鹿目善輔

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鹿目 善輔
Chief Kanome Portrait.jpg
米海軍横須賀基地警備隊長在任時
生誕 1893年(明治26年)11月22日
日本の旗 日本 神奈川県
死没 1960年(昭和35年)9月21日(66歳没)
日本の旗 日本 神奈川県
所属組織

大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍


米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設
軍歴 1917年(大正6年) – 1945年(昭和20年)1948年(昭和23年) – 1960年(昭和35年)
最終階級 海軍少将
除隊後 米海軍横須賀基地警備隊長(初代)
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鹿目 善輔(かのめ ぜんすけ、1893年(明治26年)11月22日 - 1960年(昭和35年)9月21日)は、日本海軍軍人太平洋戦争開戦前の出師準備にあたった兵備局課長で開戦時の軍令部先任副官、北方部隊の幹部、大湊警備府参謀長を歴任し、終戦後は大湊地方復員局長、横須賀地方復員局残務処理部長を務めた海軍少将で、後に米海軍横須賀基地(横須賀海軍施設)警備隊(Base Civil Police=B.C.P.)の初代日本人警備隊長に就任。

概要[編集]

略歴[編集]

艦長を務めた『天龍』(1936年)

神奈川県出身。鹿目善輔は、明治三年(1870年)浦賀に移住した会津藩士 鹿目常吉(幸之助)の孫として、明治二十六年(1893年)神奈川県三浦郡浦賀町(現・横須賀市浦賀)で生まれた。横須賀中学校を経て大正五年(1916)に海軍兵学校を卒業後、少尉候補生として軍艦「常磐」に乗り組み、北米および南洋諸島を回航。大正六年(1917年)十二月に海軍少尉任官、海軍兵学校44期。席次は入校時、卒業時とも47番。同期に松田千秋黒島亀人島本久五郎らがいる。鹿目は海大航海学生を修了した航海科専攻士官で、大尉少佐時代に6艦で航海長を務めている。海大甲種(27期)を卒業後は、軍令部副官をはじめ人事局局員、欧米各国出張、第3戦隊参謀、軍令部出仕兼皇族附武官(高松宮宣仁親王附)などを務めている。1939年(昭和14年)11月大佐へ進級し、「天龍」艦長となった。1940年(昭和15年)10月15日、軍令部出仕兼海軍省出仕として軍務局第二課で勤務し11月1日には同課長となる。しかし2週間後の11月15日兵備局第三課の初代課長に異動。その日は出師準備第一作業の発動日でもあった[1]1941年(昭和16年)6月には軍令部先任副官となり、日米開戦を迎えた。1942年(昭和17年)7月、日本北方を担当する第五艦隊附となり、「多摩」艦長に就任。陸軍部隊をアッツ島に輸送し、1943年(昭和18年)3月27日にはアッツ島沖海戦に参戦した。同年7月に大湊警備府参謀長となり、1944年(昭和19年)10月少将へ昇進。第十二航空艦隊参謀長を兼務したが終戦を迎える。予備役となるも充員召集を受け、大湊地方復員局長官、大湊地方復員局長、横須賀地方復員残務処理部長として終戦業務に従事した。

海軍省課長[編集]

鹿目は僅か二週間で軍務局第二課長から転任しているが、この交代には軍務局を改編し、国防政策を担当させる背景があった。後任は第一委員会を主導することになる石川信吾である。鹿目が兵備局課長として一端を担った出師準備は、艦艇や部隊を戦時体制に移行させる準備作業である。戦後陸軍関係者から出師準備は海軍の対英米戦争体制への移行を示し、南部仏印進駐、開戦へとつながったとの指摘がある。しかし既に日独伊三国軍事同盟成立、北部仏印進駐などが起きており、また海軍の出師準備には時間が必要であることから当を得ていないとの反論がある[1]

なお同僚の兵備局の第一課長は橋本象造、第二課長は湊慶譲であり、いずれも鹿目と同日に発令されている。この出師準備は主な艦艇200隻、飛行機1277機に及び、5、6ヶ月を要するものとされていた[2]。実際、鹿目の軍令部先任副官への転任は、6ヶ月を経過してからである。この作業は日本海軍にとって日露戦争以来のものであった[2]

