エジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。マルセル・ロベル (会話 | 投稿記録) による 2021年3月4日 (木) 14:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎国号)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

エジプト・アラブ共和国
جمهورية مصر العربية
エジプトの国旗 エジプトの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌بلادي، بلادي، بلادي(アラビア語)
我が祖国
エジプトの位置
公用語 アラビア語
首都 カイロ
最大の都市 カイロ
政府
大統領 アブドルファッターフ・アッ=シーシー
首相 ムスタファ・マドブーリー
面積
総計 1,010,408km229位
水面積率 0.6%
人口
総計(2019年 100,388,100人(14位
人口密度 98.2人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年 4兆4,374億[1]エジプト・ポンド (£)
GDP(MER
合計(2018年2,496億[1]ドル(45位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2018年1兆2,954億[1]ドル(21位
1人あたり 13,358[1]ドル
独立
 - 日付
イギリスより
1922年2月28日
通貨 エジプト・ポンド (£)(EGP
時間帯 UTC+2 (DST:なし)
ISO 3166-1 EG / EGY
ccTLD .eg
国際電話番号 20

エジプト・アラブ共和国(エジプト・アラブきょうわこく、アラビア語: جمهورية مصر العربية‎)、通称エジプトアラビア語: مِصر‎)は、中東および北アフリカ位置する共和制国家民族宗教的にはアラブ世界イスラム世界の一国である。首都カイロ

アフリカ大陸では北東端に位置し、西にリビア、南にスーダン、北東のシナイ半島ではイスラエルガザ地区国境を接する。北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川河谷デルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分の95%以上が砂漠である[2]。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。

人口はアラブ諸国で最も多く、2020年2月に1億人を超えた[3]

国号

正式名称はアラビア語جمهورية مصر العربية(ラテン翻字: Ǧumhūrīyah Miṣr al-ʿarabīyah)。通称は مصر標準語: Miṣr ミスル、エジプト方言ほか、口語アラビア語: [mɑsˤɾ] マスル)。コプト語: Ⲭⲏⲙⲓ(Khemi ケーミ)。

アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形ミスライムמצרים, ミツライム)となる。

公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt [ˈiːdʒɨpt]。発音は「イージプト」に近い。形容詞はEgyptian [ɨˈdʒɪpʃən]。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハ(プタハ神の魂の神殿)から転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話アイギュプトスにちなむ。

日本語の表記はエジプト・アラブ共和国[4]。通称エジプト漢字では埃及と表記し、と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。

歴史

古代エジプト

ギザ三大ピラミッド
ヒエログリフ

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシア歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川デルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッド王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。

アケメネス朝ペルシア

3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、紀元前525年アケメネス朝ペルシアに支配された。

ヘレニズム文化

紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後、ギリシア系プトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。

ローマ帝国

プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。

イスラム王朝

7世紀イスラム化した。639年イスラム帝国将軍アムル・イブン・アル=アースによって征服され、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来、アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立した。

オスマン帝国

1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された(エジプト・エヤレト)。

ムハンマド・アリー朝

ムハンマド・アリー

1798年フランスナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけに、エジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人ムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済軍事の近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。

イギリスの進出

ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主国オスマン帝国がイギリス自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年、ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。スエズ運河会社に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィット(Charles Laffitte)と割引銀行(現・BNPパリバ)から借り、国庫債券で返済することにした。イスマーイール・パシャが出資の継続を認めたとき、フランスのナポレオン3世の裁定により契約責任を問われ、違約金が自転車操業に拍車をかけた。1869年、エジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させた。この前後(1862 - 1873年)に8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした[5]

英仏が負債の償還をめぐって争い、エジプトの蔵相は追放された。イタリアオーストリア帝国も交えた負債委員会が組織された。2回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管されたが、土地税収が滞った[6]

