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鹿野藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鹿野藩(しかのはん)は、因幡国気多郡鹿野城(現在の鳥取県鳥取市鹿野町鹿野)を居城とした[1]。織豊大名として当地に配された亀井氏が、1581年から1617年まで2代37年にわたって鹿野を治めた[2]。その後1640年から1662年まで、鳥取藩に預けられた池田輝澄(元・播磨山崎藩主)が当地で堪忍料[注釈 1]1万石を与えられた。

明治維新期の短期間、鳥取藩の新田支藩(鳥取東館新田藩)が鹿野を居所として「鹿奴藩」を称している[1]。この藩については当該記事参照。

歴史

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鹿野藩の位置(鳥取県内)
鹿野
鹿野
鳥取
鳥取
関連地図(鳥取県)[注釈 2]

前史

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戦国時代の鹿野

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鹿野は因幡・伯耆両国の境目の要地であり、戦国期にはたびたび争奪の対象とされたが[5]、天正元年(1573年)には毛利氏の支配下に入った[5]

入封までの亀井茲矩

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亀井茲矩は出雲国の戦国大名であった尼子氏の家臣・湯永綱の子である[6]。永禄9年(1566年)に尼子義久が毛利氏に降り(第二次月山富田城の戦い)、戦国大名としての尼子氏は滅亡するが、茲矩は山中幸盛らの率いる尼子再興軍に加わった[7]。天正2年(1574年)[8]山中幸盛の養女(実父は亀井秀綱で、茲矩は亀井名字を称した[8][注釈 3]と結婚。天正6年(1578年)に山中幸盛が死すと、幸盛の娘婿であった茲矩が尼子再興軍を率いた[10]

寛政重修諸家譜』によれば、天正8年(1580年)春の時点で羽柴秀吉から武田孫五郎(武田助信?)・赤井忠家・福屋彦太郎(福屋隆兼? 里村隆兼?)・亀井茲矩の4人が鹿野城番に任じられたとあり、茲矩は鹿野に攻め寄せた鳥取城兵と戦ってこれを退けたという[11](この前後の状況については鳥取城#秀吉の鳥取城攻略戦も参照)。

亀井氏の藩

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天正9年(1581年)10月、鳥取城を陥落させた羽柴秀吉は、亀井茲矩因幡国気多郡で1万3500石を与え、鹿野城主とした[1]。茲矩は鹿野城の改築と城下町の建設を行った[5]。また、天正16年(1588年)には日光池の干拓工事を行う[注釈 4]など、領内の開発にあたった[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて茲矩は東軍方についた[1]。本戦後に因幡国および伯耆半国の平定(城受け取り)を命じられ、小出吉政別所吉治赤松広英の援兵を付けられて任務を完遂した[9]。この功績によって[9]因幡国高草郡内で2万4500石を加増され、合計3万8000石を領することとなった[1][9]。茲矩は高草郡においても、大井手用水の開削や、湖山池の干拓を行い、領内の開発を進めた[1][2]。大井手用水は、灌漑用水が不安定でしばしば干害に見舞われていた千代川流域千町歩を潤す約20kmの水路で[2]、工事には慶長7年(1602年)から7年の歳月を要した[2]。開削に関しては取水口となる河原(現在の鳥取市河原町河原)[注釈 5]周辺の八上郡布袋村(鳥取市河原町布袋)などと、良港である賀露(現在の鳥取市賀露町。鳥取港参照)の一部を、鳥取藩池田長吉池田輝政の弟)と交換した[2]

また、茲矩は朱印船貿易にあたった大名の一人としても知られる[1][2]。慶長12年(1607年)8月15日に朱印状を受けた茲矩は、庶子の鈴木八右衛門を総奉行に任じて長崎に派遣し、大船を建造した[2]。茲矩は3度にわたってシャムに朱印船を派遣して貿易を行った[2]。しかし慶長14年(1609年)に幕府は西国諸大名が所持する500石積以上の大船の破却を命じたため、茲矩の大船も慶長15年(1610年)に淡路島沖で破却されたという[2]

