シカゴ (バンド)
Chicago シカゴ | |
---|---|
出身地 | アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ |
ジャンル |
ロック ブラス・ロック AOR ジャズ・ロック |
活動期間 | 1967年 - 現在 |
レーベル |
コロムビア・レコード ワーナー・ブラザース ライノ・エンタテインメント |
公式サイト | ChicagoTheBand.com |
メンバー |
ロバート・ラム ジェームズ・パンコウ リー・ロックネイン ウォルター・パラゼイダー キース・ハウランド ルー・パーディニ ウォルフレッド・レイエス Jr. レイ・ハーマン ニール・ドネル ブレット・シモンズ ダニエル・レイエス |
旧メンバー |
テリー・キャス (1967-1978) ピーター・セテラ (1967-1985) ダニー・セラフィン (1967-1990) ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ (1973-1981) ドニー・デイカス (1978-1979) クリス・ピニック (1980-1985) ドウェイン・ベイリー (1986-1995) ブルース・ガイチ (1995) ビル・チャンプリン(1981-2009) ジェイソン・シェフ(1985-2016) トリス・インボーデン(1990-2018) ジェフ・コーフィー(2016-2018) |
シカゴ(Chicago)は、アメリカのバンド。ロックにブラス・セクションを取り入れた形式のバンドとして有名な存在であり、同じジェイムズ・ウィリアム・ガルシオがプロデュースしたバンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズと共に“ブラス・ロック”と呼ばれた。
シカゴで結成されたが、プロ・デビュー後の活動拠点はロサンゼルスである。
来歴
1967年にデ・ポール大学の学生たちが中心になり、前身バンドである"ビッグ・シング"を結成。
1969年にジェイムズ・ウィリアム・ガルシオのプロデュースによりコロムビア・レコードからデビュー。その後、"シカゴ・トランジット・オーソリティ"(シカゴ交通局: Chicago Transit Authority)から"シカゴ"とバンド名を変えたが、これはシカゴ交通局からの苦情がきっかけであった。バンドはデビュー・アルバムから3作連続で2枚組アルバムを発表。1970年にはシングル「長い夜(25 Or 6 To 4)」[1]が大ヒットした。
その後も「ぼくらに微笑みを(Make Me Smile)[2]」「クエスチョンズ67/68(Questions 67 & 68)」 「ビギニングス(Beginnings)」「いったい現実を把握している者はいるだろうか?(Does Anybody Really Know What Time It Is?)」「サタデイ・イン・ザ・パーク(Saturday in the Park)」「ダイアログ(パート1 & 2)(Dialogue (Part I & II))[3]」「俺達のアメリカ(State of the Union)」「愛のきずな(Feelin' Stronger Every Day)」「君とふたりで(Just You 'n' Me)」などを発表し、シカゴは人気ブラス・ロック・バンドになった。1972年の大統領選挙ではポール・サイモンらとともに、反戦候補のジョージ・マクガヴァンを熱心に支援したが、マクガヴァン候補は当選できなかった。初期には政治的な歌詞を持つ曲が多かったが、徐々にその特徴は影を潜めた。1974年のアルバムはブラス・ロックを放棄したかのような内容で、ロック・ファンを失望させた。1975年には「オールド・デイズ」などで一時的にブラス・ロックを復活させたが、その後はAOR、歌謡ポップス路線を歩むことになる。1976年にはラブ・バラードである「If You Leave Me Now(愛ある別れ)」が全米ナンバーワンになった。1977年には「朝もやの二人」もヒットした。
その後、バンドの中枢であったギタリストのテリー・キャスの拳銃暴発事故(自動式拳銃の薬室に残った弾丸の誤発射)による死亡、プロデューサーであったガルシオの解雇などによりグループの方向性は変化した。
キャリア:1978年以後
トム・ダウドプロデュースのアルバム「14」は失敗する。しかし1980年代に入ってフル・ムーン (WEA系) に移籍し、デイヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎えて復活。以後は1982年の「素直になれなくて(Hard to Say I'm Sorry)」(1982年ビルボード年間12位)など、ラブ・バラード路線のヒットを出した。この頃から、レコーディング時の演奏は実際にはTOTOのメンバーがやっていた(小林克也が暴露した)。