1882年アフマド・オラービーが中心となって起きた反英運動(ウラービー革命)がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として、政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアド・ザグルールの逮捕・国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し、英国より主政の国として独立した。

独立・エジプト王国

第一次世界大戦後の1922年2月28日エジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。

エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦では、枢軸国軍イタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後から、現在イスラエルになっている地域へのユダヤ人移民に伴うパレスチナ問題の深刻化、1948年から1949年のパレスチナ戦争第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。

エジプト共和国

この状況を受けて1952年、軍内部の秘密組織自由将校団クーデターを起こし、国王ファールーク1世を亡命に追い込み、ムハンマド・アリー朝を打倒した(エジプト革命[7])。生後わずか半年のフアード2世を即位させ、自由将校団団長のムハンマド・ナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年、国王を廃位して共和政へと移行。ナギーブ首相を兼務したまま初代大統領となり、エジプト共和国が成立した。

ナーセル政権

ガマール・アブドゥル=ナーセル第二次中東戦争に勝利し、スエズ運河を国有化した。ナーセルの下でエジプトは汎アラブ主義の中心となった。

1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナーセルの下でエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し、国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年第三次中東戦争は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。

サーダート政権

1970年急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、自ら主導した第四次中東戦争後にソビエト連邦と対立してアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきた「アラブ連合共和国」の国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年イスラム過激派ジハード団によって暗殺された。

ムバーラク政権

アラブの春で失脚するまで30年以上にわたり長期政権を維持したホスニー・ムバーラク

イラククウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。

ムバラク政権は1990年12月に「1000日計画」と称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵し、これにより約130億ドル対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務は、クウェート、サウジアラビアに対するものと、さらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金(IMF)のスタンドバイクレジットおよび世界銀行の構造調整借款(SAL)が供与され、パリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのは、ドル・ペッグによる為替レート一本化であった[8]

海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧され、喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し、近年、観光客を狙った事件は起こっていない。しかし、ムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は、彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された[9]

2002年6月、エジプト政府は15億ドルのユーロ債を起債したが、2002年から2003年に為替差損を被り、対外債務を増加させた[10]

ムルシー政権

民主化後初の大統領だったムハンマド・ムルシー

チュニジアジャスミン革命に端を発した近隣諸国での「色の革命」がエジプトにも波及し、2011年1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはカマール・ガンズーリ英語版を暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。

2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発した(2012年-13年エジプト抗議運動英語版)。ムルシー政権は、政権への不満が大規模な暴動に発展するにつれて、当初の警察改革を進める代わりに既存の組織を温存する方向に転換した。ムハンマド・イブラヒームアラビア語版が内相に就任した2013年1月以降、治安部隊による政治家やデモ隊への攻撃が激化。1月末には当局との衝突でデモ参加者など40人以上が死亡したが、治安部隊への調査や処罰は行われていない[11]。イブラヒーム内相は「国民が望むならば辞任する用意がある」と2月に述べた[12]。下落するエジプト・ポンドがとめどなくUSドルに交換され、外貨準備を減らすような混乱が同月10日のロイター通信で報じられている。下落は1月から起きており、同月にはドバイのエミレーツNBD(Emirates NBD)がBNPパリバのエジプト支店を完全買収し、オイルマネーがエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらに『フィナンシャル・タイムズ』が1月19日に報じたのは、エチオピアがナイルの川上に48億ドルの予算をかけてダムを造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。

2013年4月、エジプト中央銀行はリビアから20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによると、リビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは世界金融危機の時から欧米のメガバンクと癒着を疑われている。「2011年リビア内戦」も参照。

ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた[13]。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日のCNNでは、中国石油化工が米国ヒューストンのアパッチ(Apache Corporation)とエジプト内油田事業を提携したことが報じられた。10月下旬、アラブ首長国連邦(UAE)がエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。

