完璧主義
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完璧主義(かんぺきしゅぎ, Perfectionism)とは、定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、精神状態のことである。このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、もしくは完璧主義者(perfectionist)と呼ぶ。その程度(時間に対する気配りや周囲への迷惑を顧みない状態等)によっては、精神医学では精神疾患のひとつともされることも多い。
概要
参加する活動が重要度の低い活動や娯楽であっても、自分なりの最高峰・理想を作り追い求める傾向にある。
具体的な例としては、以下のようなものがある。
- テスト等点数化できるもので、90点や95点でも満足せず、100点を目指す。
- 芸術(音楽、小説)などの作品を、ほどほどの程度で世に送り出すということをせず、あくまで自分が納得する状態にまで仕上げることにこだわる。
- 人生設計の上で理想の仕事を具体的に考えるのだが、ひとつに絞ってしまい、他は受け入れない。
メリット
鉄道や航空などの輸送機関の運行など、わずかなミスが大量の人間の人命にかかわるような業務では、職員を場面限定的に「完璧主義的」な状態に誘導すると、それなりに安全性に寄与することが知られている。完璧主義は、物事に対する妥協を徹底して排除するので、職人などにそのような気質をもった人を採用し、職域がひどく限定されていて、かなりルーチン的な仕事につかせると極めて高い品質が実現されることもある。[1]
問題点と症候群
自身の理想に追いつけず、妥協も出来ないまま悩みとして抱え込むケースも多い。完璧主義の人は、完璧にこだわっているわけだが、当人の人生全体を大局的に見ると、本人がこだわって目指している状態とは正反対に、人生が破綻してしまっている人も多い。また、様々な精神病理を引き起こすことが多いことが知られている。
例えば、完璧主義の人間には、先延ばしの泥沼に落ち込んでしまう人もいる。「完璧にできるようになるまで人前で(評価する人の前で)見せたくない」「完璧な点数がだせるようになるまで○○に参加したくない」などという思いにとらわれて、最初の一歩が踏み出せなくなるのである。結果として経験や練習することが少なくなり、なかなか技量が上がらず、本当の実行の段階には永久に移れない、といった悲劇も起きる。また、他のもっとおおらかな人たちが、たとえ質が低くても気にせず気軽に第一歩を踏み出し、失敗することすら楽しみながら経験を重ねて、結果として無事に技量を上げてゆくのを、完璧主義者は指をくわえて眺めつづけて、自分自身を責めることになることも多い。またその意識ゆえに、自己の成し遂げた仕事等に過度な評価を求める傾向が比較的あり、俗に言う 恩着せがましいと評される人も少なくない。
完璧主義者は大局的に見ると生産性が落ちることが多いことも知られている。すなわち、局部的な完成度の高さにこだわるあまり、大局的な状況を見失ってしまい、大局的な生産性が落ちてしまうような行為の選択をしてしまうことが多々ある。
認知療法を創始したアルバート・エリスは、すべてのことを完璧に実行しようとする心理を「非合理信念」と呼んだ。
昔から、全てを完璧にやり遂げる事が求められていると思い込んでしまう人はいる。
だが一般に、いまだかつて全てのことを完璧にやりとげた人間などはいない、と言われている。現実を冷静に見つめることができるならば、そうなのである[2]。
実際には、人間の人生にはどうやってもできないことは多々あり、そういう場面では、自分にはやれないということを理知的にも心理的にも受け入れることが大切であり、大半の人はそれをうまく受け入れることで精神的・物理的な破綻を回避している。ところが、完璧主義者はそれを受け入れることができず、自分で自分を心理的に追いつめていってしまい、責任の転嫁や逃避といった、言動や行動としても破綻してしまう傾向が強い。
確かに、一部の人(教師、上司、親など)が追い詰められて他人にヒステリックに完璧を求めたりすることがあるが、たいていの人は、そういう要求を話半分に聞いたり、適度に聞き流したり、聞いたフリだけして要領よく切り抜けることで、完璧主義に陥らないようにしている。
完璧主義者は、自己嫌悪に陥る人が多い。また、強迫性障害、摂食障害などを併発する人も多い。
原因
いくつもの原因が要因として考えられている。