だが21作目のアルバム、「TWENTY 1」の売り上げが低迷したことから、バンドとレコード会社の関係が悪化し始め、アルバム「22」として製作された次作「STONE OF SISYPHUS」がレコード会社の希望する路線と異なっていたことからアルバム発売が中止されてしまう(2008年5月6日放送「ベストヒットUSA」での、ロックネインとパンコウの発言より)。これがきっかけとなり、バンドはジャイアント・レコードへ移籍。ビッグバンド・ジャズのカヴァー集であるアルバム「Night & Day: Big Band」をリリースした。
2008年4月には、日本でヒューイ・ルイス&ザ・ニュースとジョイントコンサートを行った。2008年6月(日本国内盤は7月)には、かねてからお蔵入りとなっていた「22」 (STONE OF SISYPHUS)が「XXXII:STONE OF SISYPHUS」としてリマスターされ発売された。
これまでに全世界売上げは1億2200万枚を超えている。 2016年4月、ロックの殿堂入りを果たした。 授賞式でのパフォーマンスでは「サタデイ・イン・ザ・パーク」「Does Anybody Really Know What Time It Is?」「長い夜」を披露した。
殿堂入りでのパフォーマンスでは元シカゴのダニー・セラフィン(Dr.)も参加した。ベースのピーター・セテラもプレイしたいという希望を公表していて、話し合いも進んでいたようであるが、いくつかの理由でバンド側との話し合いが決裂し、最終的にはパフォーマンスもパーティーにも出席せず、アイスホッケーの試合を見に行っていたそうだ。そのいくつかの理由においては、ピーターセテラが今の自分のバンドの曲を演奏したがっていたこと、ヒット曲「長い夜」のキーをAからEに下げたがっていた(ブラスがあるためこのような大きなキーチェンジは難しかった)ことが、キーボード、ロバートラムの「Rolling Stone」紙でのインタビューでわかっている。
2017年1月1日、米CNNにおいて2013年に撮影されたシカゴのドキュメンタリー映画「The History of Chicago:Now More Than Ever」が放送される。2017年にはロバート・ラム、ジェームズ・パンコウ、元シカゴのピーター・セテラがソングライターの殿堂入りを果たした。2017年、シカゴは50周年を迎えた。
2018年、シカゴは新メンバーを迎え、REOスピードワゴンとのジョイントツアーを開催することを発表した。CHICAGO VI DECADES LIVE (This Is What We Do) の発売を決定した。
メンバー:前期
前身となったバンド「ビッグ・シング」は、ロバート・ラム(Vo,Key)、テリー・キャス(Vo,G)、ジェイムズ・パンコウ(Tb)、ウォルター・パラゼイダー(Woodwinds)、リー・ロックネイン(Tp)、ダニー・セラフィン(Drums)の6人で結成され、さらにピーター・セテラ(Vo,Bass)が加わった。
その後、元セルジオ・メンデスのメンバー、ラウヂール・ヂ・オリヴェイラ(Perc)が加入(アルバムへの参加はVIIから14まで)[4]。アルバム「XI」のリリース後には、テリー・キャスが死亡している[4]。またアルバム「Hot Streets(12)」で元スティーヴン・スティルスのバンドメンバー、ドニー・デイカス(Vo,G)が参加するが、アルバム「13」のリリース後、ほどなく解雇される[4]。
メンバー:後期
アルバム「16」より、元サンズ・オブ・チャンプリンのビル・チャンプリン(Vo,Key,G)が参加する[4]。
「17」ではクレジットのみ、クリス・ピニック(G)がメンバーとして表記される(ちなみに、アルバム内ジャケットにあるメンバーの集合写真にはクリスを含まない7人のみが写る)。
「17」を最後に、当時のシカゴのヒット曲でヴォーカルを担当していたピーター・セテラ(Vo,b)がソロ活動に専念するため、脱退[4]。代わって「18」より元キーンのジェイソン・シェフ(Vo,b)が加入[4]。
「19」を最後に、オリジナル・メンバーであるダニー・セラフィン(Drums)が解雇される[4]。理由としては1989年に行ったロンドン公演でダニーは妻とロンドン観光に出かけリハーサルを無断欠席、挙句には時差ボケもあり、その日のライブは酷い物になった。そこでメンバーと喧嘩になりバンド側から解雇されたという。ロバート・ラムによれば「彼は音楽以外のビジネスなどにのめり込み、バンドのことを考え出さなくなった。彼はバンドを2つに分けてしまう可能性があったし、辞めさせざるをえなかった。」「19」でセッション参加していたドウェイン・ベイリー(G)は、「TWENTY 1」より正式メンバーとなる[4]。
