麻績城

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麻績城
長野県
麻績城跡の標柱
麻績城跡の標柱
城郭構造 山城、居館
築城主 服部氏
主な城主 服部清信青柳清長、(麻績氏
廃城年 1596年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯36度28分04.6秒 東経138度02分42.2秒 / 北緯36.467944度 東経138.045056度 / 36.467944; 138.045056 (麻績城)座標: 北緯36度28分04.6秒 東経138度02分42.2秒 / 北緯36.467944度 東経138.045056度 / 36.467944; 138.045056 (麻績城)
地図
麻績城の位置(長野県内)
麻績城
麻績城
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麻績城(おみじょう)は、長野県東筑摩郡麻績村にあった日本の城。長野県指定史跡[1]北国西街道麻績宿の背後にある標高940メートルの独峯にある。

概要[編集]

戦国時代に麻績の地を支配したのは服部清信であった。麻績城の南西の麻績古城(虚空蔵山城)に居を構えていたが、守りを強化するために麻績城を築いた。

しかし、天文22年(1553年)甲斐の武田晴信信濃国筑摩郡を領有し、青柳城青柳清長を従えて服部氏を追い払い、青柳氏麻績氏を名乗り、麻績城には青柳氏が移った。

天正10年(1582年)、武田氏滅亡により織田信長麾下の木曾義昌の所領となるが、本能寺の変で織田氏の軍勢が信濃から撤退すると(天正壬午の乱)、上杉景勝は旧服部氏の麻績左兵衛清正を入城させた。しかし信濃府中を回復した小笠原貞慶との争奪の地となり、最終的には小笠原氏の支配地となった。

主郭は東西に伸びた峯の西端にあって、東西40メートル、南北25メートルの長方形で、西側に土塁跡がある。本城の前面は険阻で登城が困難で、堡塁の役目を果たしている。

脚注[編集]

  1. ^ 県史跡” (PDF). 長野県 (2019年2月22日). 2019年4月20日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]