なお、イブラヒームは、クーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。

アッ=シーシー政権

アブドルファッターフ・アッ=シーシー。2013年のクーデターを主導し、大統領に就任した。

2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者アブドルファッターフ・アッ=シーシーが当選して6月8日、大統領に就任し[14]、8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日には、カイロの東側に向こう5 - 7年で、450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした[15]行政経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され、広さは約700平方キロメートルで、米ニューヨークマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり[16]、大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交わしたUAEのエマール・プロパティーズ中国中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し[17]、代わりにエジプト政府がピラミッド[18]に匹敵する一大事業のランドマークと位置づけている、アフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国企業が請け負って2018年3月に着工した[19][20][21][22]

UAEや中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日、エジプト中央銀行が変動相場制を採用すると発表した。エジプト・ポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるには、この不安は長引きすぎている。同行は6日後、国際金融機関から20億ドルのレポ借入を始めた。4月に国際通貨基金(IMF)からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。英紙『ガーディアン』が10月4日に報じたところでは、国際金融機関のバークレイズがエジプト事業をワファバンクに売却した。

2017年末、政府が世界銀行に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら2人(Gamal and Alaa)がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。

政治

エジプト

エジプトの政治


司法
地方行政区画
選挙

各国の政治 · 地図
政治ポータル

政体

共和制

大統領

国家元首である大統領は、立法行政司法の三権において大きな権限を有する。また国軍(エジプト軍)の最高司令官でもある。大統領の選出は、直接選挙による。任期は4年で、三選禁止となった[23]。最高大統領選挙委員会(The Supreme Presidential Election Commission, SPEC)委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。

第2代大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル以来、事実上の終身制が慣例で、第4代大統領ホスニー・ムバーラク1981年の就任以来、約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米・親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために、独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年、再任可。議会が候補者を指名し、国民は信任投票を行っていた。ただし、2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。

2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシー6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された[24][25]

しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年、軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任され、エジプトは再び軍事政権へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され[24]、同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。

議会

議会は、一院制人民議会(マジュリス・アッ=シャアブ)。全508議席で、498議席は公選、10議席は大統領指名枠[26]。任期5年。これとは別に、諮問評議会(シューラ)が1980年に設置されたが、立法権は有さない大統領の諮問機関である[27]。全270議席で、180議席が公選、90議席が大統領指名枠。

選挙

2011年11月21日イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日にテレビで演説し、「28日からの人民議会選挙を予定通り実施し、次期大統領選挙を2012年6月末までに実施する」と表明した[28][29][30]。人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日24日大統領選挙の投票が実施された。

しかし、6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け[31][32]16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた[33]。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施され、イスラム主義系のムハンマド・ムルシーが当選した。

政党

2011年3月28日に改正政党法が公表され、エジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのため、ムスリム同胞団(事実上の最大野党であった)などは非合法化され、初めての選挙(人民議会選挙)では、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党アラビア語: حزب الحرية والعدالة‎ - Ḥizb Al-Ḥurriya Wal-’Adala, : Freedom and Justice Party)が結成された。また、ヌール党サラフィー主義、イスラーム保守派)、新ワフド党(エジプト最古の政党)、政党連合エジプト・ブロック英語版(含む自由エジプト人党(世俗派)、エジプト社会民主党(中道左派)、国民進歩統一党(左派))、ワサト党政党連合革命継続英語版公正党英語版アラビア語: حزب العدل‎ - Hizb ElAdl, : Justice Party、今回の革命の中心を担った青年活動家による政党)など、全部で50以上の政党が参加していた[34][35]

政府

司法

ナポレオン法典イスラム法に基づく、混合した法システム[36]。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。

国際関係

国力、文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマール・アブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったが、ナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となり、さらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプ・デービッド合意とその翌年のイスラエル国交樹立によって親米路線は確立したが、これはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買い、ほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後、1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方、アラブ諸国との関係回復を進め、1988年にはシリアレバノンリビアを除く全てのアラブ諸国との関係が回復した[43]。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方、アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年パレスチナガザ検問所を開放した。また、イランとの関係を修復しようとしている[44]

シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本、親米アラブ諸国、イスラエルのほか、中国やロシア[45]などと広範な協力関係を築いている。

2017年カタール外交危機では、サウジアラビアとともに、ムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとは、アカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた(「チラン島」を参照)。

日本国との関係

軍事

陸軍の主力戦車M1エイブラムス

中東有数の軍事大国であり、イスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8,500人。予備役47万9,000人。兵員数は陸軍34万人(軍警察を含む)、海軍1万8,500人(沿岸警備隊を含む)、空軍3万人、防空軍8万人[46]内務省管轄の中央治安部隊、国境警備隊と国防省管轄の革命国家警備隊(大統領親衛隊)の準軍事組織が存在する。

イスラエルとは4度にわたる中東戦争消耗戦争も含めて5度)で毎回干戈を交えたが、第二次中東戦争で政治的な勝利を得、第四次中東戦争の緒戦で勝利を収めたほかは劣勢のまま終わっている。その後は平和条約を交わしてイスラエルと接近し、シーシー政権下ではシナイ半島で活動するイスラム過激派ISIL)に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた[47]

軍事的にはアメリカと協力関係にあるため、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。また、ロシアや中国からも武器の供給を受けており、中露の主導する上海協力機構への参加も申請している[48][49][50]

地方行政区画

エジプトの行政区画

エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザ(محافظة, と訳されることもある)である。知事は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。極端な行政区分でナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、ナイル流域以外が全域砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。

主要都市

地理

エジプトの地形図
エジプトの人口分布図

アフリカ大陸北東隅に位置し、国土面積は100万2,450で、世界で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海スエズ湾に接する東部砂漠الصحراء الشرقية - シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8,000km2の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。シナイ半島の北部は砂漠、南部は山地になっており、エジプト最高峰のカテリーナ山(2,637m)や、旧約聖書モーセ十戒を授かったといわれるシナイ山(2,285m)がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれた地峡となっており、ここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるため、スエズ運河が建設され、紅海と地中海、ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。

ナイル川

ナイル川は南隣のスーダン白ナイル川青ナイル川が合流し、エジプト国内を南北1,545Kmにもわたって北上し、河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが、幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がり[51]アシュート近辺で分岐の支流がファイユーム近郊のカールーン湖Birket Qarun、かつてのモエリス湖)へと流れ込む。この支流によって、カールーン湖近辺は肥沃なファイユーム・オアシス英語版を形成している。一方、本流は、カイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイル・デルタは、地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土で、デルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったが、アスワン・ハイ・ダムによってナイル川の水量が減少したため、地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は、古くから下エジプト上エジプトという、カイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し、後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は、世界でももっとも人口密度の高い地域の一つである。

ナイル河谷以外にはほとんど人は住まず、わずかな人がオアシスに集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため、特にリビア砂漠側にはワジ(涸れ川)が全くない。シーワファラーフラハルガ、バハレイヤ、ダフラといったオアシスが点在している[52]。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻であり、ワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないが、ナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているため、いくつかの小さな存在する。

国境

1885年に列強がドイツベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。

スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。

気候

国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。

経済

カイロはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けでアフリカ第1位の都市と評価された[53]

2018年のエジプトの国内総生産(GDP)は約2,496億ドル(約27兆円)、一人当たりでは2,573ドルである[1]。アフリカでは屈指の経済規模であり、BRICsの次に経済発展が期待できるとされているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、一人当たりのGDPでみると、中東や北アフリカ諸国の中では最低水準であり、トルコの約4分の1、イランの半分に過ぎず、更に同じ北アフリカ諸国であるチュニジアモロッコに比べても、水準は低い[54]

スエズ運河収入と観光産業収入、更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きく、エジプト政府は、それらの手段に安易に頼っている[54]。更に政情に左右されやすい。