茲矩は慶長14年(1609年)1月に隠居し、家督を政矩に譲った[2]。政矩は家督相続以前より徳川家に出仕しており、伯耆国久米・河村2郡内5000石を知行していたが[9]、これらも鹿野藩領に加えられ、合計4万3000石となった[1]。慶長17年(1612年)1月26日、茲矩は鹿野城で病没した[2]。茲矩は武蔵山(鳥取市気高町山宮・同市鹿野町宮内の境界付近)に葬られた[13]

元和3年(1617年)7月20日、政矩に石見津和野藩への転封が命じられた[1][2]。これは、池田光政池田輝政の長男・利隆の子)が因伯両国32万5000石を治める大名として鳥取藩に入封することにともなう措置である。

亀井家の移転は急いで進められ、城にあった荷物は酒津・青屋・泊に建てた蔵に収納した。政矩は8月13日に津和野城に入城した[2]。なお、荷物をすべて津和野に送り終えたの20年ほどのちの寛永年間半ばだったという[2]

池田輝澄の藩

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江戸時代初期の池田家略系図
池田恒興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長吉
 
 
 
 
 
 
 
輝政
 
 
 
督姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利隆忠継忠雄輝澄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光政
 
 
 
光仲政直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱清仲澄清定

寛永17年(1640年)7月26日、播磨山崎藩(6万8000石)の藩主・池田輝澄(輝政の四男)はお家騒動(池田騒動)を起こしたことにより領地を没収され、甥にあたる鳥取藩主・池田光仲(輝政の三男・忠雄の子)に預けられた[1][14]。輝澄には鳥取藩領から堪忍料として1万石を与えられ[1][14]、鹿野に籠居した[14]。鹿野藩の再立藩と見なされる[1]。光仲には代地として播磨国神崎郡内で1万石が与えられた[15]寛文2年(1662年)4月18日、輝澄は鹿野において死去した[14]

輝澄の子・政直は万治元年(1658年)に赦免を受け[14][16]徳川家綱への御目見や叙任も済ませており[14]、寛文2年(1662年)9月25日に遺領の継承を認められた[14]。ただし領地は播磨国神崎郡・印南郡内に移された(福本藩[1][14][16]。鹿野藩領は鳥取藩領に戻され[15]、播磨国内の代地は収公された[15]

鳥取東館新田藩(鹿奴藩)

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貞享2年(1685年)に鳥取藩主・池田光仲は二男の池田仲澄新田として2万5000石を分与し、仲澄は大名に列した[1](その後、さらに5000石の分知を受け合計3万石)。のちに仲澄の弟・池田清定も新田分知をうけて大名に列する。鳥取新田藩(因幡新田藩)と呼ばれる2つの藩の成立である。仲澄の家は「東館家」と呼ばれたため[1](清定の「西館家」に対する呼称)、鳥取東館新田藩と呼ばれる。2つの新田藩の居所は鳥取とされる[17][18]。実際には支配する所領はなく、財政は本藩からの蔵米支給によって運営されており[1][19]、独立した藩としての性格は薄かった。本藩藩主と同様に松平名字を許された。

大政奉還後の明治元年(1868年)12月10日、東館新田藩は鹿野(鹿奴)を居所ととなえ、「鹿奴藩」と称した(「鹿野藩」[1][20]「鹿野新田藩」[1]とも)[注釈 6]。ただし、新政府はこれを公認しなかった[20]。明治2年(1869年)6月に諸侯(大名)の称号が廃止され、藩主池田徳澄華族に位置づけられた。同年、この藩は廃止されて本藩である鳥取藩に編入された[1]

のちに徳澄の継嗣・池田源子爵に叙せられる。この家は「旧鹿奴藩主家」「鹿奴池田家」と認識されるようになり、鹿野と関係を有しなかった江戸時代にさかのぼって鳥取東館新田藩を「鹿奴藩」と表現することがある。

