ファイティング原田

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ファイティング原田
基本情報
本名 原田 政彦
通称 飢えたライオンの底力
狂った風車
階級 バンタム級
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1943-04-05) 1943年4月5日(81歳)
出身地 東京都世田谷区
家族 牛若丸原田(弟)
スタイル 右ボクサータイプ
プロボクシング戦績
総試合数 63
勝ち 56
KO勝ち 23
敗け 7
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ファイティング原田(ファイティングはらだ、男性、1943年4月5日 - )は、日本の元プロボクサー。本名は原田 政彦(はらだ まさひこ)。ファイティング原田ジム会長。第10代日本プロボクシング協会の会長で現在は同顧問。プロボクシング・世界チャンピオン会最高顧問。なお、現在は「ファイティング」はJBCで欠名扱いで現役選手が名乗る事は不可能である。

人物[編集]

東京都世田谷区出身。実弟も牛若丸原田のリングネームでプロボクサーになった。

世田谷区立深沢中学校在学中に友人に誘われ、米穀店に勤務しながら猛練習で知られる笹崎ボクシングジムに入門。

ラッシングパワーを武器に、日本人で初めて世界フライ級バンタム級の2階級制覇をした名王者。海外の多くの専門誌が「歴代最も偉大な日本人ボクサー」として原田の名前を挙げている。

来歴[編集]

新人王獲得、そして25連勝[編集]

1960年、ライバルの海老原博幸から二度のダウンを奪って、新人王に輝く。その後も無傷の連勝を25まで伸ばした[1]

19歳で王座奪取[編集]

1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチタイ)への挑戦が内定していた、同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの原田に挑戦のチャンスが回ってきた。

蔵前国技館で行われた試合は、原田が左ジャブとフットワークでポーンをコントロールした。11R、相手コーナーに追い詰め、80数発もの左右連打を浴びせ、ポーンはコーナーロープに腰を落としてカウントアウトされた。新王者誕生に無数の祝福の座布団が舞った。しかし、3か月後の1963年1月12日、バンコクで行われた再戦で、今度はポーンが試合巧者ぶりを発揮し、際どい判定ながら王座陥落。原田は減量苦から、この後、バンタム級に転向する。

「ロープ際の魔術師」との死闘[編集]

バンタム級に転向した原田は、1963年9月26日、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデルメキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開。ところが、6R、原田の単調な動きを見切ったメデルに、得意のカウンターをヒットされ3度のダウンの末にKO負けした。原田はすぐに再起し、1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。

「黄金のバンタム」に挑戦[編集]

世界バンタム級王者・エデル・ジョフレブラジル)は、「ガロ・デ・オーロ(黄金のバンタム)」の異名通り、世界王座を獲得した試合、8度の防衛戦にいずれもKO勝ちし、その中には、青木勝利、原田にKO勝ちしたジョー・メデルも含まれていた。強打者であり、パンチを的確にヒットさせ、ディフェンスも堅い実力王者だった。原田の猛練習は、取材していた新聞記者が、疲労で床にへたり込む程の激しさだったと言う。ジョフレは妻と息子を連れて来日した。試合前の予想は、ジョフレの一方的有利、原田が何ラウンドまで持つか、という悲観的な見方がほとんどだった。

1965年5月18日に愛知県体育館で行われたジョフレ戦で開始のゴングを聞いた原田は、当初今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで原田は世界王座奪取に成功した。後の1966年5月31日、原田は2度目の防衛戦でジョフレと再戦、判定勝ち。

階級上げ[編集]

フライ級でデビューした原田は、バンタム級、フェザー級と階級を上げていくことになった。

三階級制覇ならず[編集]

1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメションオーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。「引き分け」。

地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった[2]

翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京にて再戦(日本で行われた初のWBC世界タイトルマッチ)を行い14RでKO負けしこの試合を最後に引退。

引退後[編集]

引退後は日本テレビワールドプレミアムボクシング」(ほとんどは浜田剛史とのコンビ)などで解説者として活躍する一方、トーアファイティングジム(現・ファイティング原田ボクシングジム)にて後進の指導にあたった。ジムの開設資金は東亜友愛事業組合が出した[3]。当時のジムは麻布十番のビル3階にあったが、同組合の事務所が同じビルの2階にあった。

1989年、日本プロボクシング協会(当時・全日本ボクシング協会)の会長に就任。

2005年1月、「高血圧性脳内出血」で倒れ、手術を受けたが、現在は回復している。2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。

2007年春に日本プロボクシング協会会長選挙に輪島功一、輪島の後任となる東日本協会会長選挙に具志堅用高が出馬表明したが結果的に取り止め(出馬断念)となり、原田・大橋秀行無投票当選

2010年の任期満了を以って7期21年務めた日本プロボクシング協会会長を勇退(後任は大橋ジム・東日本協会会長大橋秀行)。以降は協会顧問に就任する。世界チャンピオン経験者により同年に発足されたプロボクシング・世界チャンピオン会では最高顧問に就任。

2016年11月、旭日小綬章を受章[4]

主な戦績[編集]