兵備局第三課の所掌事項[編集]

  1. 港務、運輸
  2. 水路及び海上保安
  3. 船舶調査、船舶利用
  4. 通商保護[3]

航海長を務めた艦[編集]

大東亜戦争後及び米海軍横須賀基地警備隊[編集]

昭和二十年(1945年)九月二日、降伏調印式を終えた連合国軍(米軍)は、旧横須賀鎮守府を米軍の補給基地として強化していくことを決定し、占領に際して基地内に臨時で設置された「補給部」や「修理部」を十分に警備する必要性が生じた。

このため当初は横須賀警察署などから若干の警官を派遣して日本人労働者らの取り締まりを行っていたが、米軍は更に、「永久的な警備力を保持」して、禁制品の不正持ち出しや火災防止の見廻りなどを徹底する方針を伝えた。このため横須賀基地司令部では昭和二十一年(1946年)六月一日に、市民から30人程度の警備員を募集し、派遣されていた警官と交代させることになった。彼等の身分は一時期武装解除局の管轄下に置かれたが、ベントン M.デッカ-大佐が基地司令に就任すると、昭和二十一年十月にはこれらの日本人警備員 (在日米軍)は警備隊として米海兵隊基地警衛隊(Marine Guard)の隷下となった。発足当時の警備隊は100名程度であったが急速に増員し、三個小隊(隊長1、副隊長3、分隊長16、分隊伍長36)を擁する規模にまで拡充されていった。鹿目が警備隊長に就任したのはまさにその頃であった。大湊地方復員局長であった鹿目は、昭和二十二年(1947年)一月一日には横須賀地方復員局残務処理部長に就任し戦争の締め括りにあたっていたが、程なく当時の基地司令・デッカ-大佐の目にとまった。

当時、米海軍横須賀基地内には既に8000人に及ぶ日本人労働者が勤務していたが、鹿目の軍歴に目をつけたデッカーは、日本人による警備隊の編成を鹿目に「懇願」した。

鹿目もこれを受け入れ、昭和二十三年(1948年)二月に自ら警備隊長に就任し、日本人による基地警備隊(Base Civil Police=B.C.P. 現・CFAY Security, Civil Guard Force=C.G.F. 米海軍横須賀基地 憲兵司令部警備隊)の組織化を進めた。

警備隊員を査閲する鹿目警備隊長(昭和二十九年七月二十一日)

警備隊の主な任務は、①弾薬庫や倉庫の警備、②重要庁舎の警備、③警備艇による海上沿岸警備、④ジープによる基地内巡回警備等で、警備管轄区域は基地内に留まらず、田浦、追浜、衣笠、久里浜、吾妻島等の米軍施設所在地一帯と、極めて広い範囲を網羅していた。また、日本人労働者(後の駐留軍等労働者)に対するパスの発行や基地に出入りする車両の検査等も警備隊の任務であった。隊内教育も徹底しており、七段階の階級制度が定められた。このように警備隊のシステムを一から構築していったのが鹿目であり、「警備隊の勤務を通じて日本人の米人に対する国際信用を高める-米人をして真の日本人の特性を理解せしむる」というのが彼自身のモットーであった。

ところが昭和三十二年(1957年)頃、「病欠者を不当解雇」、組合に対する不当干渉だとして「横暴な基地日本人警備隊長、鹿目善輔を追放せよ」と全駐留軍労働組合(全駐労)横須賀支部から退陣を要求されるという事件が発生した。当時500人の日本人警備隊員が在籍していたが、うち240人が鹿目の禁じていた組合に加入し、基地ゲート前で警備隊員が制服姿のままストライキを行うという前代未聞の大騒動にまで発展した。労基署に告発され、さらに地労委にも提訴された鹿目隊長であったが、新聞社の取材に対し「組合の要求には応じられない。断じて自ら身を引くようなことはしない。鹿目善輔が六十余年間、間違ったことは一つもしていない」と断固主張した。

なるほど彼の主張はこうである。「我々警備隊はマリン(海兵隊)に附属した準軍事組織である。此の組織を乱さんとする者があったら隊長の責任に於て断固たる処置を執らねばならぬ。自分たちは米軍の一部である。SRF(艦船修理廠)やPW(公共事業部)とも、一般労務者とも異なる。そういう自覚が彼等にはない、処分されるのは当然の帰結であり、隊長である自分を不当とするのはおかしい」という考え方である。当時、鹿目の自宅周辺にも「鹿目、馬鹿目」と書かれた張り紙を沢山貼られたと、遺族は語っている。

この問題に対し当時の基地司令であるトーレイ大佐は、基地内苦情処理係に対し強制労働を強要されたという問題が出されていなかったことは不思議だとしたうえで、「こちらとしては鹿目隊長を全面的に信頼している」とコメントした。基地司令が動かないことにはどうにもならない、結局この問題はこれ以上大きくならず、鹿目隊長の解任は一切なかった。

米軍基地関係者は鹿目の実直な性格と勤務態度、強い使命感から、彼を高く評価していた。このため昭和三十五年(1960年)九月二十一日、鹿目善輔が現役隊長のまま敗血症で亡くなると、彼の死を悼み「功績を称え霊を慰める」ため、日本人基地従業員に対する初めての、そして「異例の」追悼「サンセットパレード」が米海軍横須賀基地司令部の主催で行われた。

「サンセットパレード」は昭和三十五年(1960年)十月十三日夕刻、多くの米海軍将校およびその家族、そして沢山の日本人参列者の見守る中、厳粛に行われた。海兵隊音楽隊、海兵隊一個大隊、日本人警備隊二個小隊、そして軍用犬シェパード等の大部隊が、観閲台の故鹿目隊長夫人及び令弟の前を粛々と行進して敬礼を捧げ、W・K・ダペンポート海兵隊司令による日本語の挨拶のあと、海兵隊音楽隊により日本の楽曲数曲が演奏されて厳粛なセレモニーを終えた。

海兵隊司令E.L.ライマン大佐と共に月例査閲を行う鹿目隊長(昭和三十二年三月十二日)

式に参加した当時の海上自衛隊横須賀地方総監・福地誠夫(海兵五十三期)は、日本人に対する異例のセレモニーに際し「日本人として」また「旧帝国海軍の後輩の一人として」、「感激の涙を禁ずることが出来なかった」と記している。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 日本海軍史(9巻)には、高雄航海長の履歴は掲載されていない。

出典[編集]

  1. ^ a b 『海軍と日本』II海軍と政治
  2. ^ a b 『四人の軍令部総長』「永野修身」
  3. ^ 『大東亜戦争秘史』「兵備局長時代の回想」
  4. ^ 「稚松会会報第16号」
  5. ^ 『表​紙​「​重​巡​洋​艦​高​雄​​昭​和​7年9​月1​日​ - 11​月30​日」​』

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター『表​紙​「​重​巡​洋​艦​​高​雄​​昭​和​7年9​月1​日​ - 11​月30​日」』(ref:C​1​1​0​8​4​0​4​4​8​0​0)
  • 池田清 『海軍と日本』 中公新書、2010年ISBN 4-12-100632-1
  • 海軍歴史保存会編 『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
  • 外山操編 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』 芙蓉書房出版、1981年ISBN 4-8295-0003-4
  • 外山操 『艦長たちの軍艦史』 光人社、2005年ISBN 4-7698-1246-9
  • 稚松会会報第16号(1933年)
  • 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 保科善四郎 『大東亜戦争秘史 海軍中将保科善四郎回想記』 原書房、1975年
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 吉田俊雄 『五人の海軍大臣』 文春文庫、1993年ISBN 4-16-736002-0
  • 吉田俊雄 『四人の軍令部総長』 文春文庫、1991年ISBN 4-16-736004-7
  • 財団法人水交会「水交第九十号」昭和三十五年
  • 松林和子氏からの聞き取り/「松林和子家文書」
  • 神奈川新聞
  • 新横須賀市史 別冊軍事
  • 『会津人群像 第27号』 歴史春秋社、2014年ISBN 978-4-89757-832-3

関連項目[編集]