工業石油などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は情報技術(IT)産業が急速に成長している。 しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。

金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、アメリカドナルド・トランプ政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。

これまでは買い物公共料金の支払いは現金、送金は窓口での手続きが主流であった。これはチップ喜捨として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが、電子決済も急速に普及している。新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行し、他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている[3]

農業

かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダムの建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。

1970年代に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。

また、「アラブの春」により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。またIMFの勧告を受け、2016年に為替相場の大幅切り下げや補助金削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国からの資本流入が拡大していき、経済の復調を遂げている[54]

農業は農薬などを大量に使っているためコストが高くなっているが、それなりの食料自給率を保っている。果物日本にもジャムなどに加工され輸出されている。

主食のアエーシ(イーシュ)というパンの原料は小麦であり国内生産も盛んであるが、2010年代においても国内需要の全てを賄うことはできず、約半数は輸入に依存している。コメも古くから生産されており、1917年からジャポニカ米を導入してきた歴史がある[55]太平洋戦争直後の食糧難の時期(1948年)には日本に輸入され配給に用いられたこともある[56]

交通

エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。

鉄道は、国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5,063キロにのぼり、カイロを起点としてナイル川デルタナイル河谷の主要都市を結んでいる。

航空は、フラッグ・キャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。

国民

2005年の人口ピラミッド。30歳以下の若年層が非常に多く、若者失業が深刻な問題となっている。

人口構成

エジプトの人口は近年急速に増大し続けており、エジプト中央動員統計局(CAPMAS)によると2020年2月11日に1億人を突破した[57]。年齢構成は0から14歳が33%、15から64歳が62.7%、65歳以上が4.3%(2010年)で、若年層が非常に多く、ピラミッド型の人口構成をしている。しかし、若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず、経済はそれほど拡大していないため、若者の失業が深刻な問題となっており、2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。

国際連合食糧農業機関の2005年データによるエジプト人口の推移。1960年の3,000万人弱から人口が急増しているのが読み取れる。

民族

住民イスラム教徒キリスト教徒コプト教会東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、そのほかにベドウィン(遊牧民)やベルベル人ヌビア人英語版アルメニア人トルコ人ギリシア人などがいる。遺伝的に見れば、エジプト住民のほとんどが古代エジプト人の直系であり、エジプト民族との呼称でも呼ばれる所以である。また、エジプト人の大半は、イスラム勢力のエジプト征服とそれに続くイスラム系国家の統治の間に言語学的にアラブ化し、本来のエジプト語を捨てた人々であるとする見解がある。それだけではなく、長いイスラーム統治時代の人的交流と都市としての重要性から、多くのアラブ人が流入・定住していったのも事実である。1258年にアッバース朝が崩壊した際、カリフ周辺を含む多くの人々がエジプト(主にカイロ近郊)へ移住したという史実は、中東地域一帯における交流が盛んであったことを示す一例である。現代においてカイロは世界都市となっており、また歴史的にもアル=アズハル大学は、イスラム教スンナ派で最高権威を有する教育機関として、中東・イスラム圏各地から人々が参集する。

カイロモスク

なお古代エジプト文明の印象があまりに大きいためか、特に現代エジプトに対する知識を多く持たない人は、現代のエジプト人を古代エジプト人そのままにイメージしていることが多い。すなわち、ギザの大スフィンクスギザの大ピラミッドを建て、太陽神様々な神を信仰エジプト神話)していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。

言語

現在のエジプトではアラビア語公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。[要出典]

古代エジプトの公用語であったエジプト語4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は、現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけであり、これを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である[58]。他には地域的にヌビア諸語教育ビジネス英語文化においてはフランス語なども使われている。

宗教

宗教構成(エジプト)
イスラム教(スンナ派)
  
90%
キリスト教その他
  
10%

宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)[59]。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる[59]