  • 1960年2月21日:4回TKO勝ちでプロデビュー。デビュー時の階級はフライ級であり、東日本新人王戦を順調に勝ち上がったが、準決勝において、同門でかつ親友でもある斎藤清作と当たることになってしまった。結局、斎藤が「負傷」と言うことで出場を辞退した。後に、「たこ八郎」の名で、コメディアンとして人気者になった斎藤とは、その後も長く交友が続き、死の直前にも電話を受けた[5]。この辞退に関して、たこの没後、原田は「他の人の前で何と言ったかは知らない。しかし自分の前では、ただの一度も恨み言は言わなかった」と語っている。
  • 1960年12月24日:東日本新人王決勝戦。やはりKOパンチャーとして売出し中の海老原博幸(金平)と対戦。序盤は原田のラッシュに、海老原が2度のダウンを喫したが、終盤には、海老原が後に「カミソリ・パンチ」と言われた左を再三ヒットして反撃、原田は何とか耐え抜き6回判定勝ち。この対戦は、後の世界王者同士の対決として、新人王戦史上に残る名勝負と言われている。
  • 1962年5月3日:ノンタイトル10回戦に判定勝ち。デビュー以来25連勝を達成。海老原博幸、青木勝利とともに次代のホープとして「フライ級三羽烏」と称された。
  • 1962年10月10日:世界フライ級王座に初挑戦。ポーン・キングピッチタイ)を11回2分50秒KOで破り、19歳で世界王座を獲得した。(ポーン・キングピッチ 対 ファイティング原田戦
  • 1963年1月12日:ポーンとの再戦に判定で敗れ王座陥落、バンタム級に転向。
  • 1963年9月26日:ノンタイトル10回戦で世界3位の強豪・ジョー・メデル(メキシコ)に6回TKO負け。
  • 1964年10月29日:ノンタイトル10回戦で東洋王者・青木勝利に3回KO勝ちし、世界再挑戦への道を開く。
  • 1965年5月18日:世界バンタム級王座に挑戦。「黄金のバンタム」エデル・ジョフレ(ブラジル)に15回判定勝ちし、王座奪取。
  • 1965年7月28日:世界タイトル獲得後の最初の試合。世界バンタム級8位斎藤勝男(暁)とのノンタイトル戦で12回判定勝ち。原田は減量苦で動きが鈍く、スピーディな斎藤に苦戦し、11回を終えたところでほぼポイントは互角。しかし、最終12回にロープ際に後退しながら右アッパーをカウンターしてダウンを奪い、そのポイントがモノを言った。
  • 1965年11月30日:初防衛戦。リヴァプール出身のアラン・ラドキンイギリス)を15回判定で破る。
  • 1966年5月31日:2度目の防衛戦。前王者ジョフレを15回判定で下し防衛成功。
  • 1967年1月3日:3度目の防衛戦。かつてKO負けしたジョー・メデルとの再戦となるこの試合、前回メデルのカウンター攻撃に倒された原田は、足を使って、メデルのカウンターの射程圏外に出て、攻勢時には、身体を密着させてラッシュし、カウンターを封じた。原田の一方的なポイントリードで迎えた最終15回、メデルの左フックのカウンターが遂に命中し、一瞬ふらりとしたが、クリンチで何とか逃げ切り王座防衛。
  • 1967年7月4日:4度目の防衛戦。ベルナルド・カラバロ(コロンビア)を15回判定で下し王座防衛。
  • 1968年2月27日:5度目の防衛戦。当時19歳の無名挑戦者ライオネル・ローズオーストラリア)に15回判定負けし王座陥落。バンタム級でも原田の減量苦は限界を超し始めており、以降フェザー級に転向。
  • 1969年7月28日:WBCフェザー級王座に敵地シドニーで挑戦。王者・ジョニー・ファメション(オーストラリア)から3度ダウンを奪ったにもかかわらず15回判定負け。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。
  • 1970年1月6日:東京都体育館にてファメションに再挑戦するが14回1分9秒KO負け。この試合を最後に引退した。

世界ボクシング殿堂入り[編集]

世界ボクシング殿堂入りを果たした、最初の日本ボクサー(以降、ジョー小泉本田明彦と続く)。

なお、原田は『国際ボクシング名誉の殿堂博物館』入りも果たしている。

エピソード[編集]

テレビドラマ出演[編集]

ディスコグラフィー[編集]

シングル

獲得タイトル[編集]

国内タイトル

世界タイトル

※バンタム級の両王座はWBA・WBC未分化の時期における同一の王座である。

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 時代劇作品であるにも関わらず、演者そのままの役名で出演。少林寺拳法指南という設定。

出典[編集]

  1. ^ 編集・ボクシングマガジン編集部『日本プロボクシングチャンピオン大鑑』2004年、36頁。
  2. ^ 幻の3階級制覇 40年前の激闘 福井新聞 2009年7月28日閲覧
  3. ^ 朝日新聞東京版 1972年7月5日朝刊22頁
  4. ^ 波乃久里子に旭日小綬章受章 劇団「新派」55年 伝統・芸を継承 東京中日スポーツ 2016年11月3日[リンク切れ] アーカイブ 2016年11月3日 - ウェイバックマシン
  5. ^ 春原俊樹 ジム・メートの運命 ファイティング原田とカッパの清作 boxing.jp 2003年7月28日閲覧
  6. ^ ヒーローズ エデュテイメント会長 秋沢志篤氏 (5)”. 2009年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月26日閲覧。フジサンケイ ビジネスアイ
  7. ^ 市原隼人、ファイティング原田になる! 村田諒太ドラマ初挑戦 サンケイスポーツ 2014年1月28日閲覧
  8. ^ “女子ボクシング:五輪メダル候補に浮上 19歳の和田”. 毎日新聞. (2014年12月17日). http://mainichi.jp/sports/news/20141217k0000e050167000c.html 2015年1月23日閲覧。 [リンク切れ]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
ポーン・キングピッチ
WBA世界フライ級王者

1962年10月10日 - 1963年1月12日

次王者
ポーン・キングピッチ
前王者
エデル・ジョフレ
WBA世界バンタム級王者

1965年5月18日 - 1968年2月27日

次王者
ライオネル・ローズ
前王者
エデル・ジョフレ
WBC世界バンタム級王者

1965年5月18日 - 1968年2月27日

次王者
ライオネル・ローズ