アルバム21「ナイト・アンド・デイ」製作中にはドウェイン・ベイリーが解雇され、代わってキース・ハウランド(G)がメンバーとして迎えられる。なお、このアルバムのレコーディングにはブルース・ガイチ(G)が参加。2006年3月には「XXX」が「TWENTY 1」以来15年ぶりとなる全曲新作のオリジナル・アルバムとしてリリースされるが、健康問題により、リー・ロックネイン(Tp)はレコーディングには参加していない。
2009年8月、ビル・チャンプリン(Vo,Key,G)が脱退。理由としてはビル・チャンプリン本人が、「ここにいる観客が来た理由は一つしかない、自分を見に来ている」と発言したためだという。ルー・パーディニ(Vo,Key)がメンバーに加入し、チャンプリンが担当していたボーカル(I'm a manの3番手など)も引き継いでいる。2009年、トリス・インボーデンがガンによる病気療養の間、ドリュー・ヘスターが代役でドラムを担当した。インボーデンの復帰後、ヘスターは、パーカッションとしてライブに参加しており、正式メンバーに近い活動をしていた[5]。
2012年、ドリュー・ヘスターが離れ、ウォルフレッド・レイエス Jr.がパーカッション担当の正式メンバーとして加入した。
2016年、長年ピーター・セテラの後任として活躍してきたジェイソン・シェフが、家族の健康上の理由で脱退し、ジェフ・コーフィーが加入した。ジェフ・コーフィーは元メンバーのピーター・セテラ、ジェイソン・シェフ(アース・ウィンド・アンド・ファイアーとのジョイント時を含む)のパートを引き継いでいる。
時期は不明ではあるが、公式HPによれば、2005年からウォルター・パラゼイダーの代役を務めて来たレイ・ハーマンが公式メンバーとして迎えられている。なおウォルター・パラゼイダーは脱退はしていない模様であるが、ここ最近のライブには姿を現していないことが多い。
アメリカのウォルター・パラゼイダーのWikipedia によると彼は2016年でツアーから引退している。公式サイトによるとメンバーとしては在籍していた。
ロバート・ラムによる’New Jersey Herald’紙のインタビュー「ウォルターは心臓の状態によりツアーからは脱退している。シカゴは現在「シカゴ37」を製作中であるがそこにウォルターが参加できるかは不明である」
2018年1月17日、ドラムスのトリス・インボーデンがシカゴを脱退、ツアーにこれ以上同行しないことを明かした。理由としては妻ともっと時間を過ごしたいとのこと。
2018年1月19日、ベースのジェフ・コーフィーが脱退。元ドラムスのトリスと同じように家族との時間を大切にしたいということである。(2018年1月22日、元ベースのジェイソン・シェフが自身のフェイスブックを更新し、彼に感謝のメッセージを送り、ピーター・セテラも1985年に自分に同様のことをしてくれたことを明かした)
同日、新メンバーが発表された。ドラムスには、パーカッションとして在籍していたウォルフレッド・レイエス Jr. が務めることになった。リードボーカルには、今まで通りのベースが弾けて高音が出せるプレーヤーを選ばず、カナダのニール・ドネルが選ばれた。彼はシカゴのカバーをハイレベルで行っておりシカゴのライブにもゲストプレーヤーとして’You're the Inspiration’を歌ったことがある。ベースにはブレット・シモンズが入った。彼は様々なミュージシャンのバックバンドやレコーディングに参加してきた模様である。ウォルフレッド・レイエス Jr.の代わりのパーカッションは彼の弟、ダニエル・レイエス(Daniel de los Reyes)が参加した。
その後、一時的なメンバーだったダニエル・レイエス(Daniel de los Reyes)はツアーを離れ、2018年ツアーはRamen'Ray'Yslasが参加する。
2018年7月、公式ホームページの改修に伴い、2016年からツアー、メディア共に姿を現していないウォルター・パラゼイダー(sax)は名前が消え、事実上の脱退となっている。
Nick Lane - trombone (since 1999) |
Larry Klimas - woodwinds (since 2003) |
Ray Herrmann- woodwinds (since 2005) |
Tom Timko - woodwinds (2005) |
Lee Thornburg - trumpet (1992 and recently) |
Steve Jankowski - trumpet (1992, 2006, 2007) |
Brian Hicks - trumpet (1976) |
Lou Pardini - keyboards, vocals (September 2007 and Replacing Bill Champlin as of August 2009) |
Drew Hester - drums (2009 January-August), percussion (2010) |
ディスコグラフィ
- Questions 67 and 68 (1969年)