婚姻

多くの場合、婚姻時に女性は改姓しない(夫婦別姓)が、改姓する女性もいる[60]

教育

エジプトの教育制度は、1999年から小学校の課程が1年延び、日本と同じく小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の6・3・3・4制となっている[61]義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立の際、初等教育は既に無料とされ、以後段階的に教育の無料化が進展した。1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハー・フセインによって中等教育が無料化され、1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし、公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており、社会問題化している[62]。高額な授業料を取る代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。エジプト国内には、20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。

新アレクサンドリア図書館

2018年より「エジプト日本学校(EJS=Egypt-Japan School)」が35校、開校した[63][64]。これは2017年にJICAが技術協力「学びの質向上のための環境整備プロジェクト」を開始したことに始まるもので、日本の学校教育で行われている学級会や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である[65]。試験的に導入した際には文化的な違いから反発も見受けられたが、校内での暴力が減った、子供が家でも掃除をするようになったなど、徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった[66][67]

2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%(男性:83%、女性:59.4%)である[59]。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された[59]

主な高等教育機関としては、アル=アズハル大学吉村作治小池百合子らが出身のカイロ大学(1908年~)などが存在する。

国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。

文化

ナギーブ・マフフーズ1988年ノーベル文学賞を受賞した

食文化

文学

古代エジプトにおいてはパピルスヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学には『死者の書』や『シヌヘの物語』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。