一例を挙げれば、条件的な愛(厳密に言えば愛ではなく、自分のエゴの押し付け、とも呼べるようなもの)しか示さない両親などの保護者のもとで育てられた場合に、このような気質になってしまうことが多いことが知られている[3]。すなわち、何かがうまくできた時だけ認めたり愛情を示すが、何かができないと愛さない、というようなあからさまな態度の変化があるような親によって育てられると、子供は自分が何かがうまく実行できるかどうか、ということに(本来人間が自然に持っているおだやかな関心以上に)異常に過敏になってゆく(よって、まっとうな子育て論では、条件付で愛情を示すような親になってはならない、とされている。たとえば子供が自分の思うような結果を出さない時でも、どんな時でもベースとなる愛情を持ちつづけ、それを示しつづけることが大切なのだ、とされている)。
脱却法
もしも自身の親が「条件付の愛しか示さない親」に当てはまるようならば、親の影響から心理的・物理的に遠ざかるのがひとつの方法である。
上記のような親からは心理的・物理的にすでに離れている、あるいはそもそもそのような親ではないというのに、自身に完璧主義の症候群が出ている場合は、認知療法を受けるのがひとつの方法である。あるいは、専門家のもとで認知療法を行わなくとも、認知療法のエッセンスを記した書物などを読んでそれを実行するだけでも、かなり効果があがる人も多い。ノートと鉛筆(と自分の心)だけを使って、自分ひとりで実行できるような方法が紹介されているものもある。
認知療法が行っていることは、要は、認知のしかた、すなわち考え方の癖やものの見方を変えるということである。完璧主義者は、外部的な行為や条件にばかり意識がゆき、自分の思考の流れや思考形態そのものに意識が向いていない人が多く、自分のものの見方を変える技法を持ち合わせていないことがほとんどである。認知療法では、ものの見方、考え方を自分自身で変えるノウハウが提供されているので、完璧主義者でも大半は考え方を変えることができるようになり、やがて事態が改善してゆくことが多い。
脚注・出典
- ^ 例えば、日本が高度成長期をなしとげ、日本製品がその品質で世界から高く評価されるまでに至ったのも、適材適所のノウハウを知っている経営者たちが、完璧主義的な性質を持つ職人をうまく活用していた、という面もある。ただし、経営の領域にこのような完璧主義的な(職人気質の)人間を参加させたりすると、ひどい困難にみまわれたり、経営破綻を引き起こすことが多いことは知られている。経営というものは部分的な業務をどれだけ犠牲にしてでも全体がほどほどのレベルで存続できることを選択しなければならない場面が多いからである。完璧主義者には、経営者的な臨機応変の妙技を理解・体得することが困難なのである。
- ^ ((補注)) 例えば、大人を例にとると、会社の仕事を最優先にしそれを完璧に行おうとする人は、残業が多くなりがちで、家庭がおろそかになりがちなる。学生ならば、勉学を完璧にしようとすると、運動のほうは苦手になったり、人付き合いが悪くなったり、様々な実体験が不足したりする。例えば、知識の習得に限っても、人類の全知識を知っている人もいないし、例えば音楽でも、あるジャンルに精通していれば、他のジャンルは手薄になり不得手になる。たとえばスポーツでも、サッカーに上達しようとそれに集中すると、野球は凡庸になる。ひとりひとりの人間の持っている時間は有限だから全部は完璧にできない。
また、もっと深い問題もある。たいていの場面で、いわゆるジレンマは起きている。例えば人間関係の対処のしかたを例にとっても、夏目漱石が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」言ったように、どのような態度をとっても、それなりに負の面がつきまとい、問題点がある、ということは人生には多々ある。森鴎外も、エリートコース上にいる自分を守ろうとしたところ、ドイツの女性を見捨てて帰国せざるを得なくなり、ひとりの人間・男としては問題を残し、鴎外の人生は"完璧"ではなかった。だが、その反対の選択をしたとしても、やはり森鴎外の人生は問題が多い人生となったであろう、ということは評論家からしばしば指摘されている。例えば、子供の状態でも、"何でもソツなくこなす子供"は、ある角度からは立派なようではあるが、一方で "かわいげの無い子供"になってしまっているという点で完璧ではなくなる。大人であれ、子供であれ、皆ジレンマの中で生きているわけである。 - ^ Perfectionism: Causes and Explanations