- Beginnings (1969年)
- Make Me Smile (1970年) - ぼくらに微笑みを
- 25 or 6 to 4 (1970年) - 長い夜
- Does Anybody Really Know What Time It Is? (1970年) - いったい、現実を把握している者はいるだろうか?
- Free (1971年) - 自由になりたい
- Lowdown (1971年)
- Beginnings (1971年)
- Questions 67 and 68 (1971年)
- Saturday in the Park (1972年) - サタデイ・イン・ザ・パーク
- Dialogue (Part I & II) (1972年)
- Feelin' Stronger Every Day (1973年) - 愛のきずな
- Just You 'N' Me (1973年) - 君とふたりで
- (I've Been) Searchin' So Long (1974年) - 遥かなる愛の夜明け
- Call On Me (1974年) - 君は僕のすべて
- Wishing You Were Here (1974年) - 渚に消えた恋
- Harry Truman (1975年) - 拝啓、トルーマン大統領
- Old Days (1975年) - 追憶の日々
- Brand New Love Affair (Part I & II) (1975年) - 明日のラブ・アフェア
- Another Rainy Day In New York City (1976年) - 雨の日のニューヨーク
- If You Leave Me Now (1976年) - 愛ある別れ
- You Are On My Mind (1977年) - 君のいない今
- Baby, What A Big Surprise (1977年) - 朝もやの二人
- Little One (1978年) - 愛しい我が子へ
- Take Me Back To Chicago (1978年) - シカゴへ帰りたい
- Alive Again (1978年)
- No Tell Lover (1978年)
- Gone Long Gone (1979年)
- Must Have Been Crazy (1979年)
- Street Player (1979年)
- Song For You (1980年)
- Thunder And Lightning (1980年)
- Hard to Say I'm Sorry (1982年) - 素直になれなくて
- Love Me Tomorrow (1982年)
- What You're Missing (1983年)
- Stay the Night (1984年)
- Hard Habit to Break (1984年) - 忘れ得ぬ君へ
- You're the Inspiration (1984年) - 君こそすべて
- Along Comes a Woman (1985年) - いかした彼女
- 25 or 6 to 4 (New Version) (1986年) - 長い夜
- Will You Still Love Me? (1986年) - スティル・ラブ・ミー
- If She Would Have Been Faithful... (1987年) - フェイスフル
- Niagara Falls (1987年)
- I Don't Wanna Live Without Your Love (1988年)
- Look Away (1988年) - (作曲:ダイアン・ウォーレン)
- You're Not Alone (1989年)
- We Can Last Forever (1989年)
- What Kind Of Man Would I Be? (1989年)
- Hearts In Trouble (1990年)
- Chasin' the Wind (1991年)
- You Come To My Senses (1991年)
- Here In My Heart (1997年)
- The Only One (1997年)
- All Roads Lead to You (1998年)
- Show Me a Sign (1999年)
- Feel (2006年)
- Can't Let Go (EWFのカバー)(2008年)
- Love Will Come Back (2006年)
- Let's Take a Lifetime (2008年)
- My Favorite Things (2011年)
- More Today Than Yesterday (Spiral Starecaceのカバー)(2017年)
編曲
ライブやメンバーの変更により曲のアレンジが変わることがよくある。