スポーツ

世界遺産

エジプト国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。

参考文献

  • 鈴木恵美編著『現代エジプトを知るための60章』明石書店2012年 ISBN 4750336483

脚注

  1. ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2020年2月3日閲覧[1]
  2. ^ エジプト - 藤井宏志日本大百科全書』(小学館2020年2月1日閲覧
  3. ^ a b 「エジプト、広がる電子決済/大手ファウリ、時価総額4倍に/携帯も台頭、変わる現金大国」『日経MJ2020年12月4日(アジア・グローバル面)
  4. ^ エジプト・アラブ共和国(Arab Republic of Egypt)基礎データ - 日本国外務省2020年12月12日閲覧)
  5. ^ 西谷進一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (一)」『社会経済史学』1971年 37巻 2号 p.113 - 134,216, doi:10.20624/sehs.37.2_113
  6. ^ 西谷進「一九世紀後半エジプト国家財政の行詰まりと外債 (二)」『社会経済史学』1971年 37巻 3号 p.283 - 311,330-33, doi:10.20624/sehs.37.3_283
  7. ^ 片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』(叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9)p49
  8. ^ 『エジプトの経済発展の現状と課題』(海外経済協力基金開発援助研究所 1998年)23頁
  9. ^ エジプト副大統領が野党代表者らと会談、譲歩示す[リンク切れ]CNN
  10. ^ IMFArab Republic of Egypt: Selected Issues, 2005(2020年12月12日閲覧)
  11. ^ エリン・カニンガム「『アラブの春』の国で繰り返される悪夢」・『ニューズウィーク日本版』2013年3月5日号
  12. ^ “I will leave my position if people want: Egypt's interior minister”. アハラムオンライン. (2013年2月2日). http://english.ahram.org.eg/News/63894.aspx 2013年5月8日閲覧。 
  13. ^ “エジプトのクーデターに至る過程:朝日新聞記事再録”. 朝日新聞. (2013年7月9日). http://middleeast.asahi.com/watch/2013070800008.html 2013年7月13日閲覧。 
  14. ^ エジプトのシシ新大統領が就任、前大統領の追放からほぼ1年AFP2014年6月8日)2020年12月12日閲覧
  15. ^ エジプト、カイロの東に新行政首都建設へ=住宅相ロイター2015年3月16日)2020年12月12日閲覧
  16. ^ http://jp.wsj.com/articles/SB10030317691824024149004580519060782977390 エジプト、新首都建設を計画―カイロと紅海の間に
  17. ^ 新華社. (2016年4月2日). http://www.xinhuanet.com/english/2016-04/02/c_135246252.htm+2018年6月25日閲覧。 
  18. ^ “埃及总理表示,将新首都CBD项目建成“金字塔”一样的地标”. 知乎专栏. (2018年8月6日). https://zhuanlan.zhihu.com/p/41444500 2018年8月18日閲覧。 
  19. ^ amwalalghad. (2017年10月12日). http://www.xinhuanet.com/english/2017-10/12/c_136672905.htm+2018年7月28日閲覧。 
  20. ^ amwalalghad. (2018年6月28日). http://en.amwalalghad.com/china-to-build-egypt-africa-tallest-tower-in-new-capital-spokesperson/+2018年6月29日閲覧。 
  21. ^ ブルームバーグ. (2018年3月18日). https://www.bloomberg.com/news/articles/2018-03-18/china-to-finance-majority-of-new-egypt-capital-s-tower-district+2018年7月28日閲覧。 
  22. ^ “中建埃及新行政首都CBD项目开工仪式在开罗举行”. 中華人民共和国駐エジプト大使館. (2018年3月21日). http://eg.mofcom.gov.cn/article/todayheader/201803/20180302720170.shtml 2018年6月25日閲覧。 
  23. ^ 鈴木恵美「エジプト革命以後の新体制形成過程における軍の役割」『地域研究』第12巻第1号、京都大学地域研究統合情報センター、2012年3月28日、135-147頁、ISBN 978-4-8122-1178-6ISSN 1349-50382012年6月17日閲覧 
  24. ^ a b エジプト・アラブ共和国 基礎データ”. 各国:地域情勢. 外務省(日本). 2016年10月1日閲覧。
  25. ^ エジプト基礎情報~政治・外交”. エジプト情報. 在エジプト日本国大使館 (2011年7月30日). 2016年10月1日閲覧。
  26. ^ 2011年12月時点では、定数498議席のうち、3分の2(332議席)が政党(連合)リストによる比例代表制で、3分の1(166議席)が小選挙区制で選出される。
  27. ^ 鈴木恵美. “エジプト”. 中東・イスラーム諸国の民主化. 人間文化研究機構(NIHU)プログラム・イスラーム地域研究、東京大学拠点. 2012年6月15日閲覧。
  28. ^ エジプト・シャラフ内閣が総辞職表明 デモの混乱で引責」『朝日新聞』2011年11月22日
  29. ^ エジプト軍議長「近く挙国一致内閣」とテレビ演説『朝日新聞』2011年11月23日
