髙塚信幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
髙塚 信幸
徳島アストロズ GM #66
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県和歌山市
生年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(44歳)
身長
体重
183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手捕手内野手[1][2]
プロ入り 1997年 ドラフト7位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 徳島アストロズ

髙塚 信幸(たかつか のぶゆき、1979年8月2日[1] - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物[編集]

小学校1年生の頃から野球を始め、当初は捕手だった[1]。中学時代は和歌山シニアに所属し、その頃より投手に転向する[1]

智辯和歌山高では2年からエースとして活躍。1996年春の第68回選抜では合計5試合に登板し、140km/hを超えるストレートと、カーブのみでチームを準優勝に導く[2]。しかし、そのうち2回戦からの4試合は4日4連投(特に3試合目の準々決勝は延長13回完封)という過酷なものだった。決勝戦で打ち込まれ、準優勝に終わった[2]。その直後に開催された第2回AAAアジア野球選手権大会では中国戦に完投、台湾戦にも登板した結果右肩を痛め[3]、同年夏の第78回全国選手権に出場したものの登板はなかった。この大会後「本格的に」肩を故障[1]

1997年夏の第79回全国選手権では、チームは優勝したものの、高塚自身はかつての球威をとり戻せず、初戦の2回戦の先発でKOされて以後は、代打での出場が主だった[2]。高校通算6本塁打。

高校卒業後、社会人野球に進む予定であったが、母校の野球部の練習にバッティングピッチャーとして登板したところをスカウトに見込まれ、1997年度ドラフト会議にて近鉄バファローズから7位指名を受けた[1]。右肩痛を抱えたままの入団であったという。

1年目の1998年シーズンはリハビリに明け暮れたが、故障が癒えた2年目の1999年シーズンからはファームのローテーションピッチャーとして5勝を記録。しかし、2000年シーズンに未勝利に終わると登録を内野手へ変更し、ポジションを内野手兼捕手へ転向。2003年シーズンオフに戦力外通告を受け、トライアウトを受けず、現役を引退[1]

引退後は京都での修業を経て、2005年から妻の実家である兵庫県洲本市の寿司屋で寿司職人として勤務している[4]

2019年4月、日本野球連盟(JABA)に新規加盟した社会人クラブチーム「徳島アストロズ」のGMに就任した[5][6]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

  • 一軍公式戦出場なし

背番号[編集]

  • 66 (1998年 - 2003年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 高塚 信幸 - 真木将樹が運営するサイト「ドリームネクスト」より 2012年8月7日閲覧
  2. ^ a b c d 高校野球:球児よ壊れるな 元智弁和歌山のエース 毎日新聞 2016年2月23日
  3. ^ 田尻賢誉『智弁和歌山・高嶋仁のセオリー: 甲子園最多勝監督の勝つための法則88』 ベースボール・マガジン社、2019年
  4. ^ 高校野球【夏へのエール 高校野球100回】ひたむきに一生懸命に 中”. 朝日新聞DIGITAL (2018年6月14日). 2021年3月29日閲覧。
  5. ^ 髙塚信幸氏が日本野球連盟所属TOKUSHIMA ASTROSのGMに就任しましたことをお知らせ致します”. TOKUSHIMA ASTROS公式FBページ (2019年4月28日). 2021年3月29日閲覧。
  6. ^ Stuff 66 高塚 信幸 GM”. TOKUSHIMA ASTROS. 2021年3月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]