歴代藩主

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亀井家

3万8000石→4万3000石、外様(1600年 - 1617年)

  1. 茲矩
  2. 政矩 4万3000石に加増
池田家

1万石、外様(1640年 - 1662年)

  1. 輝澄

領地

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鹿野

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鹿野城跡公園

和名抄』に気多郡の郷の一つとして挙げられる「口沼郷」は、その読みや所在がはっきりしないが、これは「カヌ」と読み、鹿野に相当するとの説がある[21]。式内社の志加奴しかぬ神社は、現在は鳥取市気高町宿に鎮座するが、もともと鹿野にあったとされる[21][22]。中世には志加奴氏(鹿野氏、志賀野氏などとも記される)が当地に在ったという[5]。永禄7年(1564年)の毛利元就の書状に「鹿野」という地名が記される[5]

鹿野城の城郭とその城下町鹿野 は、亀井茲矩によって改修・整備された[5]。茲矩は周辺の地名を仏跡にちなんだものに改め[2]、鹿野城には「王舎城」という別名がある[5]。鹿野の表記は「鹿野苑」に因むといい[2]、周辺には鷲峰山霊鷲山にちなむ)、拘尸那城クシナガラにちなむ)などある[2]。付近の川も流沙川・跋堤川・恒河と呼んだ[2]

なお、鹿野には、尼子再興軍を率いた武将で、亀井茲矩の義父でもある山中幸盛を祀る幸盛寺がある[5]

近世鳥取藩の支配のもとでは、行政上「志加奴村」という村であったが[23]、城下町時代の名残として「上町」「紺屋町」「鍛冶町」など町を付して呼ばれる地区があった[23]。また鹿野往来(伯耆中道)の宿駅であり、在郷町として栄えた[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「堪忍」は「生活を保つための費用」の意で、「堪忍料」は生活を保つための扶助として与えられた知行。知行は原則として石高に応じた軍役が課されるが、堪忍料ではこれが免除された[3][4]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 寛政重修諸家譜』は茲矩の先妻を山中幸盛の娘とする[9]
  4. ^ 起工に際しては、自ら鍬をとって池尻を三度打つという儀式を行ったと伝わる[2]。干拓工事は6か月で完了し、300石余りの良田を得たという[2]
  5. ^ 因幡民談記』によれば袋河原(現在の鳥取市河原町袋河原)に取水堰が設けられた[12]
  6. ^ 同様に西館新田藩は「若桜藩」を称した。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 鹿野藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 亀井玆矩公の歴史”. 亀井玆矩公没後400周年記念事業. 鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」. 2025年11月24日閲覧。
  3. ^ かん‐にん【堪忍】”. 精選版 日本国語大辞典. 2025年11月27日閲覧。
  4. ^ 堪忍分 (かんにんぶん)”. 改訂新版 世界大百科事典. 2025年11月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h 鹿野(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百二十六「亀井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.218
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百二十六「亀井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.218-219
  8. ^ a b 『亀井茲矩墓調査報告書』, p. 5.
  9. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第四百二十六「亀井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.222
  10. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百二十六「亀井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.219
  11. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百二十六「亀井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.220
  12. ^ 袋河原村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  13. ^ 『亀井茲矩墓調査報告書』, p. 6.
  14. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十六「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.423
  15. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十五「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.416
  16. ^ a b 福本藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  17. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十五「松平」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.419
  18. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十五「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.421
  19. ^ 若桜藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  20. ^ a b 鹿野藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2025年11月24日閲覧。
  21. ^ a b 口沼郷(古代)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。
  22. ^ 志加奴神社”. 鳥取県神社庁. 2025年11月24日閲覧。
  23. ^ a b c 志加奴村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2025年11月24日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 鳥取市教育委員会 編『亀井茲矩墓調査報告書』鳥取市教育委員会〈鳥取市文化財調査報告書 24〉、2017年。doi:10.24484/sitereports.74996