・Introduction:イントロダクション テリーキャスの死後、ロバートラムが歌うことが多い。しかし時にビルチャンプリンが歌うときもあった。文字の通りライブの始まりに演奏される。
・Does Anybody Really Know What time it is?:一体現実を把握している者はいるだろうか ロバートラムのフリーフォームのピアノから始まるこの曲は1970年代前半まではオリジナル版の通りに始まっていたが、近年ではその後から始まるブラスから始まる。そして時にその後に来るテンポが変わるピアノの部分も省略されることがある(2004年前後)。それに加え、コーラスの部分はジェイソンシェフへの変更後about time-のところは伸ばさないようになっている。
・Questions 67&68:クエスチョンズ67&68 主にジェイソンシェフ加入前後(ピーターセテラを含む)に、最初のブラスの部分が省略されていたり、イントロから出だしはリズムがゆっくりになるのが原曲であるが、リズムをイントロと変えず(落とさず)演奏している。
・Beginnings:ビギニングズ テリーキャスはライブではエレキギターを使っていた。テリーキャスの死後、ロバートラムがアコースティックギターを持って演奏している。オリジナルでは最後パーカッションで終わっているがライブではブラスで終わるようになっている。ロバートラムの喉の不調時(1994年)にはジェイソンシェフが代わりとして歌っていた。
・I'm a man:アイム・ア・マン テリーキャス死後のライブでは歌詞が省略されロバートラムから始まる部分、ピーターセテラ、ジェイソンシェフ、ジェフコフィから始まる部分そしてドラムバトルもしくはドラムソロが入り一旦曲は終了し、また曲が始まり、ビルチャンプリン、ルーパーディニで始まる部分で終わることもある。ピーターセテラは昔から最初のベースのアレンジを少し変えている。
・Make me Smile:僕らに微笑みを 1980年から1990年おわりまではその後に続くso much say so much give に続かずColour my world で終わっている。ロバートラムはこの曲を何度か歌ったことがある。
・Colour My World テリーキャスの死後、ロバートラムやビルチャンプリンなどが歌ってきたが、近年はリーロックネインが歌っている。伴奏はロバートラムであったりビルチャンプリンだったりルーパーディニであったりする。
・Now more than ever:1970年代、テリーキャスの在籍時にはギターソロがある。最近では始まりからサビまでのカウント数が決まっている。
・25 or 6 to 4:長い夜 最初のギターの流れ1回でブラスが始まることもあれば逆に長かったりと色々なバージョンがある。間奏のギターソロの部分にブラスが入るようになったのは1990年後半からである。 オリジナルにはギターソロの後に4小節の空きがあるがここにメロディーが加えられていたり、すぐにブラスの部分に戻る時がある(ロックの殿堂入りのパフォーマンスなど)。ピーターセテラはキーを下げて歌っている。なお同時期、ロバートラムは自身のライブでは原曲キーで一部分を除き歌っていた。
・Free ライブではウォルターのサックスソロやその他メロディーが足されている。これはChicago4からのものでありかなり初期からこのアレンジが使用されている。
・Happy ‘Cause I’m Going Home 最初にエレキギターが使われている。
・Dialogue Part 1 and 2:Part 1はダイアログには主な代わり目はないがルーパーディニが歌うときにはアレンジにより違うテイストの曲になっている。Part2は原曲からは大きく変更されていることが多く最初にキーボードが入る場所があるがそれがカットされている。言っているのは主にwe can make it happen、we can change the world now の2つである。1980年代〜1990年代はオリジナル版のようにWe can make it ha!で終わることも多かったが近年ではブラスで終わるようになっている。
・Saturday in the Park:サタデイ・イン・ザ・パーク 歌詞の変更や多少の変更がある、なおロックの殿堂入りでのパフォーマンスではダニーセラフィンによるアドリブによるドラムが入るところがあったり、ビルチャンプリン在籍時には彼のアドリブのシンセサイザーによるアドリブが入ることが多かった。ロバートラムの喉の不調時(1994年)にはビルチャンプリンが代わりとして歌っていた。ロバートラムによると2番の歌詞にある[A man plays guitar]の場面では故・テリーキャスを思い全てのライブで天を見上げているのだという。
・Hard to Say I'm Sorry:素直になれなくて テンポなどが多く変えられている。基本的にキーは下げていない。ソロ活動中のピーターは下げて歌っている。
この節の加筆が望まれています。 |
関連項目
映画/ラジオ番組・TV番組での楽曲使用
- 「サタデイ・イン・ザ・パーク」:Saturday in the Park
- NHK『土曜スタジオパーク』のテーマ曲
- アール・エフ・ラジオ日本『山本さゆりのミュージックパーク』のテーマ曲
- 「追憶の日々」:Old Days
- アール・エフ・ラジオ日本『山本さゆりのミュージックパーク』のエンディング曲
- 「素直になれなくて」: Hard to Say I'm Sorry /Get Away (Get Away のバージョンは異なる)
- 映画『青い恋人たち』主題歌(1982年)
- 「Prima Donna」
- 映画『セカンド・チャンス』(1983年)
- 「Hearts in Trouble」
- 映画『デイズ・オブ・サンダー』(1990年)
- 「Moonlight Serenade」
- 「Tell Me」
- 映画『グライド・イン・ブルー』(1973年)
- 「愛ある別れ」:If You Leave Me Now
- 映画『ショーン・オブ・ザ・デッド』(2004年)
- 「You're the Inspiration」
- 映画『デッドプール』(2016年)
日本公演
- 6月13日,14日 フェスティバルホール、16日 日本武道館
- 4月6日,7日 北海道厚生年金会館、9日,10日 日本武道館、12日 広島郵便貯金会館、13日 福岡市九電記念体育館、16日 京都会館、17日 愛知県体育館、18日-20日 大阪厚生年金会館
- 9月12日 名古屋レインボーホール、13日 神戸国際会館、14日 大阪厚生年金会館、15日 香川県県民ホール、17日 福岡サンパレス、20日,21日 日本武道館
- 2月12日 日本武道館
- 10月30日 愛知県芸術劇場、11月1日 フェスティバルホール、4日 静岡市民文化会館、6日,7日 東京国際フォーラム
- 1月27日 愛知県芸術劇場、28日 静岡市民文化会館、29日 フェスティバルホール、31日,2月1日 東京国際フォーラム
- 2008年 ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースとジョイントコンサート
- 4月14日 広島厚生年金会館、15日 大阪厚生年金会館、17日 中京大学文化市民会館、19,20日 東京国際フォーラム、22日 パシフィコ横浜
- 2月19,20日 東京国際フォーラム、21日 神戸国際会館こくさいホール[6]
- 1月9日 大阪国際会議場、12日 刈谷市総合文化センター、15日 パシフィコ横浜、16日 仙台イズミティ21
脚注
- ^ https://www.discogs.com/Chicago-25-Or-6-To-4/release/5184603
- ^ 日本では1972年にヒットした
- ^ https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:CohxQzzLAUwJ:https://www.discogs.com/ja/Chicago-Dialogue-Part-I-II/release/4229004+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
- ^ a b c d e f g h William Ruhlmann. “allmusic ((( Chicago > Biography )))”. 2010年7月22日閲覧。
- ^ http://www.billchamplin.net/pressrelease.htm Bill Champlin Official Website. BILL CHAMPLIN COMES FULL CIRCLE, LEAVING HERITAGE ROCK BAND CHICAGO TO RETURN TO HIS SOLO CAREER
- ^ 元々は2009年9月16日 中京大学文化市民会館、19,20日 東京国際フォーラム、22日 神戸国際会館こくさいホールで公演予定だったが、ロバート・ラムの直前の怪我の為に振替となった。
出典
- Chicago Awards on AllMusic.com
- Debbie Kruger's two interviews with Jimmy Pankow and Robert Lamm in 1999
- Debbie Kruger's words on Chicago, synthesizing those two interviews, for Goldmine Magazine in 1999
- Debbie Kruger's interview with Chicago for Performing Songwriter in July and August 2000