1992年エストニア大統領選挙
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1992年エストニア大統領選挙 1992. aasta Eesti presidendivalimised 大統領 | |||||||||||
1992年9月20日(第1回) 1992年10月5日(第2回) | |||||||||||
種類: | 大統領選挙 | ||||||||||
任期: | 4年 | ||||||||||
基礎データ | |||||||||||
有権者数(第1回): | 689,608 | ||||||||||
投票数(第1回): | 468,605 | ||||||||||
67.2% | |||||||||||
有権者数(第2回): | 101 | ||||||||||
投票数(第2回): | 90 | ||||||||||
89.1% 32.6% | |||||||||||
選挙結果 | |||||||||||
レンナルト・メリ - 祖国連合(推薦) | |||||||||||
得票(第1回): | 138,317 | ||||||||||
得票(第2回): | 59 100% | ||||||||||
29.8% | |||||||||||
51.63% | |||||||||||
アルノルト・リューテル - 安全の家(推薦) | |||||||||||
得票(第1回): | 195,743 | ||||||||||
得票(第2回): | 31 100% | ||||||||||
42.2% | |||||||||||
48.37% | |||||||||||
レイン・ターケペラ - エストニア人民戦線 | |||||||||||
得票(第1回): | 109,631 | ||||||||||
23.7% | |||||||||||
ラグレ・パレク - エストニア民族独立党 | |||||||||||
得票(第1回): | 19,837 | ||||||||||
4.3% |
1992年エストニア大統領選挙(1992ねんエストニアだいとうりょうせんきょ、エストニア語: 1992. aasta Eesti presidendivalimised)は、1992年に執行されたエストニアの大統領を選出した選挙である。ソビエト連邦から独立回復を達成した直後のエストニアが、象徴的国家元首たる大統領を選出するために実施された。
この選挙に先立ち、1991年11月にエストニア最高会議 (et) はソ連による占領以降に移住してきたロシア人に対して国籍を付与しないと決議していたため[1]、その有権者数は68万9608人に限定された[2]。翌1992年6月に採択された新憲法では、大統領は議会(リーギコグ)による間接選挙で選ばれるものとされていた[3]。しかし最初の大統領選挙に限っては国民による直接選挙で選出するものとし、最多得票者が過半数を得られなかった場合には議会が決選投票を行うものとされた[3]。
候補者[編集]
選挙には7人の候補者が出馬を表明するも、うちミーナ・ヒント (et) とヤクス・ランコツ (et) は撤回し、ウノ・ルース (et) は署名数が規定の1万に達しなかったため出馬が認められなかった[4]。結果、8月20日[4]に出揃った4人の候補者の詳細は以下の通り[3]。
氏名 | 署名数[4] | 職業 | 党派 | 備考 |
---|---|---|---|---|
アルノルト・リューテル | 2万1009 | 最高会議議長 | 安全の家(et, 旧エストニア共産党改革派の連合)推薦 | 独立回復期のリーダーシップによって多くのエストニア人から支持されていたが、右派からは旧政権の中枢にいた過去を問題視された |
レンナルト・メリ | 1万1491 | 駐フィンランド大使(元外相) | 祖国連合(中道右派)推薦 | |
レイン・ターケペラ | 1万488 | タルトゥ大学教諭(政治学) | エストニア人民戦線(中道左派) | アメリカ合衆国からの帰還者であり、政治的にはリューテルとメリの中間に位置した |
ラグレ・パレク | 1万83 | 元政治犯 | エストニア民族独立党(右派) | 主要候補とは見做されなかった |
結果[編集]
候補者 | 国民による 1次投票 |
議会での 決選投票 | |
---|---|---|---|
得票数 | % | 得票数 | |
リューテル | 19万5743 | 42.2 | 31 |
メリ | 13万8317 | 29.8 | 59 |
ターケペラ | 10万9631 | 23.7 | – |
パレク | 1万9837 | 4.3 | – |
計 | 46万3528 | 100 | 90 |
直接選挙は9月20日の9時から20時にかけて、議会選挙と並行して実施された[5]。これらの選挙には欧州評議会や国際選挙制度財団からも国際監視員が派遣され、彼らは選挙が適正に実施され、民意を反映していることを確認した[5]。
結果、1次投票ではリューテルが42.2パーセントと最多の票を集めたが、過半数に達しなかったため議会での決選投票に持ち越された[2]。ターケペラの敗因については、彼が選挙戦で出遅れたこと、所属する人民戦線の指導者エトカル・サヴィサールによる政権 (et) がすでに国民の支持を失っていたこと、その寛大な国籍政策がリューテルへの投票を拒んだ右派層に訴求できなかったこと、などが指摘されている[6]。
議会での大統領選挙決選投票は10月5日に実施されたが[4]、先立って実施されたその議会選挙では、祖国連合が全101議席中の29議席を獲得する第1党となっていた(第2党は安全の家の17議席、第3党は人民戦線の15議席)[2]。結果、決選投票でメリが多数票を獲得し、翌6日に大統領へと就任した[4]。
脚注[編集]
- ^ 小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』三元社、2009年、135頁。ISBN 978-4883032402。
- ^ a b c Wilder (1993) p.76
- ^ a b c Wilder (1993) p.74
- ^ a b c d e f Eero, Gerli, ed. (2016). Elections in Estonia 1992–2015 (PDF) (Report). Translators: Ader, Galina: Ets, Mari: Trumann, Helve: Vihuri, Mari. Tallinn: National Electoral Committee. p. 83. ISSN 2504-5555。
- ^ a b Wilder (1993) p.75
- ^ Taagepera, Rein (June 1993). “Running for President of Estonia: A Political Scientist in Politics”. PS: Political Science & Politics (Cambridge: Cambridge University Press) 26 (2): 303. doi:10.2307/419848. ISSN 1049-0965 .
参考文献[編集]
- Wilder, Paul (Summer-Autumn 1993). “The Estonian elections of 1992: Proportionality and party organisation in a new democracy”. Representation (Oxford: Taylor & Francis) 31 (116): 72-76. doi:10.1080/00344899338439015. ISSN 0034-4893.