  30. ^ エジプト軍議長、元首相に組閣要請 選挙管理内閣を想定」『朝日新聞』2011年11月25日
  31. ^ 「エジプト議会選は無効」、憲法裁が大統領選直前に違法判断『朝日新聞』2012年6月15日[リンク切れ]
  32. ^ エジプト議会、解散へ 大統領選にも影響か日テレNEWS24(2012年6月15日)
  33. ^ カイロ共同 (2012年6月18日). “エジプト、軍が議会に解散命令 憲法裁判所の判断で”. 47NEWS (共同通信): pp. 6. http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061701001315.html 2012年6月18日閲覧。 
  34. ^ エジプト・アラブ共和国 基礎データ”. 各国:地域情勢. 外務省(日本). 2012年6月17日閲覧。
  35. ^ エジプト基礎情報~政治・外交”. エジプト情報. 在エジプト日本国大使館 (2011年7月30日). 2012年6月17日閲覧。
  36. ^ Egypt”. CIA-The World Factbook. 2012年6月15日閲覧。
  37. ^ Aperçu Historique”. 最高憲法裁判所. 2013年8月27日閲覧。
  38. ^ Current Members of the Court”. 最高憲法裁判所. 2013年8月27日閲覧。
  39. ^ 貫洞欣寛 (2012年6月9日). “エジプト司法が逆襲 ムバラク裁判「判決批判許さん」”. 朝日新聞. http://digital.asahi.com/articles/TKY201206080567.html?ref=comkiji_txt_end 2012年6月15日閲覧。 
  40. ^ 中東要人講演会”. 2012年9月9日閲覧。
  41. ^ Judiciary Authority”. Egypt State Information Service. 2013年8月29日閲覧。
  42. ^ エジプトでイスラーム政党が認可”. [中東研ニュースリポート]. 日本エネルギー経済研究所 中東研究センター (2月21日). 2012年5月19日閲覧。
  43. ^ 『アフリカを知る事典』(平凡社ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日 初版第1刷) p.58
  44. ^ エジプト:ガザ、出入り自由に 検問所開放、外交転換鮮明に[出典無効]
  45. ^ 「ロシアが中東に接近 プーチン大統領、エジプトに軍事協力 米の中東政策の揺らぎつく」日本経済新聞ニュースサイト(2017年12月11日)2019年1月9日閲覧。
  46. ^ The Middle East and North Africa 2012 (58th ed.). Routledge. (2011). p. 380. ISBN 978-1-85743-626-6 
  47. ^ 「対IS イスラエルと協力」エジプト大統領 治安重視東京新聞』朝刊2019年1月6日(国際面)2019年1月9日閲覧。
  48. ^ 上海協力機構事務総長:機構はカラー革命など恐れていない”. Sputnik 日本 (2015年7月11日). 2019年8月18日閲覧。
  49. ^ وزير الخارجية المصري: مصر لا تستبعد عضويتها في منظمة "شنغهاي" للتعاون في المستقبل”. ロシアNOWアラビア語版 (2015年7月27日). 2019年8月18日閲覧。
  50. ^ Syria, Israel, Egypt willing to join SCO's activity - president's special envoy”. インテルファクス通信 (2016年6月23日). 2019年8月18日閲覧。
  51. ^ 『朝倉世界地理講座 アフリカI』初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日(朝倉書店)p198
  52. ^ 『ミリオーネ全世界事典』第10巻 アフリカI(学習研究社1980年11月)p206
  53. ^ 2014 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook(2014年4月公表)
  54. ^ a b c 堀江 正人 (8 January 2019). エジプト経済の現状と今後の展望 ~経済の復調が注目される中東北アフリカの大国エジプト~ (Report). 三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社. 2020年2月3日閲覧
  55. ^ エジプト農業と農産品輸出の現状と課題”. JETRO (2019年12月17日). 2020年8月4日閲覧。
  56. ^ 「遅配解消へ地震 来月の放出、本年最高」『朝日新聞』昭和23年7月28日(2面)
  57. ^ エジプトの人口が1億人に|ARAB NEWS”. www.arabnews.jp. 2020年6月4日閲覧。
  58. ^ The Dairy Star of Egypt 2007年1月23日
  59. ^ a b c d CIA World Factbook "Egypt" - 2010年1月31日閲覧。
  60. ^ Egyptian Culture, Cultural Atlas.
  61. ^ 諸外国の学校情報(国の詳細情報) 日本国外務省
  62. ^ 『福岡県立大学人間社会学部紀要』 田中哲也
  63. ^ 「日本式教育」で、子どもたちが変わる! エジプト
  64. ^ 「エジプト・日本学校」35校が開校:日本式教育をエジプトへ本格導入
  65. ^ エジプトの小学校に「日本式教育」、協調性など成果も
  66. ^ 「日本式教育」はエジプトの教育現場をどう変えたか。「掃除は社会階層が低い人が行うもの」という反発を乗り越えて
  67. ^ 「エジプト・日本学校」(EJS)について - エジプト大使館、2020年11月22日閲覧

関連項目

外部リンク

政府
日本国政府
その他
+ 地図 - Google マップ

座標: 北緯30度2分 東経31度13分 / 北緯30.033度 東経31.217度 / 30.033; 31.217