小町定

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小町 定
こまち さだむ
Sadamu Komachi.jpg
1942年(昭和17年)初頭、空母「翔鶴」にて
渾名 荒武者
生誕 (1920-04-18) 1920年4月18日(102歳)
石川県
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1940-1945
最終階級 海軍飛行兵曹長
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小町 定(こまち さだむ、1920年(大正9年)4月18日 -)は太平洋戦争期の日本海軍戦闘機搭乗員。

概要

太平洋戦争において真珠湾攻撃から終戦まで大戦の全期間を戦い、生き抜いた歴戦のパイロット空母翔鶴」の戦闘機隊員として初期の主要な作戦ほとんどに参加した。また岩本徹三飛曹長、熊谷鉄太郎飛曹長らとともに三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃機攻撃の名手としても知られる。公式の撃墜記録は18機。

1944年(昭和19年)6月、マリアナ沖海戦に参加するためトラック島からグアム島に移動中撃墜され、一命は取り留めたものの顔や手足に大火傷を負った。2か月後退院し峰山航空隊に教員として赴任、飛行予科練生の指導にあたる。

教員としての小町は、当時の海軍では当たり前だった体罰を部下に一切加えなかったばかりか、むしろこれを「海軍の欠陥」として正面から批判した。

1945年(昭和20年)8月18日、小町は第二次世界大戦最後の空戦に参加した。 偵察のため東京上空に飛来した2機のB-32に対し紫電改に搭乗して交戦、敵機のうち1機が被弾し搭乗員1名が死亡、2名が負傷して、2機とも沖縄読谷飛行場へと引き返した。日本側に損害はなかった。この空戦には坂井三郎零戦に搭乗して参加していたが、小町は「紫電ですら追いかけるのに苦労したのに、零戦では無理」といった趣旨の発言をしている。ただし、同攻撃に参加した大原亮治飛行兵曹長は零戦で三撃目まで加えたことを証言しており、必ずしも坂井の証言が誤りとは言えない。 なお小町と同時期に空母「翔鶴」に乗艦していた渡辺直寛元軍医官は、小町を「零戦パイロットの至宝」と評した[1]

経歴

脚注

  1. ^ 川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』 あとがき より

参考文献

  • 神立尚紀 『零戦 最後の証言〈2〉大空に戦ったゼロファイターたちの風貌』 (光人社、2000年) ISBN 4769809654
  • 押尾一彦・野原茂 『日本陸海軍航空英雄列伝』(光人社、2001年) ISBN 4769809921
  • 川崎浹 『ある零戦パイロットの軌跡』 (トランスビュー、2003年) ISBN 4901510177、内容を一部閲覧できる