照)。

2000年代

2000年4月15日、松本と中居正広のW主演でドラマ『伝説の教師』(日本テレビ)が放送開始。最終回には浜田と木村拓哉が出演。

2001年4月21日に浜田主演のドラマ『明日があるさ』(日本テレビ)が放送開始。このドラマの主要メンバーで構成された音楽グループ「Re:Japan」を結成し、「明日があるさ」をリリースすると、同年の大晦日放送の『第52回NHK紅白歌合戦』にも出場した。

10月12日、突如打ち切りとなった『ごっつええ感じ』が『ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル』として一夜限りの復活を遂げる。これ以降ダウンタウンとして10年間、地上波テレビ放送ではコントを披露することがなかった。

2004年11月17日、作詞:松本人志、作曲・バックコーラス:槇原敬之、歌:浜田雅功として「チキンライス」を発売。

2010年代

2011年11月5日NHK総合で松本出演のコント番組『松本人志のコントMHK』のレギュラー放送第1回目のゲストとして相方である浜田とコントを披露。ダウンタウンとしてコントを披露するのは2001年放送の『-ものごっつええ感じスペシャル』以来である。

2012年4月8日、吉本興業100周年特別公演にダウンタウン、今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一などで、かつて花月で行われていた興行「ポケットミュージカルス」を復活。公演内容は『ごっつええ感じ』の男性陣で構成された人気コントキャラエキセントリック少年ボウイオールスターズによる「「エキセントリック少年ボウイ」のテーマ」や浜田が「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を熱唱するという豪華なラインナップとなった。

10月20日、 ダウンタウン結成30周年記念特設サイトが10月20日に公開された。

2013年2月5日から、吉本興業100周年記念公演『吉本百年物語 アンチ吉本 お笑いレボリューション』で、ダウンタウンが若手時代に活躍していた「心斎橋筋2丁目劇場」が舞台化された。この公演でダウンタウンを間慎太郎(浜田雅功)、趙珉和(松本人志)が演じる。

2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で、一部ネットなどで不仲説が囁かれていたとんねるず石橋貴明木梨憲武)と1994年10月3日放送の『FNS番組対抗!秋の祭典スペシャル』(フジテレビ系)以来となる約20年ぶりの共演を果たし、同じく不仲説があった爆笑問題太田光田中裕二)と、1989年1月1日放送の『初詣!爆笑ヒットパレード』(フジテレビ系)以来となる約25年ぶりの共演を果たした。またウッチャンナンチャン内村光良南原清隆)とも、コンビとしては1998年『いろもん豪華特別版』(日本テレビ系)以来となる16年ぶりに共演している。

出演

ダウンタウンとしての出演番組を記載。個人での出演作品は浜田雅功松本人志を参照。

現在放送中のレギュラー番組

スペシャル番組

過去に出演したテレビ番組ラジオ番組/CM

  • スマートニュース (2020年〜) [無料クーポン(お得な情報)]篇、[No.1]篇、[無料クーポン(抽選)]篇、[雨雲レーダー]篇、[チラシ]篇

テレビ朝日との関係

2020年現在、ダウンタウンはテレビ朝日制作のレギュラー番組を持っていない。2019年3月24日放送の『ワイドナショー』(フジテレビ系列)で、ゲストの中居正広がテレビ朝日で同年4月から放送される『中居正広のニュースな会』の話題を取り上げると、松本は「皆さんご存じの通り、テレ朝出禁やから」と明かした。松本は吉本興業の上層部とテレビ朝日の上層部の間で対立が起こり、吉本興業側が「ダウンタウンを出演させない」と通告すると、テレビ朝日側から「いらない」と返事を受けたことを語っているが、真相は不明である[4][5]。浜田がMCを務める全国ネットレギュラー番組『そんなコト考えた事なかったクイズ!トリニクって何の肉!?』とスペシャル番組『芸能人格付けチェック』、松本が審査員を務める『M-1グランプリ』は、いずれも朝日放送テレビ(ABCテレビ)が制作している。なおABCテレビ後援の『M-1』には2005年大会以降、テレビ朝日も本社スタジオを決勝戦会場として提供するなど企画協力として制作に参加している。

受賞歴

作品

書籍

関連書籍

  • タモリの、ダウンタウンも世紀末クイズ それ絶対やってみよう2(1991年、扶桑社)ISBN 4594008542
  • タモリ・ウッチャンナンチャンのダウンタウンもみんないっしょに世紀末クイズ それ絶対やってみよう3(1992年、扶桑社)ISBN 4594009255
  • ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! 1〜6(1995年 - 2003年、ワニブックス)
  • 発明将軍ダウンタウン(1996年、日本テレビ放送網)ISBN 4820396064
  • ダウンタウンの理由(1997年、集英社ISBN 4087802388
  • ダウンタウンのごっつええ感じ完全大図鑑(1998年、扶桑社)ISBN 4594024688
  • ダウンタウンDXのお願い! 名前を呼んで!(1998年、ワニブックス)ISBN 4847012992
  • ダウンタウンDXのスーパー国民投票結果発表(1999年、ワニブックス)ISBN 4847013085
  • クイック・ジャパン 104(2012年、太田出版)ISBN 4778313429

写真集

脚注

注釈

  1. ^ 箸とペンは左利き、スポーツ系は右利き。
  2. ^ チンパンジーのアフレコ、声のみの出演。関東のみの放送で、パターンは13通りあったという。

出典

  1. ^ a b c d (公式プロフィール)
  2. ^ ダウンタウンの由来と語源由来メモ
  3. ^ 『ダウンタウンの理由』(1997年8月31日発行)45頁。
  4. ^ あの番組が原因!?ダウンタウンが「テレ朝出禁」になった裏の疑惑! アサ芸プラス (2019年3月25日). 2020年4月17日閲覧。
  5. ^ 松本人志「テレ朝出禁」は、"あの番組"をサボりまくったから? 日刊サイゾー (2019年3月26日). 2020年4月17日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク