高辻修長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高辻正長から転送)
 
高辻 修長
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 天保11年11月29日1840年12月22日
死没 大正10年(1921年6月20日
改名 興麿(幼名)→修長
戒名 高徳院殿孤山誠忠大居士
墓所 東京都文京区吉祥寺
官位 正二位子爵
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 高辻家
父母 父:高辻以長、母:中院知子(中院通知の娘)
兄弟 学長修長西高辻信厳
山内鎮子(山内豊栄の娘)
宜麿広長
テンプレートを表示

高辻 修長(たかつじ おさなが)は、江戸時代後期の公家。維新後は華族子爵)、宮中顧問官東宮侍従長漢文学者少納言高辻以長の子。官位正二位勲一等

出自[編集]

朝廷儒道文筆をもって奉仕し、代々文章博士を世襲する堂上家高辻家に生まれる。本姓菅原姓で半家に属し、紀伝道を代々伝える。江戸期の石高は200石で、屋敷は新烏丸通丸太町上ル(現在の京都市中京区)にあった。この京都時代の墓所は浄福寺常照院にあった。

経歴[編集]

天保11年(1840年)、半家の高辻以長の子として誕生。母は中院通知の娘・知子。幼名は興麿。

安政2年(1855年)2月17日、従五位上に叙される。安政4年(1857年)1月25日に正五位下となり、安政5年(1858年)10月28日に少納言に任じられ、12月19日より侍従を兼ねる。安政6年(1859年)4月24日に従四位下となり、万延元年(1860年)12月4日より文章博士を兼ねる。文久2年(1862年)1月5日に従四位上となり、文久3年(1863年)1月22日より大内記を兼ねる。

元治2年(1865年)1月5日に正四位下となり、慶応2年(1866年)4月25日に大内記を辞する[1]。同年8月30日、廷臣二十二卿列参事件に参加し、差控を命じられた[2]明治元年(1868年)9月14日に従三位となる[1]

明治2年(1869年)から明治17年(1884年)まで明治天皇の侍従を務める。この間、アメリカで岩倉使節団に随行した[3]。その後、明宮(大正天皇)の御用掛、東宮亮、皇太后宮亮・帝室会計審査官を経て、明治31年(1898年)より東宮侍従長、明治35年(1902年)より宮中顧問官を務めた[2]。大正10年(1921年)6月20日、薨去享年82。

墓所東京都文京区吉祥寺戒名は高徳院殿孤山誠忠大居士

人物[編集]

江戸時代後期、「万延」→「文久」と、その次の「文久」→「元治」に改元する際には「令徳」を二度提案し、「元治」→「慶応」に改元する際には「平成」を提案するなど、高辻が元号の候補を提案した記録があると伝えられる[4]

栄典[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 国史大系 第11巻 公卿補任 後編
  2. ^ a b 20世紀日本人名事典
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  4. ^ “「令」含む元号、過去に2度落選=同じ人物、幕末に続けて提出”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2019年4月2日). https://web.archive.org/web/20190402070048/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040200104&g=soc 2019年4月2日閲覧。 
  5. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  6. ^ a b c 高辻修長『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考[編集]

公職
先代
中山孝麿(→欠員)
日本の旗 東宮侍従長
1897年 - 1902年
次代
木戸孝正
日本の爵位
先代
-
子爵
高辻家初代
1884年 - 1921年
次代
